中国殷周社会の発展の道

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中国殷周社会の発展の道
− 中原青銅文化の伝統を形成した原因の角度から考察する−
2007.07.03更新

オンライン講座概要 講師:孫華 北京大学考古文博学院 教授
前書き: 古代中国の中心地域では紀元前2000年前ごろから古史伝説が述べる夏王朝という早期中央王朝が出現した。中国の歴史に新しいページを開きいわゆる「三代」という新しい段階の始まりである。黄河中・下流域では夏代から数えて夏・商・周、あるいは宗主国と認められた早期の中央王朝が次から次に登場した。これらの中央王朝は文化的に同じ方向へと発展したといえる。これによって、中原地域に中国固有の文化伝統をもつ中原青銅器文化が形成されたと考えられる。

中国殷周社会の発展の道

 中原青銅器文化

殷

中原青銅器文化は、夏代に比定される二里頭文化、下七垣文化、岳石文化に始まり、商代の二里岡文化、殷墟文化、西周の豊鎬文化、春秋中期〜戦国中期の列国諸文化(晋、秦、楚、斉、燕などの諸文化)などをへて、最終的に戦国晩期〜西漢前期の鉄器時代に属する秦・漢文化に転化する。
 この2000年以上の歴史をもった発展の過程のなかで中原青銅器文化は独自性を明確に形成していく。たとえば、大型の集落(特に都邑)は版築で作った方形あるいは長方形の城壁によって囲まれている。国家・政権を象徴する建築物は版築を基礎に大きな屋根をのせた木造の宗廟である。宮室は柱・枋・梁などの木材で建築され、草泥あるいは瓦葺きで、切り妻式の屋根をもつ。墓は土壙墓を基本とし、商代には4つの階層化ごとに異なる墓葬形態を形成した。その中にある十字形の墓葬は商周王朝の王たち専用の墓である。日常の土器は鬲という炊器を基本とし、青銅器は礼器・楽器・兵器などが中心で(青銅礼器には鼎を核心として、鼎の形と数が身分と等級を表す役割をもち、青銅鼎はもっともランクが高く国家政権の象徴になっていた)、玉石器はかなり特徴をもつ礼玉・佩玉がセットとなる。たとえば、璧、圭、璋などである。技術面では青銅器の鋳造技術がもっとも発達する。芸術面では実用性がもっとも強調され、装飾は動物の文様を主題に幾何の文様がつづく。動物の文様には抽象化・神秘化されたものと図案化された獣面文、雲龍文、鳳鳥文など(これらの文様の簡体あるいは変体を含む)があり、具体的な動物模様をもつものはあまり出土していない。
 以上述べた中原青銅器文化の内容はかなり強い安定性・連続性をもっているので、「精神的な伝統」の存在を認めることができると考えられる。この典型的な「精神的伝統」をもつ中原青銅器文化が形成された要因には、内的要因と外的要因があると考えられる。これらの要因を追求することは、中国殷周社会の発展を理解することにつながると考えられる。

 要因1−地理的環境−

 

 中原青銅器文化が独自の伝統を形成した第一の要因は、その独特の地理環境およびこの環境で出現した早期中央王朝をあげることができる。
 三代にわたる早期中央王朝が所在する黄河中・下流域は、中国でもっとも早く開発が始まった地域である。ここには広い黄淮平原がある。河南西部の山地と汾渭流域があるといっても、山地は平たい台地であり、流域は豊かな谷地である。平原は厚い黄土層あるいは黄土沖極層に覆われているので、畑を作りやすく耕作しやすい。また平坦な土地なので古代においても氏族間の交流は容易で、新しい技術と発明・創造が伝播しやすい。
 もっとも重要なのは、この平坦な地理環境が古代の各氏族を統合するのに好都合だったことである。これこそがこの地域で古くから少数ないし一つしかない強力で大きな氏族が形成された要因である。一方、中原地域の周辺には連綿とつづく山地や痩せた土地をもつ高原、川が縦横に流れる平原や森林があり、生存するための環境は当然よくなく開発もしにくいので、人口の密度は中原地域に比べると低い。
 当時、北方地域で活動していた氏族は軍事的な統合と征服をおこなう以外には、内部的には政治的に安定しておらず制御しうる政治的能力が欠けていたため、中原の早期三代王朝のような国家政権を形成することができなかった。南方地域は氏族の行動範囲が山や川などにより隔てられることで比較的狭い範囲に集中していたので、お互いに連絡することや交流することはできなかった。
 このように中原地域の周辺では地理的環境の制約から合併や統一などが中原地域に比べてかなり遅れたことがわかる。さらに早期中央王朝の形成以降、中原地域の強大な氏族は、周辺地域の各古族に圧力や制限を加えた。したがって周辺地域の各族が中原地域の早期中央王朝に対抗するための国家政権を形成するのは、かなり困難だったのである

要因2−周辺地域の氏族との関係−

 

 中原青銅器文化が固有の精神的伝統を形成できた二番目の理由は、中原地域と周辺地域の古族との政治的な関係にある。つまり中原早期王朝は周辺地域の古族との政治的な統廃合の過程で徐々に強くなり発展してきた。
 秦以前の中原地域の周辺には多くの古国と古族が存在していた。これらの古国と古族はそれぞれ異なる地理的環境に所在していたため、経済形態や文化伝統も異なっていた。そのため中原青銅器文化の北方、東北、西北、西南、中南、東南方面には異なる青銅器文化が存在することになった。これらの青銅器文化と中原青銅器文化とは密接な関係にあることがわかる。
 中原青銅器文化の第一の画期は商代後期〜西周初期、つまり商王朝の衰弱と周王朝への交替時期に起こる。この時、中原周辺地域の青銅器文化がもっとも発展する時期と一致している。次の画期は、春秋中〜戦国中期におこる周王朝の衰弱と諸侯が戦争を繰り返す時期である。周辺地域の青銅器文化もこの時期におおいに発展する。
 文献によると、中原青銅器文化発展の第二の画期は、中原地域内部の混乱と外部から侵入が同時に起こった時期にあたる。中原地域の霸主をめざす諸侯たちが皆「攘夷」(外部から侵入してきた人を追い出すための旗)という旗を揚げる。この記載が一つの事実をものがたる。
 つまり中原地域の早期中央王朝は、自国に服属する国や氏族を保護する義務と役割をもっていた。一度この機能が無くなれば、服属していた国や氏族は中央王朝の支配から脱して、別の強力で大きな氏族がその機能をになうことになる。早期中央王朝が周辺地域の強い古国あるいは古族と戦争をするうちに、有効な国家の政治機構が形成され、徐々に完備されている。
 言い換えると、商王朝の内・外服制、周王朝の分封制は自国の支配の範囲内にある古国古族を対象とする以外に、周辺の古国と古族の侵入防止を目的としていると考える。

要因3−手工業技術の発展−

 

 中原青銅器文化に固有な伝統が形成された第三の原因は技術面に求められる。
 早期中央王朝が出現する以前の龍山時代(新石器時代末期あるいは銅石併用時代)に中国では幾つかのかなり発達した古代文化が存在した。たとえば、山東沿海地域における大汶口文化と龍山文化は、版築法で壁を作る集落、ハイクラスの墓葬、他に比類ない土器・玉石器が存在した。
 長江中流域の屈家嶺・石家河文化、および長江上流の四川盆地にある宝墩村文化は、土を積み上げて作った城壁をもつ比較的大規模な城邑が密集していて、発達した早期文明が出現している。
 長江下流域の良渚文化には巨大な等級集落、貴族の墓地、発達した製玉工業などがあった。
 以上の周辺地域に比べると、中原地域における龍山時代諸文化の状況は決して突出していたとはいえない。しかしこの状況は龍山時代以後の三代に入ると完全に逆転する。周辺地域で発達していた早期文明はすべて消滅し、中原地域の青銅器文明が突出しはじめ、三代文明へといたる中心地位を確立していく。周辺地域の文明がなぜ商周時代に遅れたのか、中原地域における商周文明の進展がなぜずっと先進的であり得たのか、研究者たちがいろいろな仮説をもとに多くの理由を提示している。私は、龍山時代に周辺地域(特に南方地域)で多くの発明が創造され技術が発達したのは、当時の技術水準を代表する青銅器の鋳造技術がなかったことが最大の理由ではないかと考えている。

要因4−イデオロギー−

 

 中原青銅器文化固有の伝統が形成された四つめの理由は、イデオロギー面に求められる。三代にわたる早期中央王朝自身が意識的あるいは無意識的に作り、社会全体に認められた観念体系は、各王朝の最高支配者が天上の最高神と血縁関係をもつ貴人であることが必要とされることである。最高支配者は天上の最高神の命令をうけて人びとを支配する。彼らの支配が絶対的な合理性をもったのは、夏王朝の後にこの地を支配した商王朝、商王朝の後にこの地を支配した周王朝はともに前王朝に属した臣属だったからである。彼らが前王朝を倒して自分が王になったのは、前王朝の最後の数代の君王が神の意志に反し、神との契約を反故にしたので、神が再び神と血縁関係がある人を選んで、王にならしめ天下を支配させる。三代の王族は皆神の息子という共通性をもっている。
 先秦文献には、夏、商、周の三代はそれぞれ異なる地域で生まれている。夏人は中国の中岳嵩山あたりの伊水と洛水流域に起源する。商人は河南東部・山東西南部あるいは河南北部・河北南部に起源するという2つの説がある。周人は汾渭谷地、特に陝西の関中地域に起源することが間違いない。
 三代の早期王朝が中原支配の権利をもらう前は別の狭い地域を支配していた。彼らが崇拝する神も地域ごとに異なっていた。そのために中原にくることは特別の地域の神を崇拝することを意味した。服属していた王朝が前王朝を転覆して自分が合法的な地位を占めた場合、中央王朝の神を崇拝するため、従来の地方神は不必要な存在となった。それゆえに地方の神を指標にすれば三代を区別できるのである。三代それぞれの「社」神が以上のことを意味している。
 中国の神の系統には三代が共通にもっている天帝崇拝と、三代それぞれがもつ地祇の崇拝が存在するので、各王朝の交替ないし国と国の戦争以後、敗れた国を扱う時に独特の行為をおこなった。これは徹底的に敗戦国を消滅させるために敵の国の宗廟を潰し、敵の国の天上にある天祖先神と地上にある子孫との繋がりを断ちきるのである

要因5−政治体制−

 

 中原青銅器文化固有の伝統が形成された五つめの要因は、早期中央王朝の政治体制に求められる。この政治体制の変化をみると、三代王朝の間に政治権力の転化と宗主国・服属国の地位の変化をみることができる。王朝の交替は天命を受ける王族の交替とみることができる。したがって外族が侵入して入れ替わるのとは完全に異なっている。つまり、政権体制は基本的に変わっていない。これについて、先秦文献に記載された「殷因于夏禮」、「周因于殷禮」など以外に、三代文物に九鼎の伝説と礼器の伝統があることも同じことを証明している。
 古史伝説によれば、夏王朝の最初の王が青銅の九鼎を作った。この伝説については多くの研究者たちが疑問を持っているが、新しい考古学のデータと青銅器が出現する背景をつきあわせると、この伝説が基本的に史実を反映していると考えられる。
 青銅器のデザインと文様は祭祀するときに使った動物の形を抽象化して作られている。作るのがなかなか難しい九鼎を夏王朝に属する、あるいは関係がある邦国と氏族に宝器としてもつことを認める。九鼎は中央王朝の権利と財産の象徴なのである。「九鼎既成、迁于三国」の九鼎の流れに関する伝説および歴史上に発生した「問鼎軽重」がこの歴史を反映している。夏代が九鼎を作ることによって、銅鼎が三代の銅礼器のなかでもっとも重要な器類と礼器の中心になり、人と神との関係を通じて神性をもち、身分制を象徴するものになっていった。
 後の王朝が前の王朝に替わり、彼らが前の王朝の王権を象徴する九鼎を壊すことなく、九鼎を自分の都の宗廟に運んで、引き続き新王朝の王権の象徴とならしめる。このようにもとの習慣を守り、政治体制で改革をおこなわず、ただ改良を行うのである。これも三代社会の発展が徐々に続いた原因の一つである。

参考書籍

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