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日本とブラジルの120年-外務省外交史料館

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発表 2015-11-28 21:56:27 | 全階表示 |閲覧モード
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日本とブラジルの120年
会場:外務省外交史料館
〒106-0041東京都港区麻布台1-5-3
TEL:03-3585-4511
会期:2015年10月13日~2016年03月31日

日本とブラジルの120年-外務省外交史料館

日本とブラジルの120年-外務省外交史料館

日本とブラジルは1895(明治28)年11月5日、「日伯修好通商航海条約」調印により外交関係を樹立しました。2015年は120周年の節目の年に当たります。日本とブラジルの長きにわたる伝統的な友好関係は、両国民間の交流と絆によって力強く支えられています。
 2014年8月、日本・ブラジル首脳会談で安倍晋三総理大臣とルセーフ(H. E. Ms. Dilma Vana Rousseff)大統領は、外交関係樹立120周年を迎えることを契機に、両国関係をさらに強化・深化するため、記念行事を実施することを確認しました。これを受けて、日ブラジル外交関係樹立120周年を記念する行事が様々な形で実行されています。
 外交史料館では、この機会に近現代における両国の交流の歴史をたどり、どのように両国が友好関係を構築したのかをテーマに、当館所蔵史料によって現在の友好関係の源泉をひも解いていく特別展示「日本とブラジルの120年」を開催します。
 2015年をお互いの理解を一層深める年として、様々な分野で、日本とブラジルの交流がさらに促進され活発化していく一助になれば幸いです。
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 スレ主| 発表 2015-11-28 21:59:56 | 全階表示
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「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」
朝の1895(明治28)年11月5日、パリにおいて、曾禰荒助(そね・あらすけ)駐仏日本公使とアルメイダ(Gabriel de Toledo Piza E Almeida)駐仏ブラジル公使との間で「日伯修好通商航海条約」(「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」)が調印されました(同条約をもって正式国交樹立)。この条約は1897(明治30)年2月に批准書交換が行われ、ブラジルに日本公使館が設置され、8月には初代公使珍田捨巳(ちんだ・すてみ)が着任しました。 「日伯修好通商航海条約」は、「永久堅固ノ和親」の精神に基づき日本とブラジルの地理的な距離を乗り越えて両国の発展の礎となった条約です。この条約を締結した後、日本から多くの移民がブラジルの地に渡りました。日本移民は遠く異国の地で様々な苦楽を経験しました。現在まで続く友好関係の原点は、そうした先人たちの苦労の上にあるといえます。

日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約-批准書

日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約-批准書

日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約」批准書

日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約-収納箱

日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約-収納箱

「日本国及伯剌西爾国間修好通商航海条約」収納箱
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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:04:53 | 全階表示
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I 「伯剌西爾」(ブラジル)との出会い
 1861(文久元)年、海軍操練所教授であった榎本武揚(えのもと・たけあき)は、幕府の発注した軍艦「開陽丸」の建造監督を兼ねてオランダに留学しました。榎本は1866(慶応2)年に留学を終え、開陽丸に乗って帰朝途中の翌年1月21日(同12月16日)年、リオデジャネイロに寄港しました。開陽丸は同地で「甚々宜しき風聞を得たり」と、幕末外交史料集『続通信全覧』の「荷蘭(オランダ)製造軍艦開陽丸一件」に記されています。
 その後、新政府に出仕した榎本は、北海道開拓使、駐露公使、駐清公使などを経て1891(明治24)年に外務大臣となり、条約改正事業にあたる一方、外務省に移民課を設置して移民事業に意欲を見せました。また、外務大臣辞任後の1893(明治26)年には「殖民協会」を設立し、移住地建設計画に取り組みました。
 同年、殖民協会会員でもあった外務省通商局の根本正(ねもと・しょう)はメキシコに赴き、同国の地質・気候・国情などにつき調査しました。根本はさらに1894(明治27)年7月、ブラジル・ニカラグア・グアテマラの調査にも向かいました。実に234日をかけた調査の内容は、その報告書である「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」(注)に詳細に記されています。この報告書において根本は、ブラジルのサンパウロ州が「土地豊饒気候温和」であり、「法律正明ニシテ山野ヲ旅行スルニモ短銃ノ携帯ヲ要セズ」と評し、同地が移民に適していることを述べました。
(注)伯剌西爾=ブラジル
尼加拉瓦=ニカラグア
瓦地馬拉=グアテマラ
ゴアデロプ=現在のフランス領グアドループ島

榎本武揚

榎本武揚

榎本武揚

「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」 ・・・「サン・パロ」(サンパウロ ...

「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」 ・・・「サン・パロ」(サンパウロ ...

「南米伯剌西爾、中米尼加拉瓦、瓦地馬拉、西印度ゴアデロプ探検報告」
・・・「サン・パロ」(サンパウロ)州ハ土地豊饒気候温和ニシテ人情風俗モ亦或ル拉丁(ラテン)亜米利加国ト相異ナリ法律正明ニシテ山野ヲ旅行スルニモ短銃ノ携帯ヲ要セズ本州ハ真ニ世界無比ノ珈琲栽培地ナリ・・・
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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:08:04 | 全階表示
II 日伯修好通商航海条約調印
 19世紀初頭にポルトガルから独立したブラジル帝国は、1888(明治21)年、欧米にならって奴隷解放を行いました。しかし、そのために生じた労働力不足は農園主の不満を招き、それに端を発した革命により、翌年帝政から共和制に移行しました。その後ブラジル合衆国政府は、移民を労働力として積極的に受け入れました。また1894(明治27)年からは、移民送出を希望する各国の移民会社はブラジル各州の政府と個別に契約することとなりました。
 ブラジル側では日本移民の受入れ態勢が整っていましたが、両国間には正式な外交関係が無いとの理由から、日本はブラジルからの移民送出要請に応えることができませんでした。先述のように1895(明治28)年11月5日、パリにおいて、曾禰荒助(そね・あらすけ)駐仏日本公使とアルメイダ(Gabriel De Toledo Piza E Almeida)駐仏ブラジル公使が「日伯修好通商航海条約」に調印し、外交関係が樹立されました。初期の駐ブラジル日本公使の主な任務は、ブラジルが移民送出に適するかどうか調査することでした。ブラジル公使館が設置された明治30年代前半にはコーヒー価格の暴落による恐慌があり、そのため初代公使珍田捨巳(ちんだ・すてみ)、第二代公使大越成徳(おおこし・なりのり)はいずれもブラジル移民送出には慎重でした。この見方を転換したのが第三代公使杉村濬(すぎむら・ふかし)でした。杉村は1905(明治38)年6月30日に提出した「南米伯剌西爾サンパウロ州移民状況視察復命書」で、北米やハワイで排斥されていた日本移民にとり、サンパウロ州が新たな移住地として「天与の楽郷福土」になると期待しました。この「復命書」は外務省の『通商彙纂』(注)に掲載され、新聞にも報じられたため、移民に熱意を持つ人々から多大な反響がありました。杉村公使は在任中の翌年5月21日、病気により急逝し、現地に埋葬されました。
 (注)『通商彙纂』:海外通商事情に対する国内関係者の関心の高まりをうけ、情報を周知するために外務省通商局が刊行、各府県や商工会議所に配布したものです。

「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」(調印書)

「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」(調印書)

「日本国及伯剌西爾合衆国間修好通商航海条約」(調印書)
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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:11:25 | 全階表示
III 笠戸丸と初期移民
 日伯修好通商航海条約締結後、東洋移民会社、日本移民会社などの移民会社がサンパウロ州との移民契約に臨みましたが、コーヒーの価格暴落などにより関係者の警戒心が高まり、いずれも結実しませんでした。最初にブラジル移民を実現させたのは、水野龍(みずの・りょう)の設立した皇国殖民合資会社でした。水野もまた杉村公使の報告書を読み、ブラジル移民実施の機が熟しつつあるのを感じていました。水野は実地調査のため単身渡伯し、サンパウロ州と契約を結んで日本移民送出に至りました。水野自身も乗船した第一回移民船笠戸丸は、781名の移民を乗せて1908(明治41)年4月28日に神戸を出航し、同年6月18日にサントスに到着しました。 第一回移民の成否はブラジル移民の今後を左右する大問題であったため、在ブラジル公使館は日本移民の雇用形態、生活、収入などの状況に目配りし、次々と外務省に調査報告書を送りました。サンパウロ州の移民事情について野田良治(のだ・りょうじ)公使館二等通訳官が1909(明治42)年に作成した調査報告書は、ブラジル側が「コーヒーコロノ」(コーヒー園での契約労働者)を求めていたにもかかわらず、コーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1に過ぎなかったため、今後の渡航者の選出に一考を要すると述べています。第一回移民については他方面からも同様の批判があり、農業者だけを選ばなかったことや家族組織が不完全であったために離散を生じたという指摘に対し、水野龍は外務省に提出した報告書で反論しました。
 その後、渡航回数を重ねるごとに移民の状況は改善され、日本移民の評価は次第に高まりました。

笠戸丸移民名簿

笠戸丸移民名簿

笠戸丸移民名簿
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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:13:39 | 全階表示
IV ブラジル独立百年祭
 1922(大正11)年9月、ブラジルでは、ポルトガルからの独立百年を記念した祭典が催されました。当時、南米隣接諸国間では大統領就任式などの祝賀には互いに軍艦・特派使節を派遣するのが慣例となっており、同祭典にも米州諸国が特使の派遣を予定しているとの情報が日本政府に伝えられました。ブラジル側からも特使派遣の要請があったため、日本政府は、この式典に海軍練習艦三隻(「浅間」・「磐手」・「出雲」)を派遣するとともに、当時の駐伯公使堀口九萬一(ほりぐち・くまいち)を特派大使に任命して参列させました。
 練習艦三隻は9月3日にリオデジャネイロに入港しました。同6日に特派大使の国書奉呈式、独立記念日の7日には独立記念万国博覧会(日本も出品)開会式があり、その後も観艦式及び晩餐会、舞踏会など9月16日まで連日公式の催しが続きました。
 また、独立百年の記念として、在留邦人の寄附によりリオデジャネイロ市の大通りAvenida Rio Brancoに島田佳矣(しまだ・よしなり)帝国美術学校教授のデザインした豪奢な金灯籠の建立が計画されましたが、資金繰りの目途がつかなかったため実現しませんでした。

ブラジル独立百年祭に特派使節派遣の閣議決定

ブラジル独立百年祭に特派使節派遣の閣議決定

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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:16:16 | 全階表示
V 移民社会の発展
 1924(大正13)年のいわゆる「排日移民法」によってアメリカへの移民が禁止されたことで、ブラジルは移民送出先として一層注目されました。また、1923(大正12)年にブラジル移民に対する渡航費補助が開始され、移民数は年々増加しました。戦前最多の23,299人を送り出した1933(昭和8)年には、ブラジル移民開始から25周年の記念式典が行われました。式典では、移民社会発展に尽くした功労者に表彰状が贈られ、記念の銀杯やポストカードも作製されました。また、日本政府は、ブラジル移民事業創設者として、水野龍と上塚周平に勲章を授与しました。上塚は、皇国殖民合資会社代理人として笠戸丸で水野とともに渡伯した人物で、「ブラジル移民の父」といわれています。上塚が詠んだ「夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ」は、初期移民の苦労を綴った句として知られています。
 ブラジル移民25周年記念式典では、移民開始初期から建設が望まれていた日本病院の定礎式も行われました。この病院建設のためには、内山岩太郎(うちやま・いわたろう)駐サンパウロ総領事が宮内省に下賜金を願い出るなど尽力し、重光葵(しげみつ・まもる)外務次官に支援を求める書翰を送っています。その結果、1934(昭和9)年には宮中より金5万円の下賜がありました。また、日本での後援会も発足し各所より義捐金が寄せられ、移民たちも献金を行いました。設計図案は日本側で何度か練り直されましたが決まらず、最終的にはレゼンデ・ピュッシュ(Resende Puech)サンパウロ医科大学副学長に依頼し、日本外務省派遣の建築技師と共に検討した結果、病床150~200を備えるL字型、総建築面積7,125m2、地階を含め6層構成の鉄筋コンクリート製と定まりました。また、鉄筋などの資材は日本から輸送されました。

移民募集のポスター

移民募集のポスター

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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:21:56 | 全階表示
VI 経済・文化交流
 1935(昭和10)年、川崎造船社長の平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)を団長とするブラジルへの経済使節団が派遣されました。本使節団派遣は、両国経済関係の促進を主眼としていましたが、同時にブラジル新憲法の移民制限※を緩和する親善使節としての役割も期待されました。使節団との協議において、当時コーヒー輸出が不振であったブラジルは、綿花輸出により自国側の入超であった貿易の均衡を図ろうとし、使節団もブラジル綿業が今後有望であるとしてこれに理解を示しました。使節団はブラジル各所を視察した後、同国外務省委員との間に通商に関する各種勧告、決議、宣言を採択して帰国しました。使節団団長を務めた平生は、帰国後の同年12月5日、昭和天皇に日伯貿易に関する御進講を行いました。平生の御進講草案には、ブラジル国民は概して親愛的で、ブラジルには移民制限はあるが排日なるものは無い、と記されています。 また翌1936(昭和11)年には、訪伯使節団への答礼としてブラジルからも使節団が来日し、日本の商工関係者と通商関係促進に関する協議を行いました。日本各地を巡遊し歓迎を受けました。ブラジル経済使節団の副使節が記した滞日印象記には、「ブラジル人のハートと日本人のハートが触れ合った」と感激ぶりが示されています。
ブラジルの移民制限問題 外交関係樹立以来、日本とブラジルの関係はおおむね友好的でしたが、移民問題をめぐって摩擦もありました。ブラジルの移民制限は1923(大正12)年にレイス(Fidelis Reis)下院議員が提出した欧州移民奨励・有色人種移民排斥を基礎とする移民制限法案によって国家的な問題となりました。
 レイス法案は廃案となりましたが、1930(昭和5)年からのサンパウロ護憲革命で設置された新憲法起草委員会が提出した憲法草案には移民制限条項が含まれ、1934(昭和9)年にそのまま可決されました。この条項は、移民の毎年の受入数を、過去50年間で定住した移民数の二分(2%)に各国一律に制限することを規定しており、当時最多であった日本移民を標的としたものとみられました。これに対し、日本政府は遺憾の意を表する覚書を発しました。

「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」批准書

「文化的協力に関する日本国ブラジル国間条約」批准書

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 スレ主| 発表 2015-11-28 22:24:24 | 全階表示
VII 戦後の交流
 1942(昭和17)年、日本とブラジルの外交関係が断絶し、1945(昭和20)年6月にブラジルは日本への対日宣戦布告を行いましたが、まもなく、日本は終戦を迎えることになりました。
 明治期以来良好な関係を継続してきた両国は、戦後においても再び経済や文化面から友好関係の模索を開始しました。政治面においては、1951(昭和26)年9月8日に署名された、サンフランシスコ平和条約が、翌年4月28日発効したことにより、両国の外交関係が回復しました。同年9月には君塚慎(きみづか・しん)が戦後初の駐ブラジル国大使として着任しました。
 1954(昭和29)年にサンパウロ市400年祭が開催され、岡崎勝男外相がブラジルを訪問しました。日本は慶祝親善使節団を派遣し、国際見本市への日本製品の出品、日本館の建設、日本切手展、日本祭りなどを行いました。
 こうして日本とブラジルの良好な関係が取り戻されていくで、岸信介総理は1959(昭和34)年7月にブラジルを訪問しました。岸総理とジュセリーノ・クビチェック・デ・オリベイラ(Juscelino Kubitchek de Oliveira)大統領は27日に共同宣言を発表しました。このなかで「日伯経済関係が投資、移住及び貿易のごとき諸部門が相互に関連する有機的な形で更に一層緊密化しつゝ発展」するとの希望が表明されました。
 このような政治、経済、文化面における両国関係の進展によって、1960(昭和35)年11月14日、リオデジャネイロ市で安東義良駐ブラジル大使とオラシオ・ラフェール(Horacio Lafer)外務大臣日本とブラジルの両代表は「移住および植民に関する日本国とブラジル合衆国との協定」に署名しました。この協定は、日本では翌年4月12日国会の承認を得、ブラジルでは1963(昭和38)年5月30日に上下両院の承認を得て、10月29日東京で批准書が交換されました。
 本協定では、移住に関する両国間の協力を調整し、それぞれの利益に合致する形で移住を組織化することが必要であるとの認識のもと、日本人の技術と労力の活用によるブラジル合衆国の経済開発を目的とし、国際協力の精神に基づいた適切な政策を実施することが両国の伝統的な友好のきずなを強化することにつながると明記されています。

「移住および植民に関する日本国とブラジル合衆国との間の協定」

「移住および植民に関する日本国とブラジル合衆国との間の協定」

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