名称:企画展「余呉・丹生谷の歴史と仏教文化-菅並洞寿院のホトケたち-」高月観音の里歴史民俗資料館
会期:2024年10月16日(水)~12月9日(月)
会場:高月観音の里歴史民俗資料館
休館日:火曜日・祝日の翌日
住所:〒529-0233滋賀県長浜市高月町渡岸寺229
TEL:0749-85-2273
URL:高月観音の里歴史民俗資料館
秀麗な山容と豊富な資源を持つ湖北伊香の地は、仏法弘通の適地とされ、奈良時代以降、己高山の寺々や菅山寺が相次いで開かれ、天台・真言寺院が数多く存在しました。その後、室町時代に入り、菅並に曹洞宗洞寿院(とうじゅいん)*が興され、また浄土宗・一向宗(浄土真宗)等の流入があり、余呉・丹生谷(にうだに)地区では大きな宗教的変容がありました。 この展示では、菅並洞寿院に伝わる仏教美術をとおして、丹生谷の歴史と仏教文化を概観します。
*:正式には旧字体の「洞壽院」
■丹生谷について
丹生谷(にうだに)は、滋賀県の最北部、旧余呉町の北東部に位置する丹生川沿いの地域。南から、下丹生村・上丹生村・摺墨(するみ)村・菅並村・小原村・田戸(たど)村・奥川並(おっこうなみ)村・鷲見村・尾羽梨村・針川村の10カ村がある。豪雪地帯として知られる。産業は、農業を主としてほかに炭焼き・採薪(さいしん)や養蚕・糸取り、木籠作りなどを行ってきた。
生活環境の厳しさや過疎化のため廃村の流れが進み、昭和44年(1969)から3年間に奥川並・針川・尾羽梨の3集落が廃村となった。また昭和50年、丹生谷北部にダムを建設することが計画され、平成7年(1995)水没予定の鷲見・田戸・小原の集落が離村した。その後、嘉田県政(2006~14)になり、丹生ダム事業は中止・凍結された。
■如仲禅師と塩谷山洞寿院
洞寿院は、丹生川上流、菅並集落の北端、通称「妙理の谷」に建つ。
洞寿院を開いた如仲天誾(1365~1437)は、信州上田(長野県上田市)出身。9歳で仏門に入り、曹洞宗吉祥寺(群馬県)の大拙祖能のもとで出家。後に龍澤寺(福井県あわら市)の梅山聞本に師事してその法を継いだ。応永10年(1403)祝山(ほりやま)(長浜市西浅井町)に洞春庵を開き、応永13年(1406)、菅並の現地に洞寿院を開いた。この地を選んだ理由は、「四周を山に囲まれ、中国五台山に似た景勝の地であり、白山妙理大権現の護法と塩泉が湧き出たことによる」といい、塩谷山洞寿院と名付けた。
如仲は真巌に洞寿院を譲ったのち、総持寺(石川県)40世を務め、龍澤寺の住持となり同寺を復興し、後に遠江国(静岡県)に大洞院を開いた。如仲の門からは高弟が多く輩出し、その法孫達が全国に3,000余りの寺を開いた。
■道元禅師と白山信仰
道元禅師(1200~53)は、曹洞宗を開いた鎌倉時代の禅僧。
道元は京都に生まれて比叡山で天台教学を学んだが、その教義に満足せず、栄西(1141~1215)に就いて禅宗に入った。
その後、中国・宋に渡り、4年後帰国。帰国の前夜、『碧巌録』を書写する際に白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある。曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦する。
白山妙理大権現は、白山の神が仏教と結びついてあらわれた神仏習合の姿である。一般的な白山権現は頭上に龍を戴くが、洞寿院には頭上に白狐を戴く白山妙理大権現の絵画と彫刻が伝わっている。(今回展示の「2.白山妙理大権現像」と「3.白山妙理大権現立像」)
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