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宋趙匡胤とは【そうちょうきょういん】 編集 コメント書込み(0)

宋趙匡胤
宋趙匡胤
【和:そうちょうきょういん
【中:Song zhao kuang yin
宋・遼・金・元|歴史人物>宋趙匡胤

(九二七~九七六年)
  五代十国時代に幕を引いた宋の初代皇帝。
五代十国時代を終息させた宋の建国の祖は、後周の軍の指導者・趙匡胤である。後周の世宗が亡くなると、即位した皇帝(恭帝)はわずか七歳。当然、統治などできるはずがなく、その母の言いなりになった。それを知った遼と、滅びた後漢の劉一族が建てた北漢とが連携して中原に攻め込んできた。このままでは遼によって中国が侵略されてしまうと危機感を抱いた軍の将卒たちは、真夜中にクーデターを起こした。そして彼らの将である趙匡胤に対し、「いまこそ皇帝に立つべき」と説得し、帝位につかせたのである。部下に推挙されて皇帝になるという、ある意味できわめて民主的な方法での皇帝誕生だった。趙匡胤は、全軍に対し無条件で自分に服従することを誓わせると、それを条件にして皇帝になった。国号は宋である。建国は九六〇年。
それから、越匡胤(太祖)は中国統一へ向けて動き出した。しかし、江南の呉越と北漢は征服できないまま、九七六年に亡くなった。後を継いだ弟の代の九七九年にその二国も宋の支配下に入り、ようやく中国の平定は終わる。だが、通がまだ健在だった。そのため、常に北からの脅威にさらされることになる。
五代の時代の混乱、さらに遡れば唐王朝崩壊の原因は、地方を守る節度使に軍事力と経済力を与え、独立国化させたことにあつた。宋王朝としては、この節度使の権限と兵力を弱め、中央集権化することを目指したが、急な改革は反発を呼び、またも反乱を招きかねない。そこで、節度使が死ぬと、その後任を軍人ではなく文官にするという、緩やかな交代方法をとつた。
これにより、皇帝権力は強くなったが、軍事力が弱体化した。中国の皇帝は常にこの矛盾にぶちあたる。辺境の地の防衛力を高めると将来の反乱軍を生むことになってしまうのだ。そこで軍事力を強化しないで、異民族との戦争を避けることを目的とした外交政策がとられた。宋の時代、経済は活性化した。文化も華やかに栄え、黄金時代を迎えた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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