名称:「MOMATコレクション」東京国立近代美術館
会期:2021年10月5日(火)-2022年2月13日(日)
開館時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで 金・土曜日の開場時間は 10:00~20:00(*最終入場19:30まで)となります
休室日:月曜日[2022 年1 月10 日は開館]、年末年始[12 月27 日(月)ー 2022 年1 月1 日(土)]、1 月11 日(火)
住所:〒102-8322東京都千代田区北の丸公園3-1
TEL:050-5541-8600(ハローダイヤル)
URL:東京国立近代美術館
「MOMATコレクション」展は、日本画、洋画、版画、水彩・素描、写真など美術の各分野にわたる13,000点(うち重要文化財15点、寄託作品2点を含む)を超える充実した所蔵作品から、会期ごとに約200点をセレクトし、20世紀初頭から今日に至る約100年間の日本の近代美術のながれを海外作品も交えてご紹介する、国内最大規模のコレクション展示です。最近は工芸館で管理する工芸作品も登場させるようになっています。
ギャラリー内は、2012年のリニューアルによって、12の部屋からなるスペースに生まれ変わりました。その1室から12室までを番号順にすすむと、1900年頃から現在に至る美術のながれをたどることができます。そして、そのうちのいくつかは「ハイライト」、「日本画」という特別な部屋、あるいは特集展示のための部屋となって、視点を変えた展示を行っています。
「好きな部屋から見る」、「気になる特集だけ見る」あるいは「じっくり時間の流れを追って見る」など、それぞれの鑑賞プランに合わせてお楽しみください。
今会期に展示される重要文化財指定作品は以下の通りです。
原田直次郎《騎龍観音》1890年 寄託作品|1室ハイライト
和田三造《南風》1907年|2室
萬鉄五郎《裸体美人》1912年|3室
岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年|3室
1室ハイライト改めインデックス
いつもは館を代表するような作品を展示している第1室ですが、今期は趣向を変えてみました。目指したのは序論のような部屋。次のふたつのことを意識して作品を選んでいます。
ひとつは、今期のMOMATコレクション展全体のインデックスとなること。第2室から第12室には、それぞれの部屋のテーマに沿った作品が展示されています。それをいくつか先取りして、この部屋にも関連作品を交ぜました。解説文の最後に関連する部屋の案内を添えたので、興味をそそられたらそこだけ見に行くのもアリです。
もうひとつはコレクション全体の幅を示すこと。当館のコレクションで最も制作年が古いのは1840年代の写真作品、最も新しいのは2020年作の洋画(寄託作品)と版画です。ここでは1880年代から2019年まで、130年余りの間に生み出された作品が、ガラスケース内の日本画は約25年刻み、紺色の壁にかかった額装作品は約15年刻みで並んでいます。最近は現代美術のコレクションも徐々に厚みを増してきました。
2室和洋がなじむまで
3室ほとばしるフライハイト ―『白樺』と青年たち
1階で開催される「民藝の100年」(10月26日より)とゆかりの深い白樺派に関連した作品を中心に紹介します。柳宗悦らが1910年に創刊した雑誌『白樺』は、個性を鼓舞する斬新な論説で若い世代の芸術家たちを刺激しました。『白樺』創刊と同年に高村光太郎が発表した評論「緑色の太陽」は、この時代のムードを色濃く伝えます。「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」。太陽は緑で描かれて構わない。それは個性の尊重であると同時に、(目を閉じたときに太陽が緑に映じるように)内面性の肯定、生命賛美の宣言でもありました。
作者の恋情を託してうねる荻原守衛の彫刻、前世代を挑発する萬鉄五郎の強烈な色彩は、この時代の象徴といっていいでしょう。『白樺』は西洋近代美術を積極的に紹介し、同時代の作風の形成に直接の影響も与えました。前の部屋の穏健さから、がらりと様子が変わっていることがわかると思います。風景を刻み込むセザンヌの視点が、燃え立つようなゴッホのタッチが、筋肉の緊張を伝えるロダンの手法が、各作品に流れ込んでいるのが見て取れます。
4室「 生」を刻む― 近代日本の木版画から
明治末から大正期にかけて、西洋の新しい美術思潮の移入に刺激され、近代的な自我意識や芸術の独創性への意識が高まりをみせるなかで、単なる複製技術ではない、芸術としての「版画」を立ち上げようとする機運が高まりを見せました。印刷技術の発達や浮世絵版画の分業体制への反発も背景にもちながら、絵を描くところから刷るところまで、一貫して画家が制作に携わる創作版画が提唱され、1918(大正7)年には日本創作版画協会が結成されましたが、木の板に直に彫る木版画はその中心的な役割を担います。そこには「民藝」が重きをおいた手仕事に通じる精神も見ることができるでしょう。民藝運動に関わりの深い棟方志功も木版画家でした。画家の内面や感情と直接的に結びついた表現から、次第に単純な形態、黒白の対比、力強い線といった木版表現の特質の追究も加わり、個性豊かな多様な作品が制作されました。
5室パリの空の下
ユベール・ジロー作曲の有名なシャンソンでは「パリの空の下、歌が流れ、恋人たちが歩く」といいますが、アンリ・ルソーによればパリの空には芸術家たちを導く自由の女神がいるようです。女神のラッパに従って、芸術家たちは作品を片手に展覧会場に集まっていきます。審査を受けずに発表できる展覧会、それはすなわち、芸術家ひとりひとりの個性の尊重を意味します。そうした思想は明治時代末以降の日本の芸術家たちにも大きな影響を与えました。芸術の都にあこがれ、パリをめざした日本人芸術家は、とりわけ二つの世界大戦の間におびただしい数にのぼります。彼らはさまざまな視点からパリを描きましたが、当館のコレクションをあらためて眺め渡してみると、いわゆる観光名所のような華やかな景色よりも、裏道や、場末のカフェや、労働者といった、どちらかというと目立たない存在に光を当てるものが多いようです。それらは異邦人としてパリに身を置いた者にとって共感できるモチーフだったのかもしれません。
6室激動の時代を生きる
この部屋には、日中戦争の始まった1937(昭和12)年から、戦後の1949年までの、さまざまな人間像を集めました。靉光の《眼のある風景》は人間像とはいえないかもしれませんが、しかしここに描かれている眼は印象的です。これはいったい誰の眼で、何を見つめているのか、しばし考えながらこの部屋をめぐっていると、麻生三郎の《自画像》の、切迫したまなざしにも似ていることに気づかされます。だとするとやはり、《眼のある風景》に描かれている眼は、靉光自身の眼なのでしょうか。しかしながら彼が戦争へ行く直前に描いた《自画像》では、その眼は全く異なる印象を私たちに与えます。
画家たちはまた、この激動の時代に、身近な人の存在のかけがえなさをキャンバスに刻み付けたようにも思われます。前述の麻生は、妻や幼い娘を繰り返し描きました。脇田和の《画室の子供》に描かれているのは、彼の二人の息子です。
彼はこの直後に陸軍の委嘱でフィリピンに渡る予定でした。彼は何を思いながらこの絵を描いたのでしょうか。
7室純粋美術と宣伝美術 その1
日本初のグラフィックデザイナーの職能団体である日本宣伝美術会(日宣美)が設立したのは1951(昭和26)年でした。設立当時に会のメンバーが記した文章を読むと、デザインという言葉は見当たらず、宣伝美術という言葉が用いられています。また、宣伝美術が一つの分野として独立性を持たないことに対して不満を抱えている一方で、芸術性や作家性を重んじたいという思いがあったことを感じ取ることができます。
日宣美のなかには、美術同人として活動している者もいました。例えば、瑛九が中心となって活動したデモクラート美術家協会には、早川良雄や山城隆一が参加していました。造形の類似性も指摘できます。シュルレアリスムの絵画でよく用いられる白昼夢の風景や擬人化といった手法は、宣伝ポスターでも見ることができます。ヤマハのピアノや三協のカメラのデザインをした山口正城は、抽象画家としても作品を発表しています。美術とデザインの間に今ほどはっきりと境界線が存在していなかったことが分かります。
8室純粋美術と宣伝美術 その2
あるものの要素や性質を抽出してそれに形を与える、いわゆる抽象化という過程が美術やデザインには存在します。美術家やデザイナーは、表現における抽象度の度合いを巧みに操ることで作品を介して鑑賞者とのコミュニケーションを図ります。例えば、宣伝ポスターでは適度に抽象化された表現を用いた方が情報の伝達が早い場合があります。絵画や彫刻において、感覚的な「イメージ」を伝えるには、写実的な表現を避けた方がいい場合があります。
1950年代、60年代の抽象表現でよく用いられていたのは、おおらかな曲線のフォルムです。有機的で、なんとなく生き物を思わせる形象はビオモルフィックといわれ、家具の造形においてもその影響が見られました。
菅井汲や小磯良平、北代省三が制作した絵画や彫刻作品と、彼らがデザインしたポスターとの比較もお楽しみください。小磯は新制作協会、北代は実験工房というグループに属していたので、その仲間の作品も一緒に展示しています。
9室石元泰博:落ち葉・ あき缶・雲・雪のあしあと
生誕100年を記念して、石元泰博が1980年代後半から90年代半ばにかけてとりくんだ、「うつろいゆくもの」をめぐる四つのシリーズを特集します。
雨に打たれて朽ちていく路上の落ち葉をとらえた〈落ち葉〉に始まる四つのシリーズのうち、〈雲〉と〈雪のあしあと〉が発表された個展のリーフレットには、『方丈記』の一節が引かれていました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、またかくのごとし」
一連の作品は、時の流れという主題をめぐるものであり、のちに他のいくつかのシリーズを加えて『刻−moment』(2004年刊)という写真集にまとめられます。
アメリカ、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)に学んだ生粋のモダニストとして知られた石元ですが、この一連の仕事を通じて見出したのは、螺旋形を描いて流れる日本的な時間感覚であり、また自らの中にも、そうした日本的な感性が強く息づいていることだったといいます。
10室音はみえるか、きこえるか(前期:10月5日―12月5日)
絵を見る時の私たちの意識は、色や形、構図など、目を通して得られる情報に頼っています。だからと言って、視覚芸術は音と無縁だったわけではありません。むしろ、音という見えないものをどのように表現するかということは、古くから多くの画家たちにとって重要なテーマでした。
ワシリー・カンディンスキーやハンス・リヒターは、音の組合せだけで旋律やリズムが成り立つ音楽の構造を絵画に取り入れました。何かを表すための色彩や形態ではなく、キャンバスの上で色彩と形態それ自体が純粋に響きあう、新しい表現を生み出そうとしたのです。
奥の部屋では、日本画と版画を中心に、音が聞こえてきそうな作品をご紹介します。音楽を主題にしたものだけでなく、日常の生活の中で自然に生じる音や、生き物たちのざわめきまで、見えないものをどうやって表すかは作者の腕の見せどころ。耳を傾けると、静かな展示室からさまざまな音がしてきませんか? 目と耳をリラックスさせて、あなただけに聞こえる音を楽しんでみてください。
10室機械の美(後期:12月7日―2022年2月13日)
近代化が進展した1920–30年代は、都市文化の繁栄とともに、機械ならではの美しさに対する意識が新たに芽ばえた時代といえます。あたかも機械の部品のように、人体を各パーツへと解体し、幾何学的な形態と組み合わせて再構成した萬鉄五郎の《もたれて立つ人》。パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックがフランスで創始したキュビスムの影響を受けていることは明らかですが、人間と機械を等価なものとするまなざしを見てとることもできます。
一方、同時代の日本画はどうでしょう。望遠鏡やカメラは新しい時代の到来を象徴するモチーフとして描かれ、金属の硬さや重量感が、女性の若々しい透き通るような肌やしなやかさと引き立てあう効果を生んでいます。戦後になると、パンリアル美術協会の三上誠や星野眞吾らは「写実的」という意味のリアルではなく、「現実社会」という意味のリアルと向き合うための日本画を追求しました。
彼らの作品には、生命感の希薄な動植物あるいは意思を持った機械のようなモチーフなど、生命と機械が融合した心象世界が広がっています。
12室近代の領分
この部屋では、(1点の例外をのぞいて)1960–80年代末の作品を紹介します。
東京国立近代美術館(1952年開館)の「近代」とは、「modern[モダン]」など西欧言語の訳語で、近代の、現代の、近頃の、いま風の、と時に応じてさまざまな訳が当てられてきました。70–80年代、日本では美術館の建設ラッシュが起き、「近代」を冠した美術館が各地に開館します。そしてこの建設ラッシュと近代という名づけ(のブーム?)は、80年代末頃に終息していきます。これにはバブル崩壊や、80年代に盛んに語られたポストモダン(モダン以後)という動向も関係しているでしょう。
「近代はすでに終わってる?」、「近代と現代の区分は?」、「いや、名前の問題じゃないのでは?」…、 同時代の美術を90年以降も扱い続ける「近代美術館」には、なかなか大問題です。以上のような関心から、今回の展示の結びを「近代」にとってひとつの転換点である80年代末の美術としました(みなさまとこの問題を少し共有してみたいという希望を込めつつ)。
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