黄河文明

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黄河文明(第一部) 2008.10.19更新

オンライン講座概要 講師:雷従雲

出所:黄河文明展

前書き: 歴史が悠久で国上の広大な中国は,燦爛と輝く古代文化を持っている.中国の北半分に位置する黄河流域は,中国文明の揺藍の地である.太古から今日まで,黄河は奔流してやまず, この流れに育まれた偉大な文明は光り輝いている.参考資料

自然と人

 

黄河は,西は昆侖から流れ出て東は大海に注ぐ,中国第二の大河であり,世界に名高い大河である.その源流は青海省巴顔喀拉山北麓の古宗烈盆地にある。そこには数多くの小さな湖と深い草原の中から湧き出た清泉がある。ここから流れ下って,幾千幾万の渓流や大小の河川を合流して澎湃たる大河となる。その万里の行程の中で,青海・四川・甘粛・寧夏・内蒙古・山西・陝西・河南・山東の9つの省を過ぎ,全長5,464キロメートル,流域面積は75万平方キロに達する。
黄河の上流は甘青(甘粛-青海)高原,中流は数十万平方キロに及ぶ黄上高原,下流は広々とした華北大平原である.地質・地形・気候・植物分布は異なるが, いずれも非常に豊かな自然の資源があり,大部分の地域は農業や牧畜業の発展に適している.考古学の成果が証明するように,今から百万年以上も前から,人類は黄河流域の土地で労働し,生息し,繁殖してきた。
人類歴史の第一幕は旧石器時代である.黄河流域の旧石器文化遺物は非常に豊富である.
黄河中流域の山西省苪城県西侯度において,百万年以上前,前期更新世晩期の人類文化の跡が発見され,打製石器,鹿の角などで作られた骨角器, さらに焼かれた痕跡のある哺乳動物の骨骼の化石などの文化遺物が得られた.
陝西省藍田県公王嶺と陳家窩において, 原人の頭骨・下顎骨2個・歯の化石及びその文化遺物を含む中期更新世に生活した「藍田原人」の化石が発見された。古人類学者の研究の結果,公王嶺人は30歳過ぎの成人で,女性かもしれない.陳家窩人は老齢の女性である.この二人の原人の体質形態は比較的原始的であるが,彼女(彼)らが使用していた打製石器はすでにある程度進化していた。このほか粉末状の炭粒が発見されたことから,すでに火の使用を知っていた可能性もある.
公王嶺・陳家窩のほか, この区域の渭南・臨潼・西安附近の20余の地点からも, 同時期の文化遺物が発見された.当時この一帯には藍田原人が労働し生息していたと思われる.
このほかにも,山西・陝西・河南3省の多くの地点で旧石器時代文化の遺跡と遺物が発見された。
顕著なものは山西省襄汾県丁村で発見された,今から約10万年前の旧石器時代中期の文化遺物である。「丁村人」の形質的特徴はすでに近現代人に近く,そのシャベル形の門歯は現代モンゴロイドの特徴にほかならない。これは黄河流域がモンゴロイドの生れ形成されてきた重要な地域であることを示している.
旧石器時代晩期の人類活動の足跡は,黄河流域ほぼ全域に及んでいる。すでに考古学者は黄河上下流域の,青海省治多県,甘粛省環県・慶陽県・鎮原県,寧夏回族自治区霊武県水洞溝と薩拉鳥蘇,内蒙古自治区呼和浩特市東郊大窯村,陝西省藍田県澇池河溝,山西省朔県峙峪・沁水県下川,河南省安陽市小南海・新蔡県諸神廟,山東省沂源県・新泰市鳥珠台などで, この時期の文化遺跡を発見した。その年代の下限は今から2,3万年前である。
百万年以上を経た黄河流域の旧石器時代文化を通して見ると,古人類の骨格の化石にしても,石器にしても,独自の特徴をそなえ,かつ前後の異なる段階の時代との間に明瞭な連続性と継承関係が見られる。
山西省朔県峙峪の旧石器時代晩期遺跡から,石鏃と皮革の加工と関係があると思われる細石器多数が出上した。当遺跡の年代は,測定によれば今から28,700年以前である。石鏃の出現は,当時の黄河流域の住民が物体の弾力と人の体力を結合して,一定の射程を持った弓矢をすでに発明していたことを物語る.弓矢の発明は人類の生産手段改良の重要な一里塚であった.狩猟の能力をおおいに高め,狩猟の内容を広げ,狩猟を当時の社会の主要な生産部門たらしめたのである。峙峪人と大体同時期の北京周口店の「山頂洞人」と広西柳州の「白蓮洞人」は,衣服などを縫う骨針及び骨や石等を素材として作った装飾品をもっていた.以上のことから, この時期の黄河流域の住民は,道具の改良と物質的な富の増加にともなって,一応食料が腹を満たすことができるようになったうえで,衣服を縫って身体をおおい,装飾品で身を飾ることを始めた。
黄河の大地が供する衣食の源は,その子孫たちによりますます多く発見され利用されるようになったのである。

文明の誕生

人に適した地理的環境,豊かな自然の資源のおかげで,今から一万年前にはすでに黄河上下流域に多くの原始部族が分布していた。彼らの遠古の歴史は,かなりの部分が神話と伝説の形をとって,古い文献の中に残されている.
伝説では最初に炎帝,号して神農氏が現われた.炎帝部族の活動した場所は渭河流域から黄河中流域に至る一帯である.伝説によれば,炎帝は耒耜(すき)の作り方を人民に教えて農業を発展させ,薬草で病気を治療した.炎帝の後裔の一人である共工氏は水害を治めんとしたが失敗し,彼の息子が治水に成功し,社神として奉られたという。
伝説では,黄河下流一帯に活動したのは太白+皋部族である。太白+皋は伏義氏と号した。彼は八卦を作り,網を編んで魚を取ることを住民に教えたといわれる。
黄帝についての伝説はもっと多い.黄帝は有熊氏または軒轅氏と号した。黄帝部族は炎帝部族とともに,黄河下流一帯に活動した蚩尤を酋長とする九黎部族との間で,密接な交渉を持ったが,戦争も行ったと伝えられる.黄帝は最強であったがために,各部族によって中原地方の部族連盟の首領に擁立された。
伝説によれば,黄帝時代にすでに多くの発明創造がなされた。宮室の建造,車船の製造,五色の衣実の縫製,音律・医学・数学・暦法の発明。黄帝の妻螺祖の養蚕,糸繰り,織物の発明.黄帝の史官倉頡による文字の発明,等々.さらに「黄帝は首山の銅を採り,鼎を荊山の下に鋳た」,蚩尤は「金(青銅のこと.黄金ではない)を以て兵器を作った」といわれ,彼らは金属精錬の発明者とされる.
まさしくこれらの理由によって,黄帝は中国原始文化の集大成者,華夏族の始祖として崇められたのである.
歴史発展の視点から見ると,伝説時代はおおよそ今から5,6千年から4千年ぐらい前であろう。考古学においては,この時代は新石器時代の中後期に相当する.
1921年,スウェーデンの考古学者アンダーソン(J.G.Andersson)は河南省澠池県仰韶村で新石器時代の文化遺跡を発見したが,そこからは胎土が紅く, 内外ともに磨かれ,表面に彩色を施した陶器が出土した。彼はそれを青銅器時代以前に中国内に生まれた特殊な一文化と認定し,「仰韶文化」と名づけた.
60年以前から, とりわけ新中国成立後30余年来の中国学者の仕事の結果,すでに発見された仰韶文化遺跡は千カ所を超える。分布範囲は黄河中下流域の6,7の省にわたる広大な地域に及び, さらに仰韶文化より遅れる龍山文化の遺跡が大量に現われた。仰韶文化が発見されたあと,黄河上流域の甘粛・青海地方では馬家窯文化と斉家文化が発見され,下流地方では大汶口文化と龍山文化が発見された.現在のところ,中国各地で発見された新石器時代文化遺跡は総数7千力所以上ある。そのうち,黄河流域には最も集中しており,発見も豊富で,原始文化の様相を理解するうえで,また中国文明の起源を探るうえで,多くの貴重な資料を提供している.
前期新石器文化は,近年,黄河流域の河南省新鄭県裴李崗・河北省武安県磁山(古代黄河は今の河北省を流れていた),陝西省華県老官台・甘粛省秦安県大地湾・山東省滕県北辛など数十ケ所で発見されている。
それらに共通の特徴は,原始農業と牧畜業の経済がすでにある程度発達していたこと,比較的安定した集落が現われたこと,陶器焼成・紡績などの原始的な手工業がすでに生まれたことである。これら遺跡の年代は14c(放射性炭素14)年代測定の結果によると, 今から約7,8千年前である。これら原始文化のにない手が黄河流域の原始農業文化の源を開拓したのである.
新石器時代中期から,黄河流域では比較的発達した鍬耕による農業経済がはじまった。龍山文化の時期に至ると,農具の改良,耕作技術の進歩にともなって,農業経済は著しく発展した。発掘では,精緻な石器と骨器が出土するとともに,双歯の木耒(すき)を使用した痕跡が発見される.収穫道具は以前に倍する増加を見せ,石刀のほか,石鎌,蚌鎌(貝のかま)が普遍的に使用されていることは,農作物の作付が大幅に増えたことを示している.食糧貯蔵用の穴倉は数量も増え,容積も大きくなり,食糧を入れる大型陶甕が出現し,村落と墓のなかからも大量の穀物が発見された。 
注目されるのは,人々が穀類で酒を醸造することを始めたことである.山東大汶口文化の陶器の中には,すでに一定数の酒器がある。例えば,大汶口遺跡出上の陶器1,015点中,酒器が268点,なんと26.4%も占めている.莒県陵陽河6号墓では数十点の酒器が発見されたほか,酒の醸造と関係のある器物一一発酵用の大口尊,濾過用の陶缸,酒を受ける陶鉢,酒を貯蔵する陶甕などが出土した.このことは穀物が当時人々の基本的な生活の需要を満たしたうえに, さらにいくらかの余剰がでてきたことを物語る。
農業生産が発展してできた副産物は,家畜の飼育に条件を整えた。山東省泰安市大汶口文化墓地の3分の1の墓に豚の頭や下顎骨が副葬されていた。前期龍山文化に当たる河南省陳県廟底溝二期の26の灰坑中から, 大量の鶏・豚・犬・羊・牛の骨が発見された。甘粛省・青海省の馬家窯文化と斉家文化遺跡からも似たような発見があった。このことは当時家畜の飼育がすでに相当の発展をしており,そのうち養豚が首位を占めていたことを物語る。
製陶業が重要な手工業部門であることは言うまでもない.黄河流域の新石器文化遺物のうち,陶器がもっとも特徴的であり,黄河遠古の先祖の知恵と創造力を最もよく表わした作品である。陶器の種類と数はたいへん多い。青海省楽都県柳湾墓地だけでも,完全な彩陶が1万余点も出土しており,世界的にも珍しい。
陶器には彩陶・紅陶・白陶・灰陶・黒陶の区別がある。異なる文化・異なる文化類型の間には, 器形・色彩・文様装飾などの面で頭著な違いがある.おおまかに言えば,前期の器形と文様装飾は比較的簡単で,泥質紅陶が主である.中期には器形の種類が増え,彩陶も数を増し,文様が複雑かつ変化に富む.後期になると,彩陶はまれになり,文様も単純化し,灰陶が主となる.実用的工芸美術品と呼ぶにふさわしい陶器は少なくない。とりわけ彩陶は図案が絢爛多彩,文様が多様で,多くは変化に富んだ幾何学文,次いで植物や動物の文様である.それらは自然現象と日常生活の描写であるとともに,その抽象でもあり,大自然と生活に対する人々の熱愛と豊かな想像力をよく示している。河南省臨汝県出上の紅陶彩絵鸛・魚・石斧文缸は1羽のこうのとりが1尾の魚をくわえ,傍に斧が1本立っている絵が描かれている。画面は大きく,技法は細かく,内容豊かで,彩陶に描かれた絵の傑作である。4千年前から轆轤成形の技術が用いられたことにより, きちんと整った形態の陶器が多く出現した。そして山東龍山文化においては,かたを使って,大体の形を作り,その後に轆轤を用いて精巧な仕上げをしたので,薄さ0.5ミリの「卵殻黒陶」が出現した.出品した卵殻黒陶 はめこみ高柄杯,黒陶 双耳杯などのような「漆のように黒く, 鏡のように明るく, 紙のように薄く, 磁器のように硬い」胎上の薄い黒陶は, 原始社会後期の人類の製陶工芸の最高水準というに足るものである.
黄河流域の住民はこの時期に治金術を発明した。山西・河南・山東の龍山文化,甘粛斉家文化では, 銅製, 青銅製の小型の銅器が発見された。
冶金技術の発明と金属工具の使用は,生産力の水準を高め,生み出された富は日増しに増え,商品交換が始まり,私有財産はしだいに増加し,貧富の分化は激しくなった.氏族の部落の中心地区に, 自分達の生命財産を防衛し保護するために堡塁を築くことが始まった.この時期に当たる堡塁がすでに山東省寿光県,河南省登封県告成王城崗・淮陽県平糧台,内蒙古自治区涼城県老虎山・包頭市阿善などの龍山文化遺跡で発見されている。
おおよそこの時期に、社会生活・労働・交際の必要性から,思想と言葉を記録する書写符号(文字)も生まれ始めた.西安市半坡・臨潼県姜寨の仰韶文化,甘粛馬家窯文化,山東省莒陵陽河・諸城県前寨大汶口文化遺跡から出上した陶器の上には,刻みつけた符号と図形符号が数多く発見された。 治金術・文字・堡塁は初期人類社会が生み育てた文明の光である。それは黄河の大地を照らし,黄河流域の住民がいよいよ一つの新しい歴史時代に足を踏み入れることを予告していた。

文明史の始まリ--夏

文献記載によれば,大体紀元前21世紀ごろ,黄河中流一帯にいた夏族が中国歴史上最初の奴隷制国家――夏王朝を建てて,中国文明史でもある黄河文明史の第一ページを開いた.
夏および夏王朝の文物制度について,文献記載は非常に簡略ではあるが,比較的明確である。
夏はもともと部族連盟の名称であったが,後に王朝の称号となった.夏人は崇(今の河南省西部の嵩山)に興り,歴史に,夏の禹王は陽城に都を建て,その附近の伊水・洛水両岸は「有夏の居」とされた。また禹は安邑・平陽(現在の山西省南部)に都し, 西周前期には, 安邑・平陽を「夏墟」と呼び,そこの住民はなお夏人の風俗習慣を残していたともいう.夏王は帝丘(今の河南省濮陽市)に建都したこともあった。以上のことから, 今の山西省南部・河南省西部から東へ河北・河南・山東の省境あたりにかけてが夏人の活動した地域であったことが知られる.古籍記載の夏代に関する史料から次のことがわかる。
夏人は早くも大禹時代に「水土を平らぐ」ことに注意し,水路を整理し,原始的な灌漑技術を持っていた。そして黄河中流域は,主に黄河の沖積による黄土地帯であって,土壌が肥沃で植物栽培に適した自然条件を具えていたために,夏代の農業経済は相当の発展を遂げた。
さらに夏人は製銅で名高く,かつて九鼎を鋳造し,「銅を以って兵(兵器)を為った」。『墨子』耕柱篇に,「昔,夏王の開(夏王禹の子,啓のこと)は蛮廉に命じて山川から銅を採り,昆吾の地で鼎を鋳造させた.また伯益に命じて雉を殺しその血を白若という地に住む亀に塗り占いをさせた。亀がいうことに『三(四)足にして方形の鼎を作らん……』」とある。そのほかの手工業も細かく分業化され,任姓の奚仲という人が車の製造に巧みだったので,夏朝の車正(官名)になったと伝える.
また史籍には,夏朝の王都は城郭・溝池が整然と配置され,城内には官殿建築物がそびえ立っていたという。夏朝の統治者はおおまかな文物制度を打ち建て,国家に軍隊を設け,刑法を定め,王府(庫)には「石」「鈞」といった度量衡制があり, さらに「百官」を設けて社会を管理させ,被統治者は国家に対して貢ぎ物を納めるなどの義務を負わねばならなかった。
夏代の科学文化はすでにある程度の水準に達していた.夏人は絶えず農業生産の経験を積むとともに, しだいに天文暦法の知識を蓄えていった.『左伝』昭公十七年に引かれた『夏書』は, 当時,房宿(二十八宿の一)の位置に発生した日食を記録している.それによると, 日食が起った時「瞽(楽官)は鼓を奏し,嗇夫(貨幣を司る役人)は馳せ,庶人(下役)は走る」とあり,人々が太鼓を打ち鳴らして奔走するありさまが描写されている。これは世界最古の日食に関する記録である.暦法の方面では, 中国伝統の六十甲子(十干と十二支との組合せ)で日を記す方法は夏の時代にもう存在していたであろう.夏朝後期の二,三の王―胤甲・孔甲・履癸(桀)らが甲・癸などの十干を名としているからである.また春秋時代の孔子は「夏の四時の書」一『夏時』(夏の暦法の書)を見たことがある.後世に伝えられた暦法『夏小正』は夏代に蓄積した,天象及び生物と気候の関係などの科学的知識を含んでいたに相違ない。そればかりでなく,夏代には社会教育と学校の設置があり,文化的な典籍も存在したという。『孟子』滕文公に「(地方の学校を)夏代では校といい,殷代では序といい,周代では庠といい,都の大学は三代を通じて学と呼ばれた」という‘『漢書』芸文志(当時存在した書籍の目録)に「『夏亀』,二十六巻」とある。先秦の文献の中で,『夏書』(『書経』中の夏王朝に関する部分)の記事を引用して自己の立論の根拠とすることはよく見られるところである.夏の啓は『九辯』『九歌』という舞楽を創作した.
もちろん以上の全部を信ずるわけにはいかない。しかし考古学の発見にともなって,商(殷)代の歴史はすでに信頼できる歴史と確認されたし,先秦の典籍が早くから夏を商・周とともにに並べて「三代」と称してヽヽるので,『史記』夏本紀などの夏代に関する記事は信ずべき所がないとすることは断じてできない。
近年来,考古学者は夏代と夏文化の認識のために多くの貴重な資料を提供した。そのなかで最も重要なのは,50年代以来の,文献に書かれた夏人の活動の中心地一河南・山西などの数十力所の遺跡に対する考古学調査と大規模発掘である.
河南省偃師県二里頭・山西省夏県東下馮などの遺跡の考古学発掘は,非常に重要な成果を得た.二里頭遺跡では,龍山文化と商文化の間を橋渡しする文化いわゆる「二里頭文化」を発見した。考古学者によれば,それは独自の特徴を持ち,ほかの文化の陶器の組み合わせと違いがあり,初歩的な青銅治金鋳造技術を持っていた。このようなはっきりした特徴を具えた古代文化は,河南省西部と山西省南部で多く発見された。一部の学者は, この文化は長い間探索してきた夏文化であり,二里頭文化遺跡は夏代文化遺跡であろうと考えている.
二里頭遺跡は面積200余万平方メートル.遺跡中央部の上の文化層で,大規模な官殿基礎跡が数力所発見された。周囲には製銅・陶器焼成・骨器製造などの作業場跡,住民の集落,貴族の墓地が分布していた.1号宮殿基礎跡の一つは,すべて黄土を用いて版築をした大きな基壇で,東西108メートル,南北100メートルある。その中央部ゴ北よりの所が殿堂の基礎である。文献資料も参考にして,発掘状況から推測すると,殿堂は桁行8間,梁行3間,東西両面に回廊が設けられ,正南約70メートルの所が宮殿の正門である.これは堂・回廊・庭・門など各建造物によって構成された,主要な建物と副次的な建物がはっきり分かれ,配置が整い,混じり方が面白く,なかなか壮観な木造建築群であったと推定される.もしも二里頭遺跡が夏代文化の遺跡だとすれば, この宮殿基礎跡は夏王朝のある時期の都城建築遺跡であろう。
二里頭遺跡出上の文化遺物はたいへん豊富である。初期青銅器の発見は特に注目される。青銅器には祭器の爵,生産工具の手斧・刀・錐・釣針,武器の文・戚(まさかり)・鏃(矢じり), 楽器の鈴などがあった.銅爵はすでに作りが整っており,器壁の厚さもむらがなく,鋳型を組み合わせて作ったものである.別の銅器の残片上に緑松石(トルコ石)象嵌の図案も発見された。これは銅象嵌技術がすでに生まれていたことを説明している。そのほかの遺物には,陶質の鼎・罐・鉢・甕・豆・觚・爵・年などの生活用器と酒器, 石製と骨製の多種の生産工具と装飾品があり, さらに麻布などの繊物もあった。
夏代先人の観念形態に関するものも,二里頭遺跡では重要な発見があった.占卜に用いた卜骨は牛・羊・豚の肩胛骨で作られ,手入れされたものもあり,先に孔をあけてから火にあがる方法で占卜を行った。権威を象徴する玉製祭器には,琮・鉞(まさかり)・圭・璋・芸術品に,陶塑の亀・かえる・羊頭・彫刻した魚・兎・龍・獣面の図像があった。陶器の口縁附近に刻まれた符号は20種以上に及んだ.
文献では,夏朝は高から始まって桀で滅び,14世,17王,紀元前21世紀から前17世紀までの約400余年続いた。二里頭文化遺跡出土の標本の年代は,炭素年代測定で紀元前1900~前1600年であった。この炭素年代と文献記載の一致は, この時期の文化遺跡と遺物は夏王朝の文明を理解する上で重要な材料を提供できることを人々に信じさせる後押しとなる.

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