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黄河流域における農耕の起源:現象と仮説

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発表 2013-1-15 20:17:28 | 全階表示 |閲覧モード
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黄河流域における農耕の起源:現象と仮説
陳  星燦(中国社会科学院考古研究所)
The Origin of the Agriculture in Huang-He Valley
: Phenomenon and Hypothesis
Xingcan CHEN
  The Institute of Archaeology, Chinese Academy of Social Science, CHINA
Abstract
   The objective of this paper is to identify the source of agriculture in the middle and lower reaches of the Huang-He. There is a very remarkable cultural phenomenon in China's prehistoric age. The pre-Yang shao culture of the Shanxi region in the midstream reaches of the Huang-He is unknown. The Paleolithic culture of the Shanxi region was very developed. To date, over 300 ruins and sites have been discovered. There are over 90 ruins containing paleolithic from the latter period of that era. However, what is strange is that evidence of pre-Yang shao culture (8500 to 7000 years ago) has not been discovered in this region. This phenomenon contrasts with those occurring around areas such as Henan, Shaanxi, Hebei and Shandong. Also, the Paleolithic culture that thrived in this area is very different from the splendid Yang shao culture. From the existing evidence it is difficult to think that the cause of this discrepancy is insufficient archaeological study to date. It is possible there may be some relationship to the unique geography of the Shanxi region and its natural environment. This paper will attempt to analyze, research and offer a rational explanation for this unique cultural phenomenon. Analysis of this report may be useful when estimating the phenomenon of the late development of agriculture in the Japanese archipelago.
1 新石器時代早期文化の発見
 1970年代後半に入ると、黄河中・下流域の陜西、河南、河北、山東で100ヶ所以上の前仰韶文化に属する遺跡が発見された。
 陜西地区では老官台文化(前仰韶文化相当)に属する遺跡が40ヶ所以上に及んでいる。これらの遺跡は山よりの、川に臨んだ比較的に高い台地、あるいは2つの川が合流する所に立地する。面積は1~2万㎡であり、文化層の厚さは1m以下で、今から8000~7000年前に位置づけられる。
 河南地区では裴李岡文化(前仰韶文化相当)の遺跡が105ヶ所みつかっている。これらの遺跡の立地は陜西地区の老官台文化の遺跡に類似する。海抜は200m以下であり、今から8500~7500年前に比定される。
 山東地区では後李文化(前仰韶文化相当)に属する遺跡が8ヶ所みつかっている。これらの遺跡は山に近い平原に立地し、海抜は50mぐらいである。今から8500~7500年前に位置づけられる。
 河北地区では磁山文化(前仰韶文化相当)に属する遺跡が5ヶ所発見されている。また、早期に属する遺跡(磁山文化の遺物とかなり似ている靴形陶支架、筒形陶盂が出土した)も見つかっていて、磁山文化あるいは磁山文化の特徴をもつ古文化がかなり広い範囲に分布することがわかった。磁山文化の年代は今から8000~7500年前である。
 そのほかに、今まで知る限りもっとも古い新石器時代の遺跡が2ヶ所を見つかっている。河北徐水南荘頭(10510~9700kaB.P.)と山西陽原于家溝(11870±1720B.P.熱ルミネッセンス法測定土器片)である。この2ヶ所で土器片が出土し、南荘頭遺跡ではブタ、イヌの骨が出土したと報告されている。しかし農耕の証拠はまだ十分とはいえない。
 以上の地区に比べると、山西地区はまったく様相が異なる。今まで知る限り、この地区では磁山文化に属する石磨盤、石磨棒が各1点収集されているだけで、前仰韶文化に相当する遺跡は1ヶ所も見つかっていない。
2 旧石器時代晩期末の文化の発見
 陜西地区の旧石器文化は2つの地域に分布する。1つは陜西中・北部、もう1つは陜西南部である。旧石器時代早・中期に属する遺跡は中部と南部に分布し、晩期の遺跡は北部に比較的多い。
 旧石器時代の遺跡が分布する地域と老官台文化の遺跡が分布する地域を比較すると、陜西中部では河谷平原に新石器時代の遺跡が拡張しているのに対し、旧石器時代の遺跡はほとんど見つかっていない。逆に旧石器時代晩期の遺跡が分布する陜西北部には老官台文化の遺跡をほとんど見つけられなかった。
 河南地区では旧石器時代に属する遺跡が30ヶ所以上見つかっている。旧石器時代の遺跡が分布する地域には裴李岡文化の遺跡はほとんど見つかっていない。注意すべきは舞陽大岡裴李岡文化層の下に細石器がみつかり、裴李岡文化層と細石器層の間に侵食層があって、裴李岡文化層と細石器層の間に時間の欠落が見られることである。
 山東地区では細石器、石片石器、大型●●器を出土する地点が100ヶ所以上知られている。しかし大部分の遺物は採集されたものであり、正式に発掘されたものは少ない。石器が散布する地点は低山丘陵と川の2級台地に分布する。年代測定はおこなわれていないが、大多数の地点が旧石器時代晩期あるいは新石器時代に属すると考えられている。
 河北地区では旧石器時代に属する遺跡と散布地がみつかっている。晩期末に属するのは陽原虎頭梁、油房、西白馬菅と孟家泉など4ヶ所である。これらの遺跡から出土した石器は主に細石器、石片石器である。虎頭梁の年代は今から10690±210年であり、西白馬菅が18000±1000 B.P.、15000±1000B.P.(●系法)である。
 今まで知る限り、山西地区は中国全土で旧石器時代の遺跡と散布地がもっとも多く見つかっているところである。その数は300ヶ所を超えている。そのうち発掘したのは30ヶ所である。旧石器時代晩期に属する散布地は90ヶ所以上に達する。晩期末に属する遺跡は下川、薛関、柿子●である。
 下川遺跡の年代は今から24000~16000年前で、その生業は狩猟を主とし、採集がつづく。薛関遺跡は今から13550±150年前である。出土する石器は下川と似ている。柿子●の年代は今から16000~10000年前(AMS14C)である。旧石器時代から新石器時代に移行する段階に属する遺跡である。
3 文化断層と農耕発生
 今から1万年前の旧石器時代末期から8500~7000年前の前仰韶文化までに、黄河流域の人びとは、採集・狩猟経済から生産経済に転換する。この変化は「革命」、「突変」などの言葉で表現することができる。南荘頭遺跡と転年遺跡(北京に位置する)は約1万年前に比定される。遺跡からは土器、石磨盤、石磨棒などが出土し、特に南荘頭遺跡ではブタ、イヌなどの家畜の動物遺体が見つかったと報告されている。しかし、農耕がおこなわれていた証拠はきわめて少ない。逆に出土した野生動物の遺体と骨鏃、骨錐からみると、採集・狩猟が主な生業だったと考えられる。
 これらの遺跡と前仰韶時代の房屋建築、大型ピット、アワ、イネの栽培(河南舞陽賈湖)、機能的に分化した土器と比べてみると、南荘頭遺跡と転年遺跡は狩猟経済の段階に属し、せいぜい一時的に定住する段階にとどまっていたと考えられる。実際に、南荘頭遺跡と転年遺跡は下川、虎頭梁、薛関、柿子●などを代表とする旧石器時代末期文化に属する遺跡とよく似ている。ただ旧石器時代末期文化に土器が伴うか伴わないかの違いでしかない。
 変化段階の文化および発展の過程はまだ重視されていない。黄河流域と北方地区では全般的に文化の欠落が存在する。前仰韶時代の農耕文化が突如として現れたようにみえる。これは理解しにくいことである。
 もし、自然環境が要因とすれば、最終氷期以後におこった大きな気候変化と関係があるかもしれない。最終氷期以後は、降水量が多く、洪水が多かった。台地あるいは山の前面の地域に強い侵食を引き起こした。砂礫の堆積あるいは更新世晩期のマラ黄土を洗うことによって、中国北方地域における完新世下部に局部不整合の状況を形成する。板橋期侵食といわれるものである。
 地質学者は板橋期侵食によって不安定な環境が形成され、当時の人びとが低谷地域に生存できなくなり、洞窟もつねに崩落の危機にさらされ理想的な居住地にならない。したがって中国の北方地域で新石器時代早期の遺跡を探すのは大変難しいと考えられる。
 新石器時代早期の中・晩段階に入り侵食活動が小康状態になると、当時の人びとは完新世早期の黄土が存在するところを居住地として選択した。地質学者は、この気候の激変こそが人びとの生存できる空間を限定し、生業を変えなければならない状況に追い込んだため、狩猟・採集生活から農耕生活に転換したと考えている。
4 山西地区における前仰韶文化の空白
 山西地区における前仰韶文化の空白は黄河流域における先史文化の謎の1つである。山西地区には旧石器時代の遺跡が多く存在し、山西地区の周辺地域には前仰韶文化の遺跡も多い。山西南部が仰韶時代に廟底溝類型の核心地域になったことと比べると、この空白は非常に注目される。野外調査の不足では説明できないと考えている。前に述べた山西地区では、磁山文化に属する石磨盤、石磨棒が各1点しか収集されていないので、将来的にもこの地区で前仰韶文化の遺跡が見つかることは難しいと考える。板橋期侵食があっても、人びとがこの地区から離れたとは考えにくいからである。
 環境・気候などの自然要因が以上の現象をもたらしたのではないかと考えている。
 ここで、まず現代の山西地区の自然環境について述べる。山西地区は黄土高原にあり、山地、高原、丘陵、盆地などから構成される。中央の盆地と谷地の標高は低く、ほかの地域の標高はすべて1000m以上ある。この地区には山地と丘陵が多く、平川が少ない。南部の盆地を除いて土壌の質がよくない。気温は同じ緯度にある河北平原よりも低い。
 山西地区の山地を主な地形とする環境が、人びとの生存にいろいろな動植物資源および洞窟、石材を提供する一方で、文化の発展を制約するのも事実である。山地は旧石器時代晩期に人びとにとって必要な生活資源を提供することができた。しかし全新世に入ると、気候変動が大きくなって、地形と動植物に大きな影響を与えることになる。一部の人びとは低温環境に生存する動物を捕るために、さらに北のほうに移動している。一方、この地域に残った人びとは新しい自然環境に適応し生存し続けた。人口圧がなく、相対的に豊富な動植物資源をもちえたため、農耕をおこなう必要性はなかったようである。
 しかし周辺の新石器時代文化の影響をうけ、今から7000年ほど前には安定した気候を背景に、山西地区の人口は増加し、また、周辺地域の人口圧も受けて、最終的に農耕生活の道に入った。
 相対的にいうと、山西地区の周辺地域(山東、河南)には山地が少なく、広い平原が存在する。山地は当時の人びとが必要とする資源を供給する能力が限られていた。
 徐々に好転した気候条件が人びとの生存、人口増加に最適な環境を提供し、これによって人口が増加した。人びとは旧石器時代晩期に山前平原に移動し活動を始める。後李文化、裴李岡文化の時期に、人びとは徐々に山地から離れ、河谷を通って平原地域に拡張した。最終的にそこで農耕経済が生まれ、人類の歴史上に位置づけられるという意味で1つの飛躍をおこなったのである。

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