名称:「中川禄郎―井伊直弼を支ささえた儒学者」彦根城博物館
会期:令和3年7月17日[土]~8月17日[火]
住所:〒522-0061滋賀県彦根市金亀町1-1
TEL:0749-22-6100
URL:彦根城博物館
中川禄郎(なかがわろくろう、諱:禄、号:漁村(ぎょそん)、1796~1854)は、彦根藩井伊家12代当主直亮(なおあき)の時代に召し抱えられ、13代直弼にも仕えた、江戸時代後期の儒学者です。国学者として藩に仕えた小原君雄(おはらきみお)を父に持ち、10代後半頃には薩摩村(現彦根市薩摩町)にある善照寺(ぜんしょうじ)の寺侍(寺院に仕える武士)となっていた中川勘解由家(なかがわかげゆけ)の養子に迎えられました。幼い頃から藩儒の平尾芹水(ひらおきんすい)や伴東山(ばんとうざん)らに漢学や古学を学び、20代の頃に諸国を遊学、京都で頼山陽(らいさんよう)や猪飼敬所(いがいけいしょ)に師事して様々な知見を備えた儒学者に成長、そして天保13年(1842)12月、藩儒として召し抱えられます。
それ以降、禄郎がとりわけ深く関わった人物の一人が藩主直亮の世子であった直弼です。「人君」について直弼から問われた際に禄郎が献上した書物「蒭蕘之言(すうじょうのげん)」は、目指すべき藩主の姿や藩政の課題を述べたもので、直弼が藩主として必要な知識や考え方を身に付ける上で、またその後の直弼の藩政運営に大きな影響を及ぼしました。さらに、禄郎は江戸在府中の資金繰りに苦慮した直弼に資金援助の仲介も行うなど、直弼からの信頼を得ていきます。
そして、嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる米艦隊の開国要求への対応を藩主直弼が諮問した際には、禄郎は「籌辺管見(ちゅうへんかんけん)」を記し、当面の戦闘を回避しながら制限付きで開国・通商を行い、富国強兵を図ることを主張します。藩内や幕政の中核を担う諸藩で開国・通商に否定的な意見が多い中、禄郎の開国論は直弼の開国に対する考え方に大きな影響を与えました。
また、80名を超す禄郎の門下からは、直弼の死後、混迷を極める彦根藩の立て直しに奔走する人材が輩出しています。幕末期の彦根藩政を主導した谷鉄臣(たにてつおみ)をはじめ、明治初期の教育普及に尽力した外村省吾(とのむらしょうご)など、幕末維新期の彦根を下支えする中核的な担い手を育みました。
本展では、藩の儒学者として直弼を支え、時代の転換期に活躍する人材を育てた中川禄郎に焦点を当て、その生涯全体と人物像を初めて紹介します。
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