三内丸山縄文遺跡--梅棹文明論に疑問を呈す

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三内丸山縄文遺跡--梅棹文明論に疑問を呈す 2009.03.08更新

オンライン講座概要 講師:共立女子短期大学・教授   植木 武

前書き:  今(2009年1月)から7年前に、『情報考古学』に論文(植木 2002a)を書いた。その論文の中で、梅棹忠夫先生の文明理論を批判したが、以下にあるのがその抜粋部分である。筆者は、その論文が出版されるとすぐにコピーをとり、梅棹先生に郵送した。その中に手紙を同封し、梅棹先生の理論を批判したのでお読みくださいと書いた。ほどなくして梅棹先生から葉書が届いた。その葉書には、簡潔なお礼の他に、「…じっくりと読ませてもらいます」というようなお言葉が書かれてあった。筆者は少し驚いたが、とても嬉しい気持ちを持った。しかし、それ以降、今日まで連絡は無い。

三内丸山縄文遺跡は「縄文文明」で「縄文都市」か

約10年前に発掘調査された青森県の三内丸山遺跡は、それまでの縄文遺跡より格段に大規模であった。今から、5,000年、あるいは5,500年前の縄文中期の遺跡であるが、復元された遺跡公園を訪問した梅棹忠夫氏は、心から感動したようだった。梅棹忠夫氏をインタヴューして書かれた新聞記事によれば、三内丸山遺跡を訪れたあとで「とにかく感動しました。…まさに、「縄文都市」だったことが分かりました。私は、文明とは人間と装置群、そして制度群の総体である、と考えているのですが、三内丸山にはそれらがすべてそろっている。文明の起源が約3,000年さかのぼったと考えていいでしょう。」(朝日1995年11月19日)と、梅棹氏は言う。また、後日、三内丸山遺跡は、「まさに日本最古の都市」(朝日1995年12月9日)とも述べている(波線は筆者による。以下同様)。
これだけで明瞭と思うが、梅棹氏は、縄文文化の三内丸山遺跡を、縄文都市であり文明であると考えているわけで、このことは、縄文文化は国家と呼べることを意味してしまう。そのため、これらの新聞記事を読んだとき筆者は驚愕してしまった。なぜなら、東北の縄文中期の文化が、エジプト文明とほぼ同じ時代の古い文明となってしまうからである。筆者は、次号で詳述もするが、縄文社会はバンド社会であったと考えるわけで、それが文化進化階梯の最高レヴェルである都市や文明、つまり、国家レヴェルであると主張する梅棹氏の理論に驚いてしまったわけである。そのときから、いつか、しっかりと批判しなければならないと考えてきたわけで、本稿では、少し紙面をとり考察を加えることにした。
筆者が大学を卒業して、留学をする前に、梅棹氏の書かれた『文明の生態史観』を読み、いたく感動したことがある。そのとき以来、ひそかに氏を尊敬していたこともあり、今回のことがあろうとも、氏に対する筆者の気持ちに変わりはない。しかし、氏が文化人類学界で最長老のひとりであり、大きな尊敬を集めている研究者であり、考古学研究者にとって、文明とか都市とか国家という概念はあまり身近でなく、梅棹氏が言ったことならと無条件に受け入れてしまう考古学者は多い。そこで、たとえ理由は何であろうとも、間違いは間違いと指摘せねばと、筆者はこの数年間考えてきた。そこで、梅棹氏の理論が最も顕著に表明されている、ふたつの論文を検討することにした。
梅棹氏は、まず文明に関し、「われわれは、さまざまな道具類にとりかこまれ、複雑な機械を運転しております。巨大な建築物、道路等の施設群をもっております。そのように目にみえるもののほかに、精密にくみたてられたさまざまな制度をもっております。これらの、人間をとりまく有形無形の人工物のすべてを一括して、人間の生活をなりたたせている「装置群」をかんがえることができます。そうすると、人間の現実的なあり方というのは、人間と装置とで形成する一つの系、システムであるということができます。…この人間・装置系のことをわたしは文明ということばでよびたいのでございます。」(梅棹 1981: 8, 9)と言う。
次に氏は、文化と文明の関係に関し、「文明と文化はどうちがうんだというような議論は、しばしばたわいもない不毛の議論におちこみがちでございます。…文化は、人間・装置系としての文明の一側面にすぎないのであって、同列におくべきものではございません。しいて文化と文明の差をいうならば、人間・装置系としての文明が具体的な存在であるのに対して、文化というのはその精神的抽象的である…あるいは、文明は実体であり、文化はその見とり図、精神という断面への投影図である…。」(梅棹 1981: 9)と述べる。
更に梅棹氏は、「文化と文明とは、英語でもうしますとcultureとcivilizationという言葉にあたるかとおもいますが、…文化と文明というものをダイアクロニック(通時的)な関係としてとらえるのは、まずいのではないか、両者はむしろシンクロニック(共時的)な、同時共存的な関係にあるものとみたほうがいいのではないか…。」(梅棹 1984: 12)と言う。そして、「日常的な家庭用電気器具から、自動車、道路、あるいは構築物としての都市そのものにいたるまでの、もろもろの装置群、これらのものを文明の概念からおいだすわけにはゆきません。さらに、それらの装置群を操縦し、生活してゆくうえに、さまざまなとりきめ、約束ごと、すなわち制度群が存在します。…このような、装置群と制度群をふくんだ人間の生活全体、あるいは生活システムの全体のことを文明とよぶ…。」(梅棹 1984: 13)と説明する。
最後に氏は、「人間はつねに、つくられた環境に対応して、みずからの精神のなかで秩序をつくりあげてゆきます。それが、価値の体系であり、文化人類学における通常の用例にしたがえば、これこそが文化であります。さまざまな装置群、制度群の精神面へのプロジェクション(投影)が文化である…。このようにかんがえますと、文化はつねに文明の一部であり、その一面でもある…。文化と文明は完全に共時的なものということになります。文明あるところに文化あり、文化あるところに文明あり、というわけです。」(梅棹 1984: 13, 14)と述べ、更には、「文明はひじょうにふるい時代から存在する。たとえば旧石器文明というようなことも、やはりかんがえてよいでしょう。」(梅棹 1984: 21)とまで言及する。
そこで、梅棹氏の文化と文明に関する理論を図9のように図式化してみた。そこに並べて、通常、われわれ文化人類学の世界の研究者が考える、一般的な、文化進化階梯的見地からみる、言うなれば「通時的理論」も図式化してみた。
 
氏の試論の根本的誤りは、図9で明らかなごとく、文化は文明の一側面ととらえながら、文明と文化を同じ実体ととらえていることで、単に視点の違いで分かれると考えている点である。つまり、文化と文明をシンクロニックに見ているところが根本的な誤謬となる。通常、文化人類学では、文化というものを、ある特定の社会、あるいは、その人々が創造した物体、その人々がもつ価値基準、その人々がとる行動、その人々の態度、姿勢、倫理、哲学等と定義する。言い換えれば、文化とは、ある人々により作られ、そして、その人々が、次の世代の人々に伝達してゆく生活様式一般である。すなわち、文化とは、非常に広い概念で、どんな時代、どんな社会にも使えるが、文明とは、エジプト文明とか黄河文明というように、いろいろな文化の中でも最高レヴェルに発達した、言いかえれば高文化のみに適応できる概念である。つまり、文化なら、旧石器文化とか、エジプト文化と呼べるが、梅棹氏の言う旧石器文明とか、縄文文明というのは絶対に言えないのである。梅棹氏の使う「文明」とは、いわゆる通常の文化人類学で言う文化の概念に非常に近く、氏の使う「文化」とは、少々不明なところもあるが、文化人類学で言うなら精神文化と置き換えられるのだろうか。
梅棹理論をバックアップする方々の中には、「いいじゃないか、それは氏なりの独特な理論なのだから…」と言う方がおられるかも知れぬ。しかし、これは無理である。なにしろ、文化と文明という言葉は、文化人類学の中で根幹にかかわる概念なのであるからだ。例えば、物理や化学の世界で、「原子と分子は見方の違いで、実は同じものである」と言われたら、学問が成立しなくなる。なにしろ、原子も分子も、物理や化学の世界では根幹にかかわる概念なのである(植木 2002a: 26, 27)。
以上が抜粋部分であるが、ご理解頂けたであろうか。文明、国家、文化についてもっと知りたければ、拙著(植木 1996: 9-39)を参考にして欲しいが、ここではまったく別に下のように箇条書に書いて読者の参考にしたい。
1.文明とは、社会の中でも最高レヴェルに発達した国家のみにおいて持ち得る最高に発達した文化である。
2.文化とは、バンド社会(band)、部族社会(tribe)、首長制社会(chiefdom)、国家(state)に拘らず、どのレヴェルの社会でも有するものである。つまり、社会発展階梯とは関係なく使用できる普通的概念である。
3.英語圏において、文明と国家は、相違する概念とは誰もが認識しながらも、同義語のごとく使用されてきた歴史的経緯がある。urban center, urban civilization, city等も、考古学においては国家レヴェルの社会にして初めて有することができるということで、文明・国家と類する用語として使用されてきた。
4.基本的には、旧石器時代がバンド、縄文社会がトライブ、弥生社会がチーフダム、古墳社会が初期国家、律令時代(645年~)が成熟国家と考えたい。
上記の1~3は、英語圏(アメリカの文化人類学、イギリスの社会人類学)では基本的概念として、誰もが一致する考え方である。ただし4に関しては、日本の考古研究者の間でまだ議論されておらず、ここでは検討の余地をもつ仮説として提案しておく。

引用文献
植木武
1996 「初期国家の理論」『国家の形成-人類学・考古学からのアプローチ』植木編pp. 9-39. 東京: 三一書房.
2002a「世界文化進化階梯を視点に日本先史時代を考えるⅠ-バンド社会から初期国家の発生までの理論」情報考古学8(1): 20-27.
2002b「世界文化進化階梯を視点に日本先史時代を考えるⅡ-バンド社会から初期国家までの日本ケース・スタディー」情報考古学8(2): 40-49.
梅棹忠夫
1981 「生態系から文明系へ」『文明学構築のために』梅棹編pp. 4-15, 東京: 中央公論社.
1984 「近代社会における日本文明」『近代日本の文明学』梅棹・石毛編pp. 8-39, 東京: 中央公論社.
1995 「日本の文明、3000年さかのぼる」1995年11月19日. 朝日新聞.
1995 「想像以上に豊かな生活 最古の都市、三内丸山」1995年12月9日. 朝日新聞.

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