「多田圭佑展 Traffic」日本橋三越本店

《残欠の絵画 #72》2022年 18.5×14.3×6cm 油絵具、アクリル絵具、綿布、木製パネル

名称:「多田圭佑展 Traffic」日本橋三越本店
会期:2022年5月25日(水) ~ 2022年6月6日(月) 最終日午後5時終了
会場:日本橋三越本店 本館6階 コンテンポラリーギャラリー
住所:〒103-8001 東京都中央区日本橋室町1-4-1
TEL: 03-3241-3311
URL: 日本橋三越本店

《残欠の絵画 #60》2022年  18.5×14.3×6cm  油絵具、アクリル絵具、綿布、木製パネル
《残欠の絵画 #60》2022年 18.5×14.3×6cm 油絵具、アクリル絵具、綿布、木製パネル

仮構された物質の前で
多田は、デジタル画像の経験、特にゲームの3D 空間において、テクスチャとポリゴンが決して不可分で「無い」ことの奇妙さに関心をもっているという。デジタルに仮構された3D 空間では、物理的なオブジェクトかに見えるそれらには、中身や重さが与えられていない。
それは、プレイヤーやそれを捉えるカメラが開発者の想定外の挙動をすることでしばしば「ポリゴンの裏側に抜けてしまう」という事象が発生することによって、あからさまになる。そこには、ひとまずは現実と同じように見えていたはずのオブジェクトが、厚み0のペラペラの板にそれらしい画像が貼り付けてあるだけである。デジタル画像の経験は、テクスチャとポリゴンの可分性、つまり「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚を与える。その感覚は、本来床面であるはずの木の板が直立し、壁となっている多田の作品を鑑賞する際の、平衡感覚が狂う、かすかな浮遊感と通底する。
絵画には、「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚がある。
鉛筆や絵の具によって、まるでそこに本物があるかのように描きながら、しかしそれが紙やキャンバスの上の炭や絵の具でしかないことも同時に示す。
多田の作品の、木の板やタイルが貼り付けられた壁面はしかし、そのような絵画的なイリュージョン――「本来そうでないものを、何某かに見せる」――ということは発生していないように見えるだろう。
それらは、木の板やタイルを「描いた」のではなく、まず物理的に木の板やタイルなのだと。
ところが恐るべきことに、木の板も、タイルも、ビスや鎖までも、これらすべては絵の具から出来上がっている。
一瞬文意が取れないだろうか。これは比喩ではなく、文字通り、物理的に絵の具から作り出されているということだ(そのような目で見れば、実は木の板の木目が繰り返されているところも発見できるだろう。
つまり、これらは型取りされて、複製されたものであることを示している)。
これは、あまりにも、なんというか、笑ってしまう。
そこに膨大に消費された絵の具の量、その手間を考えれば、それがいかに異常な所業なのか分かるだろう。
《Heaven’s Door》では、内部が絵の具であることを示すように、扉の傷からは絵の具の色が覗く。
そこでは斧で叩き切られることによって図らずも、絵の具の物理的な特性が「木目がないことによる壊れ方の違い」として現れている。絵の具は飽くまでも物質であるのだが、その色味が光があふれるかのような蛍光色であることによって、物理的な存在であることから少しだけ浮遊しているように見える。
多田は、「絵画の存在証明として、絵の具であること」について信仰をもっているわけではないようだ。
ただ眼前に提示される作品が、「絵の具によって作られる、見せかけの何某か」であることには違いない。
これを何と「見れば」よいのか。それこそが鑑賞者に問われている。
評論家 gnck

《残欠の絵画 #66》2022年  18.5×14.3×6cm  油絵具、アクリル絵具、綿布、木製パネル
《残欠の絵画 #66》2022年 18.5×14.3×6cm 油絵具、アクリル絵具、綿布、木製パネル

個展「Traffic」によせて
私は見た目の違う様々な作品のシリーズを制作している。
各シリーズは、自分とバーチャルな空間( ゲームとか、映画とか、本とか…) が関係する際に、時間、重力、物質にまつわる新たな知覚を感じ、
それを探る中でアイディアを膨らませていく。
今のところ絵画を中心に作品を制作している。
ものなのか、図像なのか、どっちつかずなところが、自分の考えかたに近い気がしている。
今回は各作品シリーズについて記載しておく。
・残欠の絵画
オープンワールドタイプのゲーム内を旅して、先々で見つけた風景を描いている。
ゲーム内では無限の時間が繰り返されるが、それをプレイする私たちの時間は真っ直ぐと死に向かって進んでいく。
この無限、有限の時間が同時に存在する感覚。いつか展覧会でみた、ボロボロに経年劣化した絵画のことを思い出した。
永遠のものとして固定された絵画の空間が、私たちの終わりに向かう世界に引きずりだされたように感じ、その関係を表現したいと思い制作した。
・trace/dimension
3DCG で作られたリアリスティックなバーチャル空間とオブジェクトを体験したとき、まるで実在するかのような強烈な存在感を感じることがある。
実世界とは違う組成で作られたものであることは言うまでもない。なぜなら、この世界は地球の重力や時間の影響を受けないからだ。
そこでは、存在することそのものが浮遊しているかのようだ。
この存在していると言うべきか、していないと言うべきか、その不確かなあり方を表現したいと思い制作し始めた作品だ。
この作品は全て絵の具を素材としながらも、そうはみえないように制作している。
汚れた木の床やタイルの壁、キャビネット、垂れ下がるチェーン、全てが絵の具によって作られた造形物ということだ。
これら水平、垂直、奥行きを一枚の平面上に集約することで、存在と非存在のあわいを作り出す試みである。
・Heaven’s Door
絵の具を素材にリアリスティックな門扉を制作した後、それを斧で攻撃する。
攻撃することで内部の色があらわになり、その破壊の痕跡を描画行為とした絵画作品だ。
この作品は17 世紀フランスで実際に使用されていた門扉をモチーフにしている。
今までの人生で見たことも触れたこともなかったはずのこの門扉に、なぜか強く既視感をおぼえた。
ゲームや映画の中で幾度となく潜った門扉にそっくりだったからだ。
個人の経験によって、ある場所ではよく見られるものが創作物と紐づき混ざり合い、歪んでいくような体験に強く影響を受けた。
バーチャルな空間を体験する時、それに魅入られながらも、ゴーグルを取ったとき、モニターを消したとき、
絶対に触れ合うことはできないと気付かされる。
どこか別の場所に行きたいという欲望と暴力、辿り着けないことを理解している自身。この関係を表現したいと思い制作した作品である。
多田圭佑

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