伊丹小夜 「春を生きて 夏を生きて」新宿眼科画廊

伊丹小夜 「春を生きて 夏を生きて」新宿眼科画廊

名称:伊丹小夜 「春を生きて 夏を生きて」新宿眼科画廊
会期:2022年6月17日(金)~2022年6月29日(水)
開館時間:12:00 〜 20:00 水曜日は17:00まで
休館日:木曜
入場料:無料
会場:新宿眼科画廊 スペースE
住所:〒163-0004 東京都新宿区四谷4-22 第二富士川ビル1F
TEL:03-5285-8822
URL:新宿眼科画廊

いろんな事が思い出されて今ここにいるような気がする。。。
今この瞬間に流れている時間と並行して記憶が(思い出が)繰り返されてこうなっているのかもしれない。ぼうっとした瞬間に「あの時のことはこういうことだったのかな」みたいな。ミヒャエル・エンデがモモを書いたときにどうしてモモだけが時間を盗られなかったのか、ずっと後になってわかったように、今わからないことやできないことはずっと後になってわかるかもしれないんだ。分からない時間を、、、その間にある出来事は答えにつながっていくように思う。一つの映画みたいに終わりがあって電気が付いてもその後は自分次第だよって偉そうな声みたいに…
自分の話をさせてください。私が書いている絵はたとえばこの世界を変えたり、何か大切なことを多くの人に知ってもらうような気持ちで書いているのではありません。私はただ…小学校の絵が上手かったクラスの友達みたいに自由に絵を書きたかっただけなんです。
小学校の図工の時間 私は絵が書けなくて放課後になっても完成できなくて先生に居残りさせられてたんです。でも、放課後になっても絵は書けませんでした。多分、朝になっても書けなかったと思います。先生がいなくなって教室の中一人で座っていると、絵の上手な友達が来てささっと鉛筆で絵を書いてくれました。「ここに色を塗ったらいいよ」と言ってくれました。それを見て「すごいなあー私もこういう風に絵を書きたい」と思いました。それからすぐインターネットにブログを書くようになって、書いた絵を載せるようになりました。それが20年前の事です。私はまだ「あの時の友達みたいになりたい」と思っています。あの小学校の教室にも、ジャンボすべり台にも、体育館にも、車椅子にも私たちの影はありません。みんなの記憶からそんな時間は忘れても、私の中にあるから。だから絵を書いて文章を書いたんです。
「春を生きて夏を生きて」という言葉は昔から私の中にあって、その時自分は別に何もしていなくて、今が朝なのか夜なのか夢なのか現実なのか分からない生活をしていた。ある日絵を書いていて「春を生きて夏を生きて」という言葉が自分の中から出てきて「自分の言葉にしてはみょうに明るい言葉だな」と思った。
それから最近展示をするようになって「もし自分が夏か春かに展示するなら「春を生きて夏を生きて」かな」と思うようになった。あの時の言葉は今の自分のための言葉だったのかもしれないね。
今すぐに答えとか、正しいことを言いたかったり分かりたかったりするけど、本当はそういうことではないと思う。色んな人がいて、それぞれがそれぞれの時間を過ごして 花が咲くみたいに何かが分かって、また何かが分からなくなっていく。この世界は鏡だね…誰かと話してもその人の全てが分かるんじゃなくて、反射した世界みたいに少しだけずれた世界にいるみたい。それでもある日「本当はこういう事じゃないのかな」みたいにパズルが埋まるみたいに少しだけ答えがわかったような気になって、何かが落ちていく。そのときになってやっとほっとするんだ。誰にも繋がれてないのに心が閉じ込められいたような…そんな気持ち。
別に、生命観からしたら生きてもいいし生きなくてもいいと思う。道徳の時間みたいな「命は大切」とかも、別に命は大切ではないと思う。テストの正解みたいな答え合わせじゃなくて…そういうスイッチみたいな生と死じゃなくて。この瞬間の風の音とか、、、雨が降っている気配とか。単純な誰かが好き、誰かが嫌いじゃなくて。みんなが嫌う生ぬるい気温が本当は自分は嫌いじゃないみたいな。一生懸命に全ての時間を消費しないで、心を生かして、いろんなものをみて、いろんな気持ちになって、大人になってほしい。
大人ってなんなのか、分からないけど…

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