中国初期農業における共通性と地域性

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中国初期農業における共通性と地域性 2007.08.01更新

オンライン講座概要 講師:森本和男 明治大学文学博士

『考古学研究』第41 巻第2号(162)pp. 80〜101.

前書き: 1970年代に発見された磁山遺跡と裴李崗遺跡は、それまで知られていた仰韶文化よりも古い農耕遺跡として、中国内外で注目をあびた。一方、長江下流域の河姆渡遺跡の調査は、稲作の起源について重要な考古学的資料を提供した。70年代から80年代にかけて、初期農業に関する重要な遺跡が中国各地で相次いで調査され、それまで考えられていた中国初期農業の容貌を、一変させてしまうほどであった。理論的には中国考古学界に、考古学的文化の区系、類型問題を引き起こしたのである(1)。蘇秉g等の区系、類型論は、70年代まで中国考古学界で支配的であった考古学的文化の伝播論的見方を否定し、各地域独自の文化的発展を提示した。しかしながら、区系、類型論では考古学的文化の構造についてあまり論じられることがなく、また、考古学的文化の生成、発展の原因についても触れられなかった。 そこでこの小論では、人間と環境との関係に重点をおきながら中国大陸各地の初期農業を一瞥し、さらに考古学的文化生成について少し触れてみたい。

中国初期農業における共通性と地域性

古環境について

 

最近の古環境の研究によると、中国第四紀の地理区画は第三紀の地理区画を基本として線引することができ、夏季に海洋の影響を受ける湿潤な東部季節風区、西北の乾燥区、高原の青蔵高寒区の三大区が想定された(3)。氷河期終結後の沖積世の地理区画も、ほぼ同じような三大地理区画が設定されている。東部季節風区は東北、華北、華中、華南に分割され、森林の多い湿潤な地域である(4)。中国初期農業を考える際にも、この地理区画を基本にして、地域的に華北、華中、華南に分けて叙述したい。
 初期農業出現前夜の華北の自然環境について、何炳棣と張光直の論争がある(5)。何炳棣は洪積世以来華北の乾燥化を主張し(6)、張光直は氷河期以降の温暖で湿潤な気候を想定した(7)。両者の論争について最終的な決着がついたわけではないが、近年、花粉分析を主体により細かい古環境の復原が可能となった。
 後期洪積世は、最後の氷河期である大理(ヴィルム)氷河期の時代である。華北の黄土高原では、大理氷河期は大理開始期、大理前期、大理中期、大理後期と大きく四時期に分けられ、さらにいくつかの氷期と間氷期が設けられた。氷期には蒿(ヨモギ)、藜(アカザ)や樺(カバ)からなる草原もしくは森林草原が黄土高原に広がった。間氷期には雲杉等の針葉樹や樺からなる森林が成長した(8)。黄土高原の沖積世は前期、中期、後期に分けられた。前期には蒿、松からなる森林草原ないしは草原が広がっていた。中期は前半と後半に分けられた。中期前半は温暖湿潤な気候で、森林が繁茂し、世界的な気候最適期(Climatic Optimum)と一致した時期でもあった。後期になると徐々に気温が下がり、今日の気候に近づいたのである(9)。
 華北平原では、30,000年前に雲杉、冷杉を主体とする針葉樹林が繁茂していた。12,000年前からは椴(トドマツ)を主体とする落葉広葉林が広がった(10)。氷河期終結後、沖積世は前期、中期、後期に分割され、全体的に気候は温暖湿潤となった(11)。華北平原でも気候最適期が観察され、現在淮河付近にある亜熱帯の北限が、その頃には燕山山脈南麓にあったと予想されている(12)。
 長江流域の古環境について見てみると、中流域の洞庭湖周辺の花粉分析では、洪積世末の氷期終決後に気候は温涼湿潤となり、沖積世中期には温暖湿潤、以後温干となった(13)。下流域の上海・杭州湾地区で過去10,300年の間に、5つの涼期、4つの暖期が観察された。7,500〜5,000年前はアトランティック期にあたり、今よりも気温が2〜3度高く、降水量も500〜600mm多かった(14)。現在長江以南に広がる常緑広葉林が、その頃は長江以北にまでも広がっていた(15)。
 華南地区については、残念ながら花粉分析がほとんどおこなわれておらず、古環境の復原も進んでいない。ただし長江以南の動物相については、洪積世の大熊猫−剣歯象(パンダ−ステゴドン)動物群が現代動物群の基礎となっているので(16)、動物相について大きな変動はなかったと考えられる。

華北

 

華北における旧石器時代の編年について、現在、いくつかの系統、編年が提案されているが(17)、ここでは、絶対年代と石器製作技術の特徴を考慮した 聰と盖培の編年をもとに(18)、おおよそ妥当しうる年代観に沿って、後期旧石器遺跡を見ていくことにする(19)(表1)。
 華北の後期旧石器遺跡は主に黄土高原全域に散在し、黄河、 河、汾河、渭河、桑干河、およびその支流河川の河岸段丘上に遺跡が存在する(第1図)。華北の後期旧石器遺跡は、河川沿いの河岸段丘に位置する例が多い。旧石器遺跡から出土した石器や動物骨は、河流によって運ばれて二次的に堆積した可能性がある(20)。けれども、旧石器遺跡には灰燼が堆積していたり、火を使用した痕跡が残っている場合がしばしばある。また、出土する動物骨には人工的な破砕痕や、火で焼けた痕があり、動物骨は人間の食した後の残滓とみられる。つまり、河岸の旧石器遺跡は、人間の生活痕跡をそのまま伝えている可能性も考えらるのである。旧石器遺跡から出土した動物骨は人間の捨てた残骸と思われるので、動物骨を検討することによって、旧石器時代人の食生活、生業の一部をかいま見ることが出来るであろう。
 第一期の遺跡は剥片石器に代表される比較的古い遺跡で、太行山脈の東縁と東南端、関中盆地、陜北高原、オルドス高原南縁に位置する。薩拉烏蘇遺跡の年代は、ウラン測定法によると5−3.7万年前、放射性炭素測定法によると約35,000年前と推定された。その頃の気候は温暖湿潤であった。比較的遠い高山には冷杉、雲杉、鉄杉が、低い山には松、山毛欅(ブナ)、楡(ノニレ)が育ち、平原では様々な潅木、草、水草が繁茂していた。付近には温暖を好む象や水牛、原始牛が生息していた。当時の環境は現在のものとかなり異なり、人類の生存にとって快適であった。
 薩拉烏蘇遺跡から多量の化石動物骨が出土した。動物肢骨の末端部が欠けていたり、また幼年個体の骨が多かった。このような動物骨の状態には人類活動の関与がうかがえる。300個を越える羚羊(ガゼル)の角が出土し、そのうち少なくとも150頭以上は普氏羚羊(プルツワルスキー・ガゼル)の角であった。これらの動物化石は当時の人々が食した残骸である。それゆえ薩拉烏蘇遺跡の住民は「ガゼルを狩猟する人」と呼ばれた。彼らは特定の大型草食動物の狩猟を主な生業としていたのである。劉家岔遺跡から出土した化石動物骨には、披毛犀(ケサイ)、普氏野馬(プルツワルスキー・ウマ)、河套大角鹿(オルドスオオツノジカ)等の動物種が確認された。そのうち披毛犀の骨が最も多く、その次に河套大角鹿の骨が多かった。幼年個体の動物骨が相当数有り、弱い動物が餌食となったのであろう。この遺跡からも大型動物を対象とする狩猟活動がうかがえる。
 第二期の遺跡はナイフ型石器と細石器に代表される。山西高原、太行山脈の東縁と南側、陜北高原、オルドス高原西縁に位置し、第一期の遺跡とほぼ同じ地域に遺跡が分布する。水洞溝遺跡の年代は放射性炭素年代測定法により、17,250±210 B.P. (PV-331)、26,190±800 B.P. (PV-317)という数値が得られた。花粉分析の成果によると、遺跡周辺には湿冷な気候を示す雲杉、冷杉が育ち、一方で耐干性の蒿や藜の草原が広がっていた。薩拉烏蘇遺跡が最後の氷期以前の温和な間氷期の環境であったのに対し、水洞溝遺跡は最後の氷期の寒冷な環境のもとにあった。
 水洞溝遺跡から化石動物骨はさほど多く出土しなかったが、プルツワルスキー・ウマ、野驢(ノロバ)、披毛犀、羚羊等の草食動物の骨が石器や灰燼とともに出土した。ここでも大型草食動物を対象とした狩猟活動がうかがえる。峙峪遺跡から出土したほとんどの動物骨に人工的な打撃痕があるため、それらの骨は人間の食した残骸とみてよかろう。歯の数から少なくとも120頭のプルツワルスキー・ウマ、88頭の野驢の存在が確認された。したがって峙峪遺跡の人々は「馬を狩猟する人」と呼ばれている。彼らも薩拉烏蘇遺跡の人々と同様に特定の草食性大型動物の狩猟を主な生業としていた。小南海遺跡は洞穴遺跡である。大量に出土した動物骨に人工的な打撃痕もしくは焼けた痕跡があったため、動物骨は人間の食した残滓であったと思われる。大型草食動物である野驢、披毛犀の多くは老年個体か幼年個体であった。狩猟しやすい動物が狙われたのであろう。
 第三期の遺跡は発達した細石器によって代表される遺跡で、山西高原、太行山脈の北側、燕山山脈の東南、関中盆地、山東半島の西南部に位置する。黄土高原全域に遺跡は分布しておらず、どちらかと言うと黄土高原の東側、そして華北平原の東側、山東半島の西南部に遺跡が多い。この時期は最後の氷期の最盛期にあたり、黄土高原には蒿や藜の草原が広がっていた。華北平原には雲杉、冷杉などの針葉樹や落葉広葉樹が繁茂していた。
 虎頭梁遺跡も河段段丘に形成された遺跡である。遺跡の年代は、放射性炭素年代測定値によると11,0000±210 B.P. (PV-0156)であった(21)。動物化石の大多数は破砕されていて、焼けている骨も多かった。動物骨はすべて草原動物のものであり、しかも歯の摩耗が深いため、多くは老年個体であった。獲ってきた動物をこの場所で解体し、焼いて食べたのであろう。
 旧石器時代末期から新石器時代初頭までの移行期として想定された「中石器」時代の遺跡は、山西高原の西南、華北平原の西縁に位置し、黄土高原の縁辺に分布する。柿子灘遺跡からは羚羊の歯が数百点以上も出土し、その多くは焼けていた。ここでも特定の大型草食動物に対する狩猟活動を見てとることができよう。脊椎動物化石の他に3種類の貝殻が見つかっている。霊井遺跡から出土した動物骨には披毛犀、普氏野馬、野驢、象、馬鹿(アカシカ)等の大型動物の骨が含まれていた。大型動物の骨以外に、亀類と蛙の骨および数種類の貝殻も出土している。
 現在知られている最古の華北新石器文化は、華北平原西側に分布する磁山・裴李崗文化と関中盆地に分布する老官台文化である(表2)。これらの文化は約8,000年前に出現し、しばしば「前仰韶文化」と総称されている(22)。最後の氷期が終結してから前仰韶文化が出現するまでの間、この時間帯に属する遺跡、文化はまだ見つかっていない。
 前仰韶文化の遺跡分布は、後期旧石器遺跡の分布と比較してかなり異なる(第2図)。山東半島西南部にある遺跡をのぞき、後期旧石器遺跡が黄土高原に散在していたのに対し、磁山・裴李崗文化の遺跡は黄河流域の、黄土高原と華北平原の接する地帯に密集している。また、老官台文化の遺跡は、黄土高原の南側、渭河流域の盆地およびその南側に多く存在する。最後の氷期の寒冷で乾燥した気候のもとで、黄土高原に草原もしくは森林草原が広がっていた一方、後氷期の気候最適期に温暖で湿潤な気候のもとで、華北平原に亜熱帯性の動植物が繁殖していたことを考えあわせると、後期旧石器遺跡の分布と前仰韶文化の遺跡分布の対比は興味深いものである。
 磁山遺跡から多数の灰坑が見つかり、その中には粟が貯蔵されていた。石 、磨盤、磨棒、骨錐、骨鏃、骨ヤス、骨針等の生産用具が出土した。人間の廃棄した大量な動物骨を鑑定すると、23種の動物種が判明した。家畜動物として犬、家猪(ブタ)の存在が確認されたが、大型動物、鳥類、魚貝類の残骸も多かった。犬、家猪の畜産が既に始まっていたものの、多種多様な野生動物を対象とする狩猟採集活動も盛んに行われていた。特に鹿類の骨が多く、大型動物としての鹿類の狩猟は重要な地位を占めていたであろう。秦嶺に位置する紫荊遺跡からも、大量の動物骨が出土した。この遺跡でも犬、家猪の骨が確認されたが、これらの家畜動物の骨の残存量よりも、鹿類の骨の残存量がはるかに多かった。動物骨以外に貝殻も出土しており、広範な狩猟採集活動の存在を予想できる。
 植物遺存体として粟の他に、磁山遺跡から胡桃(クルミ)、榛子(ハシバミ)、小葉朴、西万年遺跡から胡桃、裴李崗遺跡から梅(ウメ)、酸棗(サネブトナツメ)、胡桃、沙窩李遺跡から核桃(クルミ)、棗(ナツメ)、莪溝北崗遺跡から麻櫟(クヌギ)、棗、核桃、石固遺跡から核桃、棗、大地湾遺跡から稷(キビ)、油菜(アブラナ)が見つかり、粟作以外の植物の採集活動をうかがうことができる。
 華北の遺跡から出土した動物種を一覧表にまとめてみよう(表3)。大型動物として後期旧石器遺跡からは披毛犀、河套大角鹿、プルツワルスキー・ウマ、野驢、プルツワルスキー・ガゼル、鵝喉羚(コウジョウセンガゼル)、 赫特転角羊、馬鹿、原始牛等が多く出土した。これらの動物の多くは草食性で、草原に生息する動物であった。しかも、現在絶滅してしまったか、もしくは絶滅寸前の動物種がほとんどである。新石器遺跡から出土した大型動物には馬鹿、梅花鹿(ニホンジカ)、四不像鹿(シフゾウ)、 (ノロジカ)、 (キバノロ)等々があり、森林や水辺に生息する鹿類が主体であった。中小型動物として (アナグマ)と野猪(イノシシ)が旧石器遺跡、新石器遺跡両方から出土している。魚貝類は旧石器時代末期の遺跡から出土し始めた。
 華北の後期旧石器遺跡は主に黄土高原に位置していたが、後期旧石器時代の後半になると、黄土高原の東側および華北平原の東南に遺跡が分布するようになった。旧石器時代人は、やや乾燥気味の草原もしくは森林草原の広がる黄土高原で、大型草食動物を狩猟して暮らしていた。しかも、特定の動物種を集中的に狩猟する傾向がしばしば見受けられた。間氷期にあたる薩拉烏蘇遺跡でも氷期にあたる水洞溝遺跡でも、同じ様に草原性の動物が狩猟の対象となっていた。旧石器時代末期の遺跡は黄土高原にはあまりなく、黄土高原の縁辺に位置している。細石器が盛んに製作されるようになっても、基本的に狩猟活動に大きな変化は見られなかった(23)。ただし、脊椎動物以外に貝、亀、蛙等の小動物も、食糧の範囲に含まれるようになった。新石器時代になると、人々は動植物の豊かに繁殖する平原の森林へ居を移し、広範な狩猟採集活動を行なった。粟作が進展する一方で、森林に生息する鹿類の狩猟も盛んであった。

華中

 

長江流域に属する四川盆地、貴州高原、洞庭湖平原、江漢平原、長江三角州が華中である。この地区は亜熱帯に属する。貴州高原や四川盆地の山間地帯には常緑広葉林が広がっている。また、長江中下流域の平原には落葉広葉・常緑広葉混交林が広がり、湖沼、湿原も比較的多い。
 華中の後期旧石器遺跡は(表4)、樟脳洞遺跡を除いて、内陸の奥深い山間地帯である貴州高原や四川盆地に分布し、長江中下流域には存在しない(第3図)。また、石灰岩性山地の洞穴遺跡である場合が多い。後期旧石器遺跡の年代は約2万年から1万年前である。近年、洞庭湖西側の 水流域でも、後期旧石器遺跡の存在が確認されているが、その実体はさほど詳らかではない。
 馬鞍山遺跡は山間の岩蔭遺跡で、遺跡の年代は放射性炭素年代測定値によると15,100±1500年前(BK82062)、ウラン年代測定値によると1.8±0.1万年前(BKY82037)であった(24)。出土した動物骨は人間の食した残骸であろう。巨獏(オオバク)、中国犀(シナサイ)、鹿類、水牛、山羊等の大型森林動物の他に、豪猪(ヤマアラシ)、 猴(アカゲザル)、齧歯類等の中小型動物の骨が確認された。樟脳洞遺跡も岩蔭遺跡で、馬鞍山遺跡とほぼ同じ年代に属する(13,490±150)。出土した動物骨には、絶滅した巨獏、基什貝尓格犀(スマトラサイ)、東方剣歯象や、大熊猫、蘇門羚(カモシカ)、青羊(ゴーラル)等、森林や高山に生息する動物が含まれていた。
 穿洞遺跡の洞穴内からも人間の生活痕跡がうかがえた。遺跡の年代は、放射性炭素年代測定値によると8,315±100 B.P. (PV-231)、8,920±100 B.P. (PV-232)、8,790±100 B.P. (PV-233)、9,880±110 B.P. (PV-234)であったが(25)、洞穴内の堆積層が厚いためにかなりの時間幅が予想される。花粉分析によると堆積層下部、中部、上部で異なった気候を示していた。動物骨には牛、鹿類、羊、羚羊等の大型動物と野猪、豪猪、 猴、鼠等の中小型動物のものがあった。
 飛虎山洞穴遺跡の洞内には、旧石器時代と新石器時代の堆積層があった。旧石器時代の堆積層から石器、骨角器、動物化石、焼骨が出土した。その年代は放射性炭素年代測定値によると、12,920±350、13,340±500年前(GC-702)であった。動物遺存体には鹿類、牛、大熊猫、羊等の大型動物の骨の他に、鳥類の骨と淡水産の貝殻が出土した。特に鹿、牛の骨が多く、当時、これらの動物は主要な狩猟対象であった。猫猫洞遺跡は石灰岩性山地の洞穴遺跡であり、洞穴内で大量の石器、骨角器、人類化石、動物化石、焼骨、焼石が層を形成して堆積していた。遺跡の放射性炭素年代測定値は、9,075±130 B.P. (PV-230)であった。また、ウラン年代測定値は14,600±1200年前であった(26)。遺跡の内容も考慮すると、遺跡の年代は後期旧石器時代の末期に近いと考えられる(27)。動物化石は、中国犀、鹿類、牛、象、窄歯熊(ヒグマ)、野猪等の森林動物のものであった。その他に淡水産の貝殻が多く見つかった。人々は大型の森林動物の他に、淡水産の貝も食べていた。
 長江流域の古い新石器文化として、中流域に彭頭山文化、 市下層文化、城背溪文化、大溪文化、そして下流域の平原に河姆渡文化、馬家浜文化がある。新石器文化の遺跡はおおむね平地で形成されたが、山間の洞窟内で形成された洞穴遺跡も少しある(表5)。彭頭山文化の年代は約8,200年前、 市下層文化と城背溪文化はそれよりもやや新しい。大溪文化は6,400〜5,300年前、河姆渡文化は7,000〜5,300年前、馬家浜文化は7,000〜6,000年前である。
 新石器時代の洞穴遺跡は、貴州高原と 陽湖の東側に位置する。貴州高原にある洞穴遺跡は、後期旧石器時代の洞穴遺跡の伝統を受け継いだものであろう。けれども、 陽湖の東側にある仙人洞遺跡は、周辺に後期旧石器遺跡も、また古い新石器遺跡も分布しておらず、孤立した存在である。
 おおよそ今から8,200年前の遺跡とされる彭頭山遺跡から、稲殻を含む土器片や焼土が見つかったため、近年話題をよんでいる。この遺跡は洞庭湖の北西、 水流域に位置する。当時、遺跡の周辺には暖性針葉林が広がり、暖湿な気候であった。気温は現在よりもやや低く、気候最適期以前の環境を示している。彭頭山文化よりもやや新しい 市下層文化の遺跡は、 水流域の北側、高原と平原の接する地帯に位置している。また、 市下層文化と同じ様に彭頭山文化よりも新しい城背溪文化の遺跡は、三峡の東側から高原と平原が接する地帯にかけて多く分布している。つまり、彭頭山文化、 市下層文化、城背溪文化の遺跡は、大河川である長江が山地から平原に流入する地帯に密集しているのである。この分布状態は、華北の磁山・裴李崗文化の遺跡分布状況と類似している。
 大溪文化の遺跡は峡江地区に位置し、上記の三つの文化の遺跡分布範囲よりもやや広い範囲に分布している。湿気が多いためであろうか、大溪文化の住居は土を焼いた紅焼土の上に設けられる例が多い。
 彭頭山文化の土器には稲殻が含まれていたため、稲作の存在が予測された。けれども、生業の中で稲作が占める割合は低く、狩猟、漁労、採集活動が主体であったと報告された。 市下層文化、城背溪文化、大溪文化の生業について、遺跡出土の動植物遺存体を鑑定、分析した報告例はほとんどない。大溪文化の住居建造物である紅焼土および土器の胎土に、稲殻、稲草が混入している例がいくつか挙げられる。農耕用の石斧、石 等も出土しているため、たぶん大溪文化の人々は稲作を行っていたであろう。狩猟用の鏃の出土例は少ない。比較的湖沼の多い地域に遺跡が分布しているため、水産小動物の採集、漁労活動が盛んであったと推測される。中堡島遺跡の大溪文化土層中から、魚骨を大量に含んだ堆積層が確認された。また、清水灘遺跡でも多量の魚骨が出土した。
 長江下流域の河姆渡文化、馬家浜文化の遺跡は、海に近い太湖東側の平原に集中している。ここでも湿気が多いせいであろうか、木造建築物を建てたり、江焼土の上を住居としている。
 河姆渡遺跡から稲の遺存体と多数の動物骨が出土した。農業用具として骨耜、木 、骨鎌があり、稲作の行われていたことがわかる。動物骨の種類はかなり豊富であった。大型動物として森林もしくは水辺にいる鹿類、犀、水牛の骨、中小型動物として犬、家猪、猿類、霊猫(ジャコウネコ)等の骨、さらに亀類、爬虫類、鳥類、魚類の骨があった。数量的には鹿類の骨が極めて多く、狩猟の対象として鹿類の存在はかなり重要であったと思われる。鹿角が400点以上あり、そのうち人口加工痕のあるものが4分の1を占めた。亀類、鳥類、魚類の残骸も比較的多かった。狩猟に使われた大量の骨鏃や漁労に使用された骨ヤスの出土は、狩猟漁労活動も盛んであったことを物語っている。羅家角遺跡でも同じような光景が見うけられた。稲作だけでなく、狩猟漁労活動も活発であった。鹿類の遺存体を見てみると、自然落下した鹿角が120数点、頭骨が80数点、自然落下でない鹿角が220数点もあった。魚類の骨も相当量出土し、ほとんどが灰坑から出土した。数量は600点を越えていた。馬家浜遺跡からもわずか50m の調査範囲から約1,000kgの動物骨が出土した。特に下層では20〜30cmの堆積層を形成していた。水牛、鹿、野猪、狐、亀類の遺骸や貝殻が含まれていたが、最も量が多かったのは水牛と鹿の動物骨であった。
 古代の長江河岸に近かった  遺跡からは、大量の貝殻、魚骨、動物骨が出土した。動物骨として鹿類、水牛、家猪、貉(タヌキ)、亀類、鳥類、魚類の脊椎動物が確認された。そのうち鹿類の骨が最も多く、次に多かったのは家猪の骨であった。稲が出土したため稲作も行なわれていたと予測できるが、当時の人々の生業として、鹿類を中心とした狩猟活動と魚貝類の漁労採集活動が主体であっただろう。
 植物遺存体として稲の他に、いくつかの遺跡から葫蘆(ヒョウタン)、菱、酸棗、桃核(モモ)等が出土し、畑作とまでは言えないが(28)、植物の採集活動を見て取ることができよう。
 華中の遺跡から出土した動物種を一覧表にまとめると(表6)、後期旧石器遺跡からは巨獏、犀、大熊猫、鹿類、野猪、 猴等の森林動物の出土例が多い。後期旧石器時代末期の遺跡から鳥類、貝類の残骸が出土し始めた。新石器遺跡からは大型動物として鹿類の骨が数量的に最も多く出土した。中型動物として家猪、そして、鳥類、魚貝類の出土も多かった。
 後期旧石器遺跡は主に高原の森林地帯に散在している。後期旧石器時代に人々は山間の洞穴内に居を構え、周囲に生息する巨獏、中国犀、鹿類、羊等の大型動物や豪猪、野猪、 猴等の中型動物を狩猟していた。旧石器時代の末期に近づくと、鳥類も捕獲するようになり、また、淡水産の貝も採集するようになった。旧石器時代の末期に食糧の範囲が拡大したのである。華中の古い新石器遺跡は高原と平原の接する地帯と、大海に近い平原に分布している。新石器時代に人々は平原に居を移し、森林や水辺にいる大型動物の鹿類を狩猟するとともに、鳥類の捕獲、魚貝類の漁労採集活動も盛んに行なった。また、稲作も徐々に進展させた。

華南

 

南嶺、両広丘陵、貴州高原南部が華南地区である。地形は起伏に富んでおり、高原や丘陵が多い。場所によっては石灰岩からなるカルスト地形を形成する。高原、丘陵に熱帯常緑広葉林が広がっている。
この地区の古人類・後期旧石器遺跡はやや内陸の高原、丘陵地帯に散在し(第4図)、おおむね洞穴遺跡である(表7)。古人類・後期旧石器遺跡として二種類のタイプがある。一つは、絶滅種をふくむ動物骨と人骨や人の歯の出土した遺跡である。もう一つのタイプは、人骨、動物骨および石器などの人工遺物とともに貝殻の堆積していた遺跡である。もちろん前者のタイプが年代的に古い(29)。
 絶滅種をふくむ動物骨、人骨、人の歯が石器と共伴して出土した白蓮洞遺跡西部五・七層、宝積岩遺跡から人間の生活痕跡をうかがうことができる。白蓮洞遺跡西部十層の放射性年代測定値は37,000±2000 B.P. (BK82101)、また、西部四層は26,680±625 B.P. (BK82098)であった。宝積岩遺跡の年代は放射性年代測定値によると24,760±900 B.P. (BK79410)、27,940±1000 B.P. (BK79413)、35,600±1500 B.P. (BK79421)であった。この遺跡からは巨獏、剣歯象、犀、大熊猫、鹿類、最后鬣狗(ハイエナ)、 猴、野猪等の動物骨が出土した。動物骨は人間の食した後の残滓であろう。
 麒麟山遺跡、白蓮洞遺跡東部三・四・六層、飯甑山岩遺跡、下山洞遺跡、独石仔遺跡中・下文化層、羅髻岩遺跡では、人骨、動物骨、石器とともに貝殻が出土した。洞穴内には灰燼、焼骨、焼石、炭化物等の生活痕跡を示す遺存物が堆積していた。白蓮洞遺跡東部七層の放射性年代測定値は11,670±150 B.P. (BK82096)であった。独石仔遺跡下文化層の測定値は16,680±570 B.P. (BK83018)、中文化層は15,350±250 B.P. (BK83017)、14,260±130 B.P. (BK83016)であった。独石仔遺跡からは、巨獏、犀、鹿類、 猴、霊猫、鼠類等の動物骨と淡水産の貝殻が出土した。洞穴内で暮らしていた人々は森林動物の狩猟の他に、淡水の貝類の採集もおこなっていた。けれども、動物遺存体のなかに鳥類、魚類、亀類の残骸が含まれていなかったため、鳥類、魚類、亀類はまだ食糧の対象とはなっていなかった。漁労はまだ発達していない。
 華南の古い新石器時代の遺跡には洞穴遺跡、平地遺跡、貝塚遺跡がある(表8)。
 新石器時代の洞穴遺跡は、後期旧石器時代の洞穴遺跡と同様にやや内陸の丘陵地帯の山間に位置し、分布範囲もほぼ同じである。新石器時代初頭の洞穴遺跡からは、土器、石器、骨角器等の文化遺物とともに、人骨、動物骨、および大量の貝殻が出土した。新石器時代の洞穴遺跡の年代は、甑皮岩遺跡が約9,000年前、白蓮洞遺跡東部一層の放射性年代測定値が7,080±125 B.P. (BK82092)、独石仔遺跡上文化層の測定値が13,220±130 B.P. (BK83009)、黄岩洞遺跡の測定値が11,930±200 B.P. (ZK-0676)、10,950±300 B.P. (ZK-0677)、大竜潭鯉魚嘴遺跡の測定値が10,505±150 B.P. (PV-0401)、11,785±150 B.P. (PV-0402)であった。
 新石器時代初頭の気温は現在よりもやや低く、甑皮岩遺跡の周辺には針葉落葉植物からなる疏林が広がっていた。この遺跡からは鹿類、水牛、 猴、大霊猫、椰子猫、鼠類、豪猪、家猪等の哺乳類、魚類、亀類、鳥類の動物骨、淡水産の貝殻が出土した。白蓮洞遺跡(上部堆積)からは鹿類、水牛、羊、野猪、 猴、鼠類等の動物骨の他に、鳥、陸亀、蛙、鯉、青魚の骨と各種の貝殻が出土した。新石器時代初頭に洞穴に住んでいた人々は、鹿類、 猴、野猪等の森林動物や淡水産の貝以外に、鳥類、魚類、亀類も食べていた。また、甑皮岩遺跡、大竜潭鯉魚嘴遺跡第二期文化では、鹿類の骨が動物骨の中で最も多かった。鹿類の狩猟と貝類の採集の他に、鳥類の捕獲、魚類、亀類の漁労活動が新しい生業として始まった。生業活動が広範に活発となる一方、大型動物では鹿類が主な狩猟対象として選ばれるようになった。
 華南の貝塚遺跡は、広西自治区、広東省、福建省、台湾の河岸、もしくは沿海の台地上にある。貝塚遺跡はかなり広い範囲で多数見つかっているが、正式に発掘調査された遺跡は少ない。洞穴遺跡が高原や丘陵の山間に位置していたのに対し、貝塚遺跡は盆地や海岸沿いのやや開けた台地上に位置する。洞穴遺跡内でも貝殻が堆積していたが、台地上にある貝塚遺跡では、広い範囲にわたって厚い層を形成して貝殻が堆積していた。
  江沿いの広西自治区南寧地区で貝塚遺跡が数多く確認された。遺跡の年代は甑皮岩遺跡と同じか、あるいはやや新しい。淡水産の貝殻を始め、比較的バラエティに富んだ動物骨が出土した。沿海の広西自治区防城県および広東省潮州市の貝塚遺跡からは大量の鹹水産の貝殻が出土した。動物骨の種類は乏しかった。これらの沿海の遺跡から、「 蛎啄」と呼ばれる牡蛎を専用に採取する石器が多く出土した。牡蛎の採集活動が盛んであったことが推し量れる。哺乳動物、魚類、鳥類の骨も貝塚に含まれていたため、生業として狩猟、漁労活動も行われていた。陳橋村遺跡、 殻 遺跡、渓頭遺跡下層、および台湾の大 坑文化からは類似した土器が出土し、これらの貝塚遺跡は同じ年代に属する。放射性年代測定値によると 殻 遺跡の年代は約7,500〜6,000年前であった(30)。つまり、沿海にある貝塚は、やや内陸に位置する南寧地区の貝塚よりも若干新しい。
 平地遺跡として広西自治区柳州市近郊の柳江流域の遺跡と、珠江三角州に位置する西樵山遺跡がある。遺跡の年代は南寧地区の貝塚遺跡とほぼ同時期とされている。西樵山遺跡は石器製作所の性格が強いが、柳州市近郊の遺跡の性格ははっきりとしていない。
 華南の遺跡から出土した動物遺存体を一覧表にまとめてみよう(表9)。後期旧石器の洞穴遺跡からは巨獏、中国熊、中国犀、鹿類、水牛、猿類、鼠類等々、主に森林動物の動物骨が出土している。後期旧石器時代末期になると、淡水産の貝殻も出土し始めた。新石器時代初頭の洞穴遺跡からは、鹿類、多種類の中小型哺乳動物、鳥類、魚類、亀類、貝類の遺存体が出土した。貝塚遺跡からは、大量の貝殻の他に哺乳動物、鳥類、魚類、亀類の残骸が出土した。
 後期旧石器時代に人々は起伏に富んだ丘陵地帯の洞穴内に住み、付近を徘徊する森林動物を狩猟して暮らしていた。後期旧石器時代末期になると狩猟する中小型動物の種類が増え、また淡水産の貝も食糧に加えられた。新石器時代になっても人々は旧石器時代と同様に丘陵地帯の洞穴内に住んだ。土器が作られ始めても、基本的に人々の生活に大きな変化はなかった。大型動物である巨獏、中国犀は姿を消したため、代わって鹿類が狩猟の主な対象となった。鳥類、魚類、亀類も新たに食糧に付け加えられた。時代が下るにつれて、人々は洞穴内から出て盆地の河川沿いの台地上に居を構え、大量の貝を消費するようになった。さらに、沿海に居を移してまでも貝を大量に食べる習慣を強化させたのである。華南では稲作の進展は遅れた。

中国初期農業の共通性と地域性

 

後期旧石器時代から新石器時代初頭にかけての中国の状況を、地域的に華北、華中、華南に分けて概観した。そこで、中国初期農業の共通性と地域性について少し考えてみよう。
 まず共通性を見てみよう。後期旧石器遺跡は高原もしくは丘陵にある。後期旧石器時代に人々は主に高原や丘陵で暮らし、付近を徘徊する比較的大きな哺乳動物を狩猟していた。後期旧石器時代末期に貝も食べるようになり、食糧の範囲が拡大し始めた。後期旧石器時代以後、つまり、後氷期に入ると人々は高原や丘陵から、動植物が豊富に繁殖する平原の近くへと居住地を移した。そして、多種多様な動植物を食糧源にするようになった。粟作、稲作などの栽培活動も生まれたが、鹿類を対象とする活発な狩猟活動と、魚類、鳥類、亀類の捕獲や採取に見てとれるように、狩猟、魚労、採集活動も盛んであった。また、後期旧石器時代には狩猟と解体を目的とした単純な石器しか製作されなかったが、食糧の範囲が拡大すると、多種多様な生業活動に応じた各種の生産道具が作られるようになった。
 中国初期農業の個別性として、地理的条件に応じて華北、華中、華南でそれぞれ異なる初期農業が生まれたことが指摘できる。華北と華中では、高原と平原の接する地帯で農業が発展した。華南では大きな平原が少なく、後期旧石器時代に丘陵地帯で進展した貝類の採集活動が強化された。そのため、稲作の発展する条件は薄れた。
 後氷期に生じた中国各地の新石器文化は、チャイルド(Childe, V.G.)の言葉を借りて言うと、環境への適応(an adaptation to an environment)であった(31)。洪積世末期に、高原や丘陵に生息していた草原もしくは森林動物が徐々に姿を消していく中で、人々は新たに食糧源を拡大させ、さらに居住地も移動せざるを得なくなった。こうして、人間の生活圏が移動したのである(第5図)。華北、華中では多種多様な動植物が食糧として摂取されるうちに、栽培野性種の採取活動も発生した。そして、その採取活動が次第に強化されて本格的な栽培活動へと発展したのである。華南では栽培野性種の採取活動よりも貝類の採集が活発となり、貝塚が多く形成された。中国初期農業における共通性と地域性とは、つまるところ、洪積世末期以来の中国の環境変化に対する人類の適応と考えられるだろう。
 考古学的文化を環境への適応と見なし、さらに考古学的文化の構造をシステムと考えると(32)、生業に関する人間活動はシステムの一部を構成するサブシステムと言えるであろう。環境の変化に対してまず最初に生業活動が変化した。さらに、生業活動の変化と共に衣食住に伴う日常的な物質文化が変わり、ついには新しい精神文化の創造へと進展したのである。残念ながら、この小論では生業活動に関する変動しか主に取り扱うことができなかった。考古学的文化を構成する生業活動以外の、物質文化、精神文化等の変容については別な機会に論じたい。
 農業の起源、特に稲作の起源については様々な説が提出されている。日本人農学者は、インド・アッサムから雲南地方までの広い範囲を稲作の起源地とし、そして長江流域沿いに稲作が広がったと説く傾向が見られる。一方、考古学者の間では長江下流域を起源地とし、そこからの拡散を唱える学者が多い。稲作起源地を長江上流域とするか、下流域とするかによって意見の相違が見受けられるが、一つの中心地から稲作が拡散したこと、つまり、伝播の概念に基本的に両者は依拠している。しかしながら、アメリカの農学者ハーラン(Harlan, J.R.)は、変異の多い地域が必ずしも起源の中心地ではないこと、太古から植物に関する知恵は普遍的に存在し、生態的条件さえ揃っていれば特別な栽培知識がなくても農業は発生したこと、初期の栽培は深刻な食料追求の結果生じたのではなく、むしろ趣味、娯楽的要素がうかがえること、人々は必要なときに農業を行ない、そうでなければ避けたことから、農業の分散的起源(diffuse origins of agriculture)を唱え、農業の起源について厳密に時と場所を確定することは無意味であるとともに、無理であると主張している(33)。
 洪積世末期以来の環境変化に伴って人々は生活圏を変え、食糧源の範囲を拡大させながら、新しい環境の動植物に関する生態的知識を深めていったと思われる。おそらく、採集活動から種子の播種を思い付くまでには、さほど長い時間を要しなかったであろう。洪積世末期以降に人々の新しく適応した地域では、どこであろうと栽培活動が独自に発生する条件が潜在的に存在したであろう。けれども、必ずしも全ての人々が播種、栽培活動の増強を望んだわけではなかった。様々な環境に対して人々は異なる適応をし、その地に適した生業活動を選択強化させて、独自の文化体系を築いていったのである。

参考書籍

中国の考古学
  

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