シルクロードと西夏

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シルクロードと西夏 2007.07.23更新

オンライン講座概要 講師:雷従雲 中国国家博物館 研究員
前書き: 歴史学と考古学の研究によれば’古代中国と西域との往来の歴史は、商(殷)・周の時代にまで、 さらには遠く新石器時代にまで遡ることことできるという。
しかし、中国が絹織物貿易をその特色とし、ヨーロッパ・アジア大陸を通じて外国と交流したンルクロードが敷かれたのは漢代からである。

シルクロードと西夏

 漢・魏晋南北朝・隋・唐

 

前漢の武帝は家来、張騫を西域に遣わした。張騫は「道を切り開いて」中国と外国との政治、経済、文化の交流に新時代を画した。
後漢では、使者、班超を派遣して西域への道を再び通じ、甘英を使節として大秦(東ローマ)に送り、中国と西域各国とのつながりを一段と強化した。 と同時に、中国と東隣の日本は正式に往来を始め、時のたつにつれ、このような往来が日増しに密接になっていった。近年、ある学者が「海のシルクロード」に関する見解を提起したが、 それによると、中国陝西省の西安から西の方向、西アジアに通じ、地中海東岸に達する陸のシルクロードのほかにもう一本、西安もしくは河南省の洛陽から出発して、東へ、日本などに通じる海のシルクロードがあったということである。
シルクロードの起こりは、中国の絹織物、鉄鋼、漆器、銅鏡、その他特産物が西域や朝鮮、日本に伝わり、西方の多くの産物および仏教と美術が中国に入ってきたことによる。漢代に始まって絶えることなく続いてきたこのような経済、文化の交流は、古代社会に影響を及ぼしたばかりでなく、今日に至るまでわれわれの生活のある面に一部の影響を及ぼしている。魏晋南北朝の時代は、中国の各民族文化の大融合の時代であり、また国外における西方の民族、南方の民族、東方の民族の文化、とりわけ西域の文化と芸術および仏教が伝来し、大々的に広まった時期でもある。古い中国の大地に育まれた固有の文化が衝撃を受け、異国の文化の種子が漢文化の母体の中に深く入りこんできた。隋、唐の統一とその強大さ、殊に国勢が安定して、政治、経済、文化の発達した唐王朝は、多くの国々の人々を引きつけ、東は朝鮮、日本から、西は西アジアのアラビア、東ローマに至る国々の使節、僧侶、芸術家、工匠、留学生等が唐の都長安にやってきた。開明的な唐王朝は、彼らのために必要な条件を提供するとともに、博く諸国の長所を採り入れ、外来文化を吸収して大唐王朝を発展させる糧とし、それによって中国の封建文化の高峰を築き上げると同時に、これを各民族や四方の国々に広く伝え、世界の古代文明のために責献した。

 シルクロードの特殊な役割

 

 われわれが、今日これらのことを論じるとき、 そこに古代のシルクロードの特殊な役割が存在したことに思いをはせ、 このことは中国や外国の人民が困難や危険をものともせず、友好往来をした進取の精神ぞ書き上げた偉大な一頁であることを思わずにはいられない。
今日、われわれがシルクロードを旅するとき、 しばしば漢・唐以来の古い都市、関所、街道、宿場、渡じ場の跡を尋ねたり、石窟寺や廟、仏閣、古塔、荒塚、 その他大量の文物を見ることができる。例えば、寧夏固原県にある北周墓出上の波斯薩珊王朝の、銀製鎏金把手付水瓶(国宝)と浮出し円形切子装飾瑠璃碗(国宝)、唐墓から出土した東羅馬金貨、また陝西省西安出上の日本の「和同開珎」銀貨、さらにその外西域各地で発見された中国の文物や日本の奈良の正倉院所蔵の唐代の宝器等々、これらはいずれも、漢・唐時代にンルクロードが滞りなく通じ、中国と外国との間に友好往来と文化交流が頻繁に行なわれたことを証明している。
中世紀の後期、中国の西北の大地に突如として興った西夏王国(西暦1038〜1227年)の領域は、「東は黄河、西は玉門まで、南は蕭関(甘粛省環県領内)に接し、北は大漠(蒙古瀚海)を控え、面積二万余里」あり、 この国が存在していた二百年近くの間に、政治、軍事、経済、文化の各方面にわたって、さまざまのすく`れた成果をあげた。西夏の文物は外ならぬこのような成果の一部である。
西夏王国の発展は当時の宋朝や東北部の遼、金と密接な関係があり、西夏がシルクロードの要衝の地勢を占有していたため、さらにシルクロードと必然的なつながりを持っていた。陸上交通について言えば、西方諸国の荷が東へ来るときも、漢の物産が西へ行くときも、必ず西夏の領地を通らねばならなかった。西夏の人々はこのような優勢な位置を利用して、「中国と異民族間の交易を行なって」中国本土や西域諸国の先進的なものをとり入れて自国の経済と文化を発達させた。
西夏で生産された家畜、毛皮、織毯、製薬原料を宋朝や遼、金に輸出したばかりでなく、シルクロードを経由して西方の国々へも輸出した。元の初め、中国に来たマルコ・ポーロは当時、西夏の国都、興慶で、ここで生産された質のよい繊毯等の毛織物製品と大黄等の製薬原料が、商人の手で世界の各地に売りさばかれている状況をも目にしている。
西夏には比較的発達した文化があった。現在、国内外に、かなりの量の西夏文の仏教の経典および詩文、小説、格言、 ことわざ、音韻、字典、暦書、法律、医術、呪文等の書籍が保存されている。西夏の芸術家や、工匠の創作した独自の風格を具えた壁画や彫塑が、今日なおシルクロード沿道の敦煙の莫高窟、安西の楡林窟、東千仏洞および阿古塞自治県のいくつかの寺院の中に燦として輝いている。

道が険しい

 

 
しかし、西夏王国がシルクロードにもたらしたものは、 うららか
な陽光ばかりではなく、激しい雨風もあった。当時さまざまな形の割拠状態が存在したことと、関所が多すぎたことが原因して、西夏自身の経済の発展にとって不利であった上に、ンルクロードにも若干の障害をもたらした。文献の記載によると、回鶴の商人が宋や遼と取り引きをする場合、「夏国の領地」を通るとき、その荷の10分の1を徴収され、 よい品物はえり取られてしまった。 また天竺国(印度)の進納僧が夏の国を通過するとき、拘留や強奪をされたり、西域の入貢者も略奪等の被害に遭った。西方の使者や隊商たちが西夏を通るときには、計り知れない程の危険を感じ、危険な道だと見なし、「西域の貢物献上僧もついに足跡を絶つ」事態にまでなった。東方から来た若干の入貢者や商人たちは利益と安全を考えて、止むなく西夏を避けて別の新しい道を切り開いた。
千百年にわたるシルクロードでは、中国以外の所でもしばしば正常な交通が妨害され、危害が加えられることも起こった。にもかかわらず、シルクロードは永遠に友好往来の象徴であった。
今日では、中国と東方および西方との友好往来の道はすでに斬新な陸上や海上の交通、それに空路がとって代わるようになった。しかし、「シルクロード」十一この夢にも幻にも似た古代の交通の要路が人類の東西文化交流に貢献したその働きは今なお忘れがたく、それにも増して数々の伝説や無数の情景が私たちをうっとりとした世界に誘うのである。

参考書籍

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)秦漢帝国へのアプローチ秦の始皇帝―伝説と史実のはざまNHKスペシャル文明の道〈3〉海と陸のシルクロード始皇帝陵と兵馬俑黄河文明への挽歌―「河殤」と「河殤」論キーワードで探る四大文明NHKスペシャル 四大文明 中国始皇帝の地下帝国中国古代文明黄河下流域の歴史と環境―東アジア海文明への道
  

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