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韓国における農耕社会の成立

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発表 2013-1-15 20:28:28 | 全階表示 |閲覧モード
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韓国における農耕社会の成立
安 在晧(東国大学校人文大学)


The Formation of Agricultural Society in Korea
Jae-Ho AHN
Dept. of Archaeology & Art History, Dongguk University, KOREAAbstract
   Three types of agricultural societies can be recognized based on site location and tool kits during the Mummun pottery period in southern Korean peninsula. First type of the community distributed along riverine environment in the alluvial plains (e.g., the sites of Misari and Daepyongri). Second one spread on the ridges and slopes of the mountains (e.g., Packamdong site), and the last was formed on the hill side facing towards alluvial plains (e.g., Okhyun site).
   The early agricultural society developed on the alluvial plains, characterized by dwellings with square floor plan, pottery with decorative panels, and stone-adze for cultivation. This culture was indigenous development from a local Neolithic culture with the influence of northwestern Korean culture. Rice, wheat, barley, and millet were discovered at Deaepyungri site, suggesting the presence of crop-cultivation.
   The next stage of farming society is characterized by rectangular dwellings, Heunamri type pottery, and ground stone-adze for wood-cutting. Site location and tool kits suggest that the people of this culture practiced a slush-and-burn farming on the mountains. The rectangular floor house is the most common dwelling structure in the southern Korean peninsula. Each house is relatively large, having two to four hearths inside, and the houses were linearly arranged.
   The last stage of farming society is characterized by round dwellings, pre-Songgukuri type pottery, and stone-adze for wood-working. The villages were formed in a circular arrangement on the hillside. Social and economic activities might have been carried out in a unit of two to four households in a community. Wet-rice cultivation started in this period. This culture was developed under the influence of Bronze age culture in northeastern China.1 集落の立地と農耕の形態
 韓半島で農耕が始まったのは前4千年頃で、黄海北道智塔里遺跡第2文化層から見つかった穀物遺存体と石鎌・石鋤などの農具が根拠となっている。一方、韓半島中部以南の地域では、無文土器時代に農耕社会が成立する。その根拠は、これまで収穫用の石刀に求められてきたが、近年、慶尚南道南江ダム建設に伴い調査された大坪里遺跡と、蔚山玉■遺跡から畠と水田跡が見つかったことから、この時期の農耕の形態をある程度推測することができるようになった。
 後藤直は、無文土器時代の集落立地を、農耕活動の環境的側面と人文地理的側面から5つに類型化しているが〔後藤1994〕、本報告では集落の立地を3つに類型化した。
 1) 河川周辺の平地に形成された集落
 沖積地に畠を造る。晋州大坪里遺跡(Fig.1-2)を代表とする。河岸段丘上に立地する大部分の集落がこれに属する可能性が高い。大坪里遺跡の畠は、すべて河岸に形成された砂丘の低い斜面に造成され、アワ・トウキビ・ヒエ・キビなどの雑穀類、オオムギ、マメ類が検出され、住居跡からはコメも出土している。
 2) 山地に形成された集落
 天安白石洞遺跡(Fig.2-1)を典型的な例とする。平地からの比高が40~70m程度ある、高い山の稜線、あるいは斜面に位置し、山岳地帯を背後に背負う。出土したコメや、イネの籾痕土器から稲作が想定されるが、立地からみて焼畑中心と考えられる。
 3) 平地に面した低丘陵上に形成された集落
 蔚山玉■遺跡(Fig.5)を典型的な例とする。丘陵と接する平地あるいは谷部に水田が造成される。
 各遺跡から出土した石斧の組成比(Fig.3)を調べ類型ごとの農耕形態を推定してみよう。もし、焼畑が中心であったら、伐採用の蛤刃石斧の使用が頻度を増すし、水田耕作の場合なら木製農具の製作に必要な片刃石斧が優勢となるはずである。また河岸の砂地を耕す場合は山地や湿地で不利な打製石斧が優勢となる。したがって片刃の磨製石斧の比率が高い松菊里遺跡は水稲耕作、蛤刃石斧の比率が高い白石洞遺跡は焼畑、打製石斧の比率が高い美沙里遺跡は畑作中心と考えられる。
 実際には、Fig.4でみたように3類型以外にもその中間型といえるものが数多く存在する。その中の一つである欣岩里遺跡は、立地上、焼畑に適した環境ではあるが〔崔ほか1985〕、片刃石斧の比率が高い点が例外的である。前面に造成された河岸段丘上で農耕がおこなわれていた可能性ものこされている。
c62 農耕社会の形成
 まず注目すべきは、いわゆる「突帯文土器」が出土する遺跡の存在である。現在まで、ソウル▲沙里遺跡、忠北黄石里遺跡、慶北金陵松竹里遺跡、慶南晋州大坪里遺跡、同召南里遺跡、同泗川本村里遺跡、済州道上●里遺跡で出土している。報告書が出ている▲沙里・上●里遺跡以外は詳細がわからないが、すべての遺跡から欣岩里類型の遺物が出土し、平地性の集落である点が注目される。
 このうち、欣岩里類型の土器より古い突帯文土器とみられる▲沙里と大坪里の例から推測すると、在地系ともみられる櫛目文土器(Fig.1-5)と外来系とみられる突帯文土器(Fig.1-6~10)が共伴していること、孔列文系土器と共伴しない点、無茎式石鏃(Fig.1-13~15)の鏃身が短く断面形態が凹状であるのに比べて、孔列文系土器と共伴する無茎式石鏃(Fig.2-15)との間には差があること、などからみて古式の突帯文土器と考えられる。
 ▲沙里遺跡の突帯文土器期の住居跡(▲沙里式住居、Fig1-4)は、平面が方形で、櫛目文土器時代の一般的な炉である囲石式炉をもつが、炉の位置は櫛目文土器時代とは異なっている。▲沙里式住居は無文土器時代には韓半島の西北・東北地域だけにみられる。遺物との関連からみて、鴨緑江流域の西北地域との関連が深いと考えられる。
 ▲沙里遺跡と大坪里遺跡で見つかった▲沙里式住居と併存するのが、館山里式住居(Fig.2-2)である。これは平面が細長方形で、炉を2基以上もち、欣岩里類型の土器(Fig.2-5)が出土する住居型である。欣岩里類型の形成については、異論が提起されているが〔大貫1997〕、館山里式住居は韓半島南部で変容して形成されたものである。しかし、あえて韓半島北部で類例を探せば、無文土器時代に属する大同江流域の丘陵性集落である石灘里遺跡で見つかった、平面方形で、2基の竪穴式炉をもつ住居をあげることができる。
3 農耕社会の展開
 水稲農耕を中心とする丘陵性集落の出現は、松菊里類型の石器が出現する時点からと考えられる。この画期を無文土器時代中期の始まりとみるわけだが、主な文化要素は以下の通りである。
 前期の集落が並列状に分布し、館山里式住居に代表されるような、大形で大家族で住むのに適しているのに対し、中期になると集落の中心部に密集して環状の分布をとり、2~4軒を1単位とする、世帯共同体的様相を帯びる。環壕集落が現れるのもこの時期で、このような集落構造と関連すると考えられるが、究極的には中国東北地域の青銅器文化の影響を受けたことによって、社会と農耕技術が飛躍的に発展したことによると考えられる。有段石斧や三角形石刀などの農具の改良とあわせ、先松菊里式住居の出現などともに、南部地域の個性がつよく現れている。
 水稲農耕と環壕集落の出現とは、必ずしも関連したものとはいえないが、このような道具体系の変化と密接な関係があることは間違いないと考える。
 またこの時期から、青銅器の所有、多数の石棺墓と少数の支石墓という墓地構成、および大規模な埋葬主体部の採用、集落内に少数の大形家屋が建設されるなど、有力な個人、あるいは有力集団の出現を示す証拠と考えられる。
 参考文献
 大貫 静夫 1997:「欣岩里類型土器の系譜論をめぐって」(『東北アジアの考古学』第2、71-93).
 後藤  直 1994:「朝鮮半島原始時代農耕集落の立地」(『第四紀研究』33-5).
 崔  夢龍ほか1985:「◆州欣岩里先史聚落址出土石器類Ⅱ」(『古文化』)26).

韓国における農耕社会の成立

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