「川井雄仁 粒の数だけ 抱きしめて」KOTARO NUKAGA

「川井雄仁 粒の数だけ 抱きしめて」KOTARO NUKAGA

名称:「川井雄仁 粒の数だけ 抱きしめて」KOTARO NUKAGA
会期:2022年12月17日(土)- 2023年2月4日(土)
開館時間:11:00 – 18:00 (火-土)
   ※日月祝休廊
   ※開廊時間、入場制限等については随時変更させて頂く可能性があります。
住所:〒140-0002 東京都品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F
TEL:03-6433-1247​
URL:KOTARO NUKAGA

KOTARO NUKAGA(天王洲)では、2022年12月17日(土)から2023年2月4日(土)まで、川井雄仁の日本初個展「粒の数だけ 抱きしめて」を開催いたします。川井は1984年茨城県に生まれ、ロンドンのChelsea College of Artsで学んだ後に帰国し、会社員を経て、茨城県立陶芸大学校で作陶を学びました。現在は茨城県を拠点に国内外で作品を展示しています。
川井の作品の特徴は、独特な色合いと、有機的で艶かしくもグロテスクな形状です。さまざまな色、形、あるいは極小の粒が何層にも重なり合い、結びついたものであり、それは人を根源的に捉える未分化な魅力であるエロスを漂わせます——「器」「工芸」「アート」、呼び方はともかく、川井自身は「焼き上がりから逆算する冷静さと、瞬間で作る土遊びに近い感覚のせめぎ合い」と作品について語ります。そんな川井ならではのユーモアを持ちながら、今回はある一つの時代、ある一つの場所を切り口にした展示によって、社会とのコミュニケーションを図ることを試みます。
本展「粒の数だけ 抱きしめて」では、90年代の渋谷を参照します。川井自身、思春期において憧れの場所であった渋谷、そして多様な潮流を生み出した社会的なアイコンとしての「渋谷」が交差し、鑑賞者をあのころの雑踏へと誘います。1991年に公開された日本映画『波の数だけ抱きしめて』(監督:馬場康夫)をオマージュした本展のタイトルは、当時の世界へのイントロダクション、あるいは川井の作家としての胸中の吐露でもあります。一方で、90年代は、さまざまな「アイデンティティ」の問題が盛んに問われ、社会の「普通」が考え直された時代でした。近年、「多様性を認める」と言った論調で、さまざまな「アイデンティティ」を個性として社会が「差異」を包摂する風潮がありますが、「同一性」を前提としたマジョリティ側のつくる包摂構造が全てを解決するのかということは今後の課題であるとも言えます。
「アイデンティティ」とは社会の全体のうち多くを占めるマジョリティ側にいる他者との「差異」を考えることで、近代以降に個人のあり方としてはじめて問題となった概念です。「差異」をなくし「同一性」によって、社会を管理しようとした近代以降の社会構造によって作り出された「正しさ」は、マジョリティである「正しい」全体に対しての「おかしさ」を内包した個人を生みました。近代の社会は人々に「正しく」あることを求め、自らの「おかしさ」を自らで自己監視し、律してしまうように働きました。
哲学者であり、立命館大学の教授である千葉雅也氏は自身の著書『現代思想入門』(2022年、講談社現代新書)にて、フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)は初期の重要な著書『差異と反復』(2010年、財津 理訳、河出文庫)において、「世界は差異でできている」という世界観を示したと解説をしています。ドゥルーズは「同一性」を優先する近現代の規範を形づくったとも言える、ニーチェやプラトンといった西洋哲学史の起源と正面から向き合い、哲学以前的な営みまでをも射程に入れて、「同一性/差異」として捉えられるこの二項対立について、実際のところは「同一性」は原理としては存在するが、それは、二次的なものであり「差異」を前提とした異なるもののある一時的な状態でしかないと主張しました。
近代以降、現在に至るまでわたしたち人類の営みは「同一性」を「差異」よりも重要視し、二項対立の構図によってこれを強化し続けてきました。ドゥルーズは『差異と反復』において、「差異」が世界を形づくる前提となるのであれば、厳密にはこの「同一性/差異」という二項対立は成立しないことを示し。個人の特徴である「差異」を全体から外れたものとして対立させ、区別するこの二項対立の構造を脱構築してみせたのです。しかし、ドゥルーズが言うように「差異」が「同一性」に先立つとするならば、この「普通」はあとから作られた概念であり、わたしたち人類にとって普遍的なものではなく、社会やその時代によって変化しうるものなのです。さらには、近代以降の規律訓練社会において、この「普通」は大多数を占めるマジョリティ側の思考において問題意識を不可視化し、思考停止を生むものです。
川井の作品はそういった「差異」と「同一性」の溝に生まれる「普通」に関する問題をわたしたちに問いかけるようにして姿を現します。川井自身があえて「器」と呼ぶ作品は、確かに上部に穴が空いていて、その形状から日常性、あるいは生活の延長線上にあるものを連想させることから、鑑賞者をふと油断させるものです。一方、川井の作品それ自体が——その独特な色彩、グロテスクとも言える造形から——私たちの鑑賞体験に揺さぶりをかけてきます。それが何で在るのかを固定化(ラベリング)させず「宙吊り」の状態にし、カテゴリーやジャンルに回収されることを拒みながらどこでもない中間地点を作り出し、社会が作る「同一性/差異」のような二項対立の構造から鮮やかに逃避します。
土を触っていると自然と形ができる、と語る先行世代の陶芸家は多く、そのように土という素材に自身を委ねていく姿勢に川井も深い共感を示しています。「土はその可塑性から造形的にコミュニケーションが可能な素材であり、内面を具現化する媒体となり得る」と、川井は自身の制作過程を説明します。一方、焼成の過程は完全にコントロールすることは不可能だとも語ります。自らの記憶、感情を探りながら土を成形、着色し、完成を見据えながら焼成、時には失敗があって、何度もそれを繰り返す——「90年代」「渋谷」というポップな文言とは正反対の、地道で朴訥とした制作姿勢がそこにはあります。記憶や感情、極めて個人的な出発点から作品を制作する川井。本展では、鑑賞者と川井との結節点として用意された「90年代」「渋谷」というキーワード、それに符合する数々のイメージを起点として、川井の作品それ自体の奥深さ、または新たな鑑賞の視点を見出していただけることでしょう。ぜひ会場でご高覧ください。

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