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中国北方と南方における古代文明発展の相違
2007.08.01更新 (森本和男訳)
■ オンライン講座概要 講師:童恩正 元四川大学 教授 |
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前書き: |
中国文明と国家の起源に関する問題は、近年、中国内外で研究者の注意を引いている。しかしながら、今までほとんど全ての著作や論文は、その議論の焦点が黄河中下流域、つまり中原とその近隣地区に集中していた。歴史的に夏、商、周の三代文明がこの地域で連続して発展したため、中原地区の古い文明を中華民族の代表とする見方は間違っておらず、正しいと言えるだろう。とは言うものの、広大な中国は、面積が960万平方キロメートルにも達する。地形は複雑で、標高8,848メートルもある世界最高峰から海面下154メートルのトゥルファン盆地まである。気候も多様で、亜寒帯気候から熱帯気候にまでおよび、自然環境と動植物の種類は千変万化している。その上民族が多数存在し、現在、56の民族がいる。このような現実を念頭におくと、古代中国にはただ一種類の文明しかなく、中国社会の発展経路も単一な発展過程をたどったとする考えは、明かに実情と一致していない。そこで考古学、歴史学、文化人類学、生態学等の分野の資料を利用して、中国北方と南方における文明発展の特徴、およびこれらの特徴が生まれた原因をこの論文で探求したい。
中国の広大な国土と多数の民族からすると、その文化自然を北と南のわずか二地域に概括することは不可能であろう。北方について言うと、高原、平原、草原、森林の区別があり、その中で暮らす民族集団の社会変遷も決して同じではなかろう。南方では江漢平原、雲貴高原、四川盆地、熱帯雨林があり、その中に各種の民族が雑居している。その歴史発展の相違性を無視することはできないであろう。中国の異なる民族と地域文化の比較研究は始まったばかりであるため、概略的分析しかなされていない。本論文で述べる北方とは、実際には黄河中下流域を指し、南方とは長江中下流域一帯を指している。歴史的に見ると、これは中国南北の主要な二大文明圏なのである。この二地域の文明の性質について理解が深まれば、その他の地域に関する問題も容易に解決できるであろう。 |
中国北方と南方における古代文明発展の相違
中国南北の生態環境の相違
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北方文化の中心は黄河中下流域にあり、おおよそ北緯33度から37度の間、六盤山から東、呂梁山と太行山から南、秦嶺と伏牛山より北の地域である。現代の行政区画によると陝西省 水、渭水流域、山西省南部、河北省南部、山東省東部、および河南省北部に当たる。東アジア栽培植物区の華北帯に属する(1)。地形から見ると函谷関を境に、西は黄土高原に属し、海抜約1,000メートルである。東は黄河平原で一般に海抜50メートルに達しない。黄土高原は中国文明発展の地ではなく、本質的には高原南側の渭河盆地、つまり古代関中が発展の地である。ここは海抜約400メートルで、水分、温度条件が黄河平原とほぼ同じである。したがって、両者を一括して総体的に考察したい。
農耕条件からすると、この地区の気候は比較的寒冷で乾燥している。1月の平均気温はマイナス8度から0度で、7月の平均気温は22度から27度である。年間降雨量は600ミリメートル前後で、その3分の2は6月から9月にかけて集中して降る。この地区の最も特殊で重要な地理的特徴は、黄土(loess)の広範な分布である。黄土には腐植質が欠乏しているが、大量の炭酸カルシウム、カリウム、イオウ、リン等の元素が含まれていて、ある程度天然の肥沃度をそなえている。土質は柔らかく、通気性が高い(39〜54パーセント)ので、良好な毛細管現象をそなえている。それ故、乾燥している時でも植物の成長に有利なのである。中国北方における農業の起源史とは、実際には黄土の栽培史とも見なすことができるだろう。
以上のデータは現代の気象統計に準拠しているが、西安半坡遺跡の花粉を分析した研究者は、新石器時代の気候が半干旱性の気候で、今日の同じ場所の気候と類似していることを証明した(2)。これは参考になるだろう。
黄河流域の北には蒙古草原が接し、両者の間には自然の障壁が何もない。黄河の河谷は農耕民族の居住地であり、草原は遊牧民族の活動する場所である。遊牧民族と相接触する特殊な地理的位置が、後来、この地域の歴史的発展過程に重要な作用を及ぼすのである。
中国南方文化の発展について最も代表的な地域は、基本的には北緯30度に沿った長江中下流域の丘陵と盆地である。現在の湖北省、安徽省南部、浙江省北部、江西省北部を含んでいる。栽培植物区の華南帯に属する。海抜は約200メートルで、亜熱帯湿潤森林帯である。1月の気温は約0度で、7月には30度にも達する。平均気温15度以上の日が175日ほど続く。豊富な熱量は、水稲等の暖かさを好む栽培作物に良好な条件を提供している。雨量も豊潤で、毎年平均して1,000〜1,200ミリメートルあり、黄河流域の倍くらいに相当する。その上、河川が縦横に流れ、湖沼が密集し、水生動物が豊富に繁殖している。土壌は黄壌あるいは紅壌で、有機質を5〜10パーセントも含むので、天然の肥沃度も比較的高い。上海の 沢遺跡の花粉分析によると、紀元前3千年紀に、長江下流の気温は現在よりもわずか1〜2度高かったにすぎない。つまり、当時と現在の自然条件はさほど大差なかったと言えるだろう(3)。
長江流域以南は、現在の広東省、広西自治区、福建省、雲南省およびインドシナ半島北部であり、植物地理分区の南アジア帯に相当する。大小の山々が連なり、森林が密生している。先史時代から商、周代に到るまで、この地に多くの狩猟採集民族が住んでいた。
総じて述べると、中国の二大河川である黄河と長江流域の自然環境は極めて異なる。前者は乾燥、後者は湿潤。前者は寒冷、後者は温熱。前者の土壌はアルカリ性の黄土、後者は酸性の粘土。前者の原始的自然景観は半干旱草原、後者は亜熱帯広葉林である。すでに2,000年ほど前に『禮記』王制のなかで、生態環境と人類社会文化との密接な関係が明白に指摘されている。
凡そ民材を居くには、必ず天地の寒冷・燥濕、廣谷・大川の制を異にするに因る。民其の間に生ずる者俗を異にし、剛柔・輕重、遲速齊を異にし、五味和を異にし、器械制を異にし、衣服宜しきを異にす。其の教えを修めて、其の俗を易へず。其の政を齊へて、其の宜しきを易へず。中國戎夷五方の民、皆性有り、推し移す可からず。
先史時代から歴史時代へと開扉する時期に、異なる生態条件下で様々な人類集団が、生産様式、社会制度、宗教信仰、風俗習慣等に顕著な差異を見せるのは当然である。文明と国家が成立する過程で、彼等はそれぞれ独自の軌跡をたどり、特徴を帯びながら発展するのである。
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文明と国家の起源に関する各種の理論
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本論に入る前に、国家と文明に関する理論を少し検討してみよう。使用する資料が同じなのに、理論的基準が一致していないと共通認識を得難い。以下に紹介する学説は比較的流行してもので、中国の具体的状況とも関連している理論である。
この論文では文明と国家の起源を一括して論じた。と言うのは、二つの概念が密接に関係しているからである。文明とは、人類の文化発展過程中の特殊な段階を指す。文明を構成する要素について、学界ではまだ統一認識を欠いているが、おおよそ、政府行政機構の形成、城市の出現、文字の発明、潅漑農業や大規模な牧畜業の発展、金属器の広範な使用、専門工人による分業、複雑な儀礼体系の構築、遠隔交易の恒常化、記載された天文暦算の存在等々をあげることができるだろう(4)。国家は、政治制度上の一つの発展段階を指している。カーネイロ(Carneiro, Robert)の定義によると、国家とは「非常に多くの村落を境域内に取り込んで、権力を行使して税を徴収し、職務や戦争を遂行する人間を集め、強制的な法律と制度をともなう中央政府を保持している自治的政治単位である」(5)。国家出現について二つの前提条件が考えられている。第一に、農業もしくは牧畜業が一定の段階に発達していて、生産活動から離脱した貴族、官吏、僧侶、工人達に剰余生産物を供給できることである。これは国家出現の物質的基盤である(6)。第二に社会的階層化(stratification)の出現である。マックス・ウェーバー(Weber, Max)によって、三種類の特権が指摘された。第一は財富の占有によって起きる経済的地位である。第二は自己の意志を他人に強制しうる政治的地位である。第三は一般の人々にとって無縁な尊敬と影響力を享受できる社会的地位である(7)。政治的経済的利益の相違をともなう社会分裂は、国家出現の社会的基礎となった。従って、文明と国家の二つの概念は、同一の現象を異なる側面から見ていると言えるだろう。国家の内容は文明であり、文明の政治的表現は国家なのである。これをエンゲルスは「文明社会を総括するものが国家である」と認識している(8)。
古くから文明と国家の起源に関する問題は、研究者の関心を引き付けてきた。しかしながら、広く一般的に認められた定説は今だに存在していない。中国の具体的状況からすると、いくつかの理論を考慮に入れることができるであろう(9)。
1.外部衝突説(external conflict theories)
この説は戦争要因説ともいう。最も古い国家起源論の一つと言えよう。二つの人間集団が隣接していると生活物資をめぐって争いが起き、戦争が避け難いとする説である。戦争遂行のために、統合的な指揮集団と組織機構が形成され、国家はこのような基礎の上に発展した。
『呂氏春秋』蕩兵篇に初歩的な戦争要因論の話が載っている。「兵の自りて来るところのもの久し。黄・炎は故へ水火を用いたり。共工氏は故へ次いで難を作せり。五帝固へ相與に爭へり。遞に興癈し、勝者事を用ひたり。人曰く、 尤兵を作ると。 尤は兵を作りしにあらざるなり。その械を利にせるなり。いまだ 尤あらざりし時、民固より林を剥ぎて以て戰へり。勝者長と爲れり。長は則ちなほこれを治むるに足らず。故に君を立けり。君また以てこれを治むるに足らず。故に天子を立けり。天子の立かるるや君に出で、君の立かるるや長に出で、長に立かるるや爭に出でたり」。いわゆる「長に立かるるや爭に出でたり」は、戦争による統治権力の出現を語っている。
19世紀のダーウィンの「生存競争」、「自然淘汰」、「適者生存」によって代表される進化論の影響で、戦争要因論が流行した(10)。最近、カーネイロは戦争要因論に新たな解釈と補足を行なった。彼は、隣接する強敵がいても、他の地域に移動して脅威を回避することが可能であることを指摘し、単に戦争だけでは国家は形成されないとした。そして、環境的制限(environmental circumscription)、人口増加、戦争の三つの条件が揃って始めて国家が発生すると提案した。高山、海洋、砂漠、渓谷等の疎隔された特殊な地理的条件下(自然制限)で、隣接する人間集団から攻撃を受け(社会制限)、しかも退路を閉ざされている状態にあると、村落レベルを越えた政治的集中が発生し、国家へと発展するのである(11)。
2.内部衝突説(internal conflict theories)
この説は、社会内部に経済的利益の異なる社会階層、階級が存在し、両者による衝突を避けて調和させ、統治階級を保護するために国家が必要となったと考えるのである。エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』は、この視点を代表している。
『呂氏春秋』恃君篇に、政府のない地域は「その民は麋鹿禽獸、少者長を使ひ、長者壮を畏れ、力有る者は賢、暴傲の者は尊、日夜相殘し、休息する時は無く、以て其の類を盡す。聖人は深くこの患を見るなり。故に天下の長慮を爲すは、天子を置つるに如くは莫きなり。一國の慮を爲すは、君を置つるに如くは莫きなり。」と書かれている。また、『淮南子』覧冥訓篇には、「昔、黄帝の天下を治むるや、力牧太山之を輔け、・・・・上下を明かにし、貴賎を等し、強をして弱を掩はず、衆をして寡を暴げざらしむ。人民は命を保ちて夭せず、歳時は熟して凶ならず、百官は正しくして私無く、上下は調ひて尤無く。法令は明かにして暗からず、輔弼は公にして阿らず。田者は畔を侵さず、漁者は隈を爭はず、道には遺ちたるを拾はず、市には預賈せず、城郭は關さず、邑に盗賊無し。」とある。ここで述べられた発想には、政府の機能として社会内部の紛糾を調停すること、安定した秩序を構築することが挙げられているのである。
3.潅漑説(hydraulic theories)
マルクスは、「天候と地形上の条件、とくにサハラからアラビア、ペルシア、インド、タタールを経て、アジア最高の高原にまでひろがっている広大な砂漠地帯のために、運河と用水とによる人工潅漑が、東洋農業の基礎となった。」と指摘した(12)。後に、マルクス主義者のカール・ウィットフォーゲル(Wittfogel, Karl)は、この理論に沿って近東とアジアにおける古代国家の発展を解釈した。優れた潅漑システムを維持、拡大するために、集中した権力が必要となった。この機構がアジア的国家の出現、さらに「専制的」性格の原因となったのである(13)。司馬遷は『史記』河渠書の中で「勝る哉、水は利害を爲すなり!」と、水利と政治との密接な関係を感慨深く述べている。
これらの理論が提出されると、様々な論争が起きた。実際、各理論には欠点があり、多くの例外を解釈することができなかった。私は、理論自体に問題があるのではないと考えている。それぞれを個別的に考察してみると、すべて論理的なのである。問題は、その理論の提唱者や応用しようとする研究者が、あまりにも普遍性を強調し過ぎて、同一基準で全世界を解釈しようとした点にある。ヘンリー・ライト(Wright, Henry)は、「国家出現の理論は、強制的なメカニズムの単独な変化だけでなく、様々なサブシステムの一連の変化を説明しなければならない。それぞれの変化は大きな環境の枠組みの中で関連しているのである」と述べている(14)。文明や国家というような複雑な社会現象を引き起こす起源や発展は、決して単純な原因に結び付けられるものではない。文明と国家の萌芽段階から最終的な形成段階までの間(その間はおおよそ数世紀かかるであろう)、それぞれの段階で機能する主な要因は決して同一ではなかろう。多数の要因の中から、最初から最後まで機能する主要なものを一種類だけ抽出することは、現存する資料から考えると極めて困難な作業である。その中の一種類を強調し過ぎると、主観的な憶測に陥り易くなるであろう。その上、世界各地の生態環境や人間集団はそれぞれ異なり、社会条件と歴史的背景も千変万化している。ある地域における文明と国家発生の主な原因が、他の地域では全く欠如している場合も考えられる。従って、全世界の極めて錯綜とした歴史的現象を、頑迷に一つの公式で解釈しようとしても、無駄な徒労に終わる危険性を含んでいるのである。
中国の現状からすると、上記した三つの理論はすべて考察に値するものである。中国文明と国家の形成途上で、特殊な地理的環境、農業発展の特色、隣接する人間集団との関係、潅漑施設の建設、社会内部で激化する矛盾等の要因が、異なる段階で多かれ少なかれ機能したからである。この論文ではその他に考慮すべき要因を捨象してしまったが、上記した要因の存在とその相互作用こそが、中国文明と国家の形成にとって前提条件であることに異議をさしはさむ人はいないであろう。
前提条件として上記した条件が、決してすべてを包括しているわけではないことを、ここで指摘しておきたい。例を挙げると、社会システムを反映し、強化し、維持するものとして、宗教のおよぼす大きな影響力が広く学界において認められている。中国の文明過程で、異なる地区における宗教の相違は、社会発展の差異を引き起こす重要な要素であった。しかし、この問題については、華北と華南の特殊な状況を論じてから取り上げたい。
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紀元前3千年紀の中国北方社会における社会発展
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紀元前3千年紀の後半(紀元前25世紀から20世紀まで)に、中原地区は原始社会から複合社会(コンプレックス社会、complex society)へ、部族組織から国家へ、そして最終的には文明の黎明期へと移行した。華北の最も代表的な新石器文化は、仰韶文化に続く竜山文化である。この文化は晋南、関中、豫西、豫中、豫東、豫北、冀南の広い範囲に分布するため、自ずと地域的差異がある。この地域的差異について河南竜山文化、陝西竜山文化等々、異なる文化と考える研究者がいる(15)。一方、中原竜山文化を王油坊類型、後崗類型、王湾類型、三里橋類型、陶寺類型、客省荘類型等々の異なる類型に分類する研究者もいる(16)。二つの分類方法は、名称に違いがあるものの、実質的内容は同じである。本論文の目的は、広い視野でこの地区の歴史的発展性を探求することにあるため、中原竜山文化を一つの総体として捉え、地域的細分については考慮に入れない。
66個の放射性炭素年代測定値によると、中原竜山文化の絶対年代は、おおよそ紀元前25世紀から20世紀までの間である(17)。文献に記載された中国最初の王朝である夏王朝の年代は、一般に紀元前21世紀から16世紀とされている。従って、竜山文化の年代は原始社会から文明へと移行する最後の段階に当てはまる。
洛陽王湾、安陽後崗、陝県三里橋、長安客省荘、襄汾陶寺等の重要な遺跡の内容を総合すると、疑いもなく中原竜山文化は農業に基盤を置いた社会であった。主要な農業工具は石器が主体で、翻土工具として石鋤、石 、骨 、蚌 や双歯の木製耒があり、収穫工具として石刀、石鎌、蚌鎌がある。農作物には粟(\uSetaria italica\u)と黍(\uPanicum miliaceum\u)がある(18)。メソポタミア、エジプト、インドで発展した古い文明は、穀物栽培こそが滋養に富んだ食糧を人間社会に供給し、定住生活を支え、貴族、僧侶、専門工人集団を扶養し、余剰生産物の交易へと導いたことを証明している。この基礎の上で、異なる社会階層、村落、民族間の連繋が日増しに複雑となり、文明の出現と国家の形成を招いたのである。
富の分化と社会的地位の階層化は、文明と国家の起源にとって必要な条件である。中原竜山文化は、明かに階層化された社会であった。この現象を山西省襄汾陶寺墓地から容易に見てとることができる。この墓地の範囲はとても広く、発掘された墓葬は1,300基以上におよぶ(19)。既に公表された700基余りの墓葬のうち、大型墓は9基あり、全体の1.3%を占めている。全て木棺で、麻類の織物を何枚も使って死者を包み、棺内には朱砂が撒かれてあった。副葬品には彩絵竜盤、 鼓(ワニ皮の太鼓)、特磬、彩絵木案、木俎、木豆、木匣、木斗、木方盤、木製「倉形器」、彩絵陶器、玉鉞、玉 、石斧、石 、石鏃、ブタの全身骨格等があった。中型墓は80基あり、全体の11.4%を占めている。木棺を使用し、内部に朱砂が撒かれてあった。副葬品には陶器(彩絵陶器1、2個を含む)と少数の彩絵木器、玉(石)鉞、 、 、装飾品、ブタの下顎骨があった。小型墓は610基あり、全体の87%以上であった。墓壙は狭くて小さい。通常、副葬品はない(20)。以上、副葬品の質と量から見ると、陶寺の社会は決して平等な社会ではなく、階層社会(stratified society)と考えられる。
大型墓の副葬品のほとんどが実用品でなく、礼器であることが注目に値する。礼器は宗教的信仰を体現している。文献によると、竜盤、 鼓、土鼓、特磬、玉鉞等は古代貴族の象徴であった。陶寺の竜山文化の社会では、世俗的権威の出現により、宗教の機能は共同体全体の利益を守ることから、新生貴族の権力の強化を意図するようになったのである。
陶寺の大型墓から出土した華麗な副葬品は陶業、木工、玉工、石工、紡織業の分野におよぶ製品である。 鼓、彩絵盤等は非専門的な余業として生産されたのではなく、様々な専門工人の協業によって始めて製作されたのであった。既に社会の中に、貴族のために働く専門工人が存在していた。貴族、司祭、工人等、直接生産活動に関与しない人間集団を維持し、労働産品を交換するために、再分配制度(redistribution system)が必要であった。そのような制度は中央集権化された政治権力の出現を意味していた(21)。
鰐皮のように、儀礼用のいくつかの原料は地方的特産物である。これは長距離貿易の存在を証明している。キルヒ(Kirch, Patrick V.)の研究によると、首長制社会では、この種の儀礼用品の交換は原料自体の獲得以外に、中央と地方との間の首長関係を強化する機能も果たしていたのである(22)。中原地区は歴史時代以後、長期にわたって東アジアの政治的中心となったが、それに到るまでに長い発展過程があったはずである。陶寺の資料は、初期の政治的権力の広がりを考察するにあたり、重要な示唆を提供している。
中原竜山文化の住居址には、半地下式のものと平地式のものがある。多くの遺跡はかなり大きく、他の地域文化よりも過密な人口を示している。陶寺遺跡の総面積は300万平方メートル以上もある(23)。河南省湯陰遺跡では発掘された1,483平方メートルの範囲から46基の住居址が確認され(24)、後崗遺跡でも600平方メートルの範囲に38基の住居址が発見された(25)。大規模な村落と墓地は、当時の社会的組織基盤が家族ではなく、氏族であったことを示している。
城市の出現は国家と文明の出現に関する別な指標である。中国の最古の城塞は、竜山文化期のものである。河南省だけで開封王城崗、淮陽平糧台、安陽後崗、偃城 家台等がある。城塞の基本的機能は防禦であるため、戦争が頻繁に日常的に起きていたことを反映している。人間と財富を掠奪するための戦争は、原始社会における村落間の闘争とは質的に異なる。戦争の原因として、農耕民族内部の確執以外に、遊牧民族との矛盾も重要な要因と考えられる。この点については後で再び触れたい。
中原竜山文化の時に、青銅冶鋳技術が既に掌握されていたにちがいない。公表された資料に臨汝煤山(26)、淮陽平糧台(27)、鄭州牛砦、登封王城崗等がある(28)。現在発見されている最古の複合范製品は、陶寺墓葬の銅鈴である。おもしろいことに、最古の毛筆で書かれた文字が陶寺から出土した陶器片上に描かれていた(29)。金属器と文字の発明は、文明形成過程において重要な意義を持っている。これに関する論述は既にかなりあるので、ここでは詳述しない。
この他に陶寺から、円圏、直線、折線からなる幾何模様の刻まれた白い漆喰の残決が出土している。これは建築物の壁体とその装飾文様である。この種の建築物は明かに一般人の住居ではなく、貴族の住宅であった。後世の中国の宮室は、この様な基礎の上に展開したにちがいない。
中原竜山文化の歴史は、文献資料によっても確証される。該当する時代と地域から考えると、中原竜山文化は歴史文献上の「五帝」の事蹟に相当する。考古資料と文献資料を総合すると、文明形成過程中、原始社会から複合社会へと進む中で、部落を主体としていた中原竜山文化の人々は、「城」を核にして古文献上のいわゆる「國」、「邦」へと発展した。これは『史記』五帝本紀に説く黄帝代の万国、『尚書』尭典に説く尭の万邦のことである(30)。この「國」もしくは「邦」は、国家の最も古い形式である首長国家を指している。その後、黄帝を首長とする首長国家は周囲の部落や首長国家を漸次併呑し、さらに大きな政治権力を構成した。『史記』五帝本紀に「天下に順はざる者有れば、黄帝従って之を征し」とあり、また尭舜は「共工を幽陵に流し」、「驩兜を宗山に放ち」、「三苗を三危に遷し」、「鯀を羽山に し」と記されており、この過程を描写している。『史記』五帝本紀に「黄帝より尭禹に至るまで、皆同姓なり。而して其の國號を異にし」と記され、彼等の間に継嗣関係の存在したことが明確に示されている。禹の代になって、ついに中国史上最初の王朝である夏王朝が設立された。そしてこれ以後、黄河中下流地区が2千年以上も長期にわたって中国の政治的中心地となったのである。
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紀元前3千年紀の中国南方社会
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華南の新石器文化は、華北の新石器文化が単に南へ延長したわけではなかった。初期新石器時代から、経済生活と社会組織は華北の文化とは異なり、この地区の文化的容貌には顕著な地方色があった(31)。黄河中下流域で中原竜山文化が繁栄していた時、長江の中下流域でもいくつかの地域的文化が発展していた。黄河流域と比較するならば、長江流域の新石器文化は類型が多く、地方色の強い特徴を示し、黄河流域の新石器文化に見られる共通性を備えていなかった。この論文の対象とする紀元前2,500年から2,000年までの間、長江下流域では良渚文化が、長江中流域では石家河文化がその代表とされる。
良渚文化は長江三角州平原に分布し、南は浙江省杭州湾から北へ江蘇省北部に達し、西は南京付近にまで及ぶ。中心は太湖平原とその近隣地区である。現在100ヶ所余りの遺跡があり、既に30ヶ所以上の遺跡が発掘された。その年代は、13個の放射性炭素年代測定値によると、紀元前約2,800から1,900年までの間であった(32)。
良渚文化の社会は、稲作農業を基礎にしている。銭山 、水田坂、仙蠡 等の主要な遺跡から稲穀の実物が発見されている。稲穀の品種は、鑑定によると粳稲(\uOryza sativa\u L. subsp. keng)と 稲(\uOryza sativa\u L. subsp. hsien)の2種類がある。使用された農具の磨製加工は精緻で、北方の同時期のものをはるかにしのぐ。石 、石刀(長方形、三角形、半月形の3種類がある)、石鎌、石斧、石 等がある。河姆渡文化(紀元前5千年紀)の時から、この地区の原始農業には大量の有機物(木、貝、動物骨等)を応用した農具の伝統がある。保存条件に左右されて発見例が比較的少ないが、良渚文化にも同様な生産用具が存在したと考えられる。この他に、農業と関連ある活動として紡績業と曲げ物製作が挙げられる。銭山 出土の紡績品として、絹片、絹紐がある。これは中国最古の絹織物の実物であり、養蚕がこの地区から発生したことを証明している。その他の織物に麻片、麻縄等々がある。曲げ物として、竹蓆、簍、籃、刀 、簸箕等々がある。曲げ物製作技術は複雑で精緻である。飼育された動物にはブタ、イヌ、スイギュウ等がある(33)。総じて、すべての良渚文化の遺物から、農業と手工業の結合した経済形態が見られる。後世の江南農村の自給自足的経済は、この時期にしっかりとした土台が出来上がったのであろう。
良渚文化の家屋はすべて竹と木からなり、欄干式の建築が主体である。けれども、紅焼土の堅い面の上に直接建てられた床上建築もある。野外の発掘資料をもとに良渚文化の住居址を考えると、「遺跡にはしばしば相接した数ヶ所の居住地点が含まれていた。各地点の面積は比較的小さく、一般にわずか数100平方メートルであった。」と指摘されている(34)。これは、北方の中原竜山文化のような大規模な氏族集村的村落が少ないことを意味している。これと平行して、良渚文化の墓地の墓葬分布は比較的分散していて、一般に数基の墓が一体となっているだけで、多いもので30数基しかなかった。「比較的密集した氏族共同墓地が欠如していた」という点は(35)、十分注意に値する現象である。
良渚文化の時期に、文字の始まりと思われる全部で14個の異なる刻印が、陶器の上に刻まれていた。そのうちの4つのマークが1つの土器の上に集中していた。字形には商周青銅器の銘文と似た点があった(36)。しかしながら他の文明的要素、つまり青銅の使用は良渚文化ではまだ確認されていない。
良渚文化の社会意識と社会制度を最もよく反映しているのは、墓葬様式と副葬品である。良渚文化の大墓は人工的に築造された土丘の上に埋葬され、また、儀式性の強い玉器が副葬されていた。これらの玉器はすべて墓葬の中から見つかり、製作は精緻で、器形は既に固定していた。装飾符号も極めて具象性を帯びていた。例えば、上海市青浦福泉山遺跡の墓地は、東西の長94メートル、南北の幅84メートル、高さ7.5メートルの土丘上にあり、最上部は人工築成であった。堆土量は15,792立方メートルである。土台の頂上部には環状に修築された祭壇がある。土台上には31基の墓があり、そのうち少なくとも4基から殉死者が見つかった(37)。浙江省余杭反山墓地は、高さ4メートルにも達する人工的土丘にあり、東西の長さ90メートル、南北の幅30メートル、堆土は約10,000立方メートルもある。既に11基の墓葬が発掘された。死者はすべて漆棺の中に葬られていた。主要な副葬品は玉器で、少ないもので数十個、多いものは数百個もあった。その種類には、 、璧、 、 、冠状玉器、三叉形玉器、鳥獣等20数種あった。その他の珍貴な物品として象牙、朱塗嵌玉器、嵌玉漆器等がある。その中のM20の墓から、玉器511個、石器24個、象牙器9個、陶器2個、サメの歯牙1個が出土した(38)。この他、余杭瑶山墓地にも人工的に築造された方壇があった。各辺の長さ20メートル、高さ0.9メートルである。方壇には墓葬が11基あり、副葬品の数量はまちまちであった。最も副葬品の多かった墓はM7で、160個(組)に達する。玉器が主体で計148個(組)あり、その種類には 、鉞、冠状玉飾、三叉形玉器等があった。また、石鉞3個、陶器4個、嵌玉漆器1個、サメの歯牙4個が出土した(39)。
良渚文化の玉器の中で最も特徴的なものは、玉 である。一般に外面は方形で内側は円孔で、腕輪状と柱状の2種類がある。表面に1組もしくは数組からなる「神人」文様がある。それぞれの組は平行した長方形文様や曲弧文様によって分割されている。「神人」文様には精美なものと粗雑なものがある。丸い目と大きな口を持ち、口を空けて歯を剥き出している。この容貌は人間と動物を取り混ぜたような顔をしているため、「獣面文」とも呼ばれている。この種の「神人」は石器や陶器の上にも見られることから、良渚文化の宗教信仰の中で極めて重要な形象なのであろう。良渚文化における玉 の機能、「神人」図案の意義について、中国内外で多くの研究者が言及しているので、ここでは詳述しない。しかしながら、良渚文化の墓葬に見られる特徴と玉器の性質から、以下の点を指摘できるだろう。
1.経済的貧富と地位の分化が社会的にはっきりと読み取れるので、この社会は平等な社会ではなく、階層的社会であった。
2.玉工、木工、紡績工、漆工等の専門工人が既に存在していた。工人達の労働は、世俗的な生活資料を得るためのものではなく、玉工のように宗教信仰的活動に向けられていた。
3.当時の社会的上層人物は、祭壇、墳丘等の大規模な宗教儀礼的建造物の造営に、一般大衆を動員できるだけの権力を既に持っていた。
4.生活物資の生産から離脱した上層人物および専門工人の存在は、当時既にかなりの余剰生産物があり、なお且つ生産物を再分配できる確固たる制度ができていた事を示している。
5.良渚文化の宗教は、まだ動物神と人神が混同している段階で、巫術的傾向が強い。張光直教授は、出土した玉 を神と交わるための巫祝の道具と解釈している(40)。
6.規模の小さい、分散した住居址と墓葬から見ると、同時の社会的生産単位は家族であって、氏族ではなかった。
さて、長江中流域の状況を見てみよう。湖北省の江漢平原および湖南省洞庭湖の北岸と西岸に、紀元前2,500年から2,000年までの間、代表的文化である石家河文化があった(41)。その中心地区は漢水中流の京山、天門一帯で、村落分布も比較的密集している。
石家河文化の住民は農業を主に行ない、稲が主たる農作物であった。稲殻と茎葉、そして稲殻や稲の繊維を含んだ陶器が非常に多くの遺跡から発見されている。農業生産工具には、長方形の石 、双肩石鋤、長方形の穿孔石刀、蚌鎌等がある。飼養された家畜はブタ、イヌ等であった。
家屋は全て平地住居であった。墓地の規模は小さく、墓葬は分散していた。少ないもので数基、多いものでも僅か20数基であった。副葬品はないか、あっても数個の日用陶器もしくはブタの下顎骨だけであった。湖北省 県青龍泉遺跡の墓葬(42)、均県乱石灘遺跡の墓葬(43)、随州西花園遺跡の墓葬(44)、湖南省安郷劃城崗遺跡の墓葬等(45)、全て同じ様な状況であった。唯一の例外は、湖北省石河肖家屋脊遺跡のM7であった。陶器を主体に副葬品が106点あったが、特殊な儀礼用品はなかった(46)。また、青龍泉墓地のM27ではブタの下顎骨が14個副葬されていた。けれども総じて、石家河文化における社会分化は、良渚文化よりも顕著ではなかった。
石家河文化の基層的社会組織を、墓葬からかいま見ることが出来る。房県七里河遺跡から多数の人間を二次的に合葬した墓が見つかった。76M1を例にとると、内部には10体の人骨があり、それは老若男女、様々な年齢を示していた。元来埋葬されていたのは1体だけであり、その他は改葬されたものであった。発掘担当者は、この墓葬は家族原理を体現していると見なし、氏族制度を反映した同性の群を合葬する風習と区別している(47)。
石家河文化の宗教信仰は、原始的巫術の色合いが濃い。七里河遺跡の住居址、灰坑、窯址の中から人間の頭骨が少量見つかった。発掘担当者は、当時、首狩りの風習があったとしている(48)。
良渚文化、石家河文化の特徴を考えると、良渚文化は既に文明前夜にまで達していて、首長制を形成していたと思われる。石家河文化は、まだ農耕村落を基礎とする部落社会後期の様相を示している。北方と異なる点は、中原竜山文化が首長社会以後、引き続いて国家へと発展したのに対して、南方の良渚文化と石家河文化では原始社会後期以後、社会生産と社会組織の発展が停止してしまい、独自の力で文明へ進入できなかったことである。北方の政権が南方に及ぶまで、ついに国家へと発展することがなかった。この点は文献からも明かに看て取れる。
長江下流の良渚文化の活動区域は、歴史時代には越族の活動範囲となり、呉と越の二つの国に分かれた。『史記』越王勾踐世家に、勾踐の先祖は夏代の時、依然として「身に文し髪を斷ち、草莱を披きて邑す」とあり、都市や文字の文明的要素が欠落していたようである。商代後期になっても、さほど状況に変化はなかった。『史記』呉太伯世家に、商代末期、周太王の子「太伯・仲雍二人乃ち荊蠻に犇り、身を文にし髪を斷ち、用ふ可からざるを示し」とある。『索隠』に「蠻亦越と稱す」とある。ここの荊蠻とは越人を指している。これらの記事からすると、この辺りの住民はかなり遅れた状態であった。
長江中流の石家河文化の分布範囲は、後世の楚国の中心地である。『左伝』昭公十二年に、楚の先王熊繹の西周初年の事跡を伝えている。「昔、我が先王熊繹、荊山に辟在し、篳路藍縷にて、以て草莽に處り、山林を跋渉して、以て天子に事へる」。楚の建国以前に、この地には先進的政治組織や文明が出現していなかったことを読み取れる。西周から春秋まで、この地の住民は「楚蠻」(49)、あるいは「百濮」と言われ続けた(50)。これらの百濮の社会組織は、明かに分散的な原始村落の段階であった。『左伝』文公十六年に、その特徴が書かれている。「百濮は離れて居し、各其の邑に走る」。杜預注によると「濮夷に屯聚は無く、見難くして散歸す」とあり、この状態を非常に良く表現している。
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中国文明発展過程における北方と南方の比較
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以上の叙述から、中国北方と南方の主要地域は、既に紀元前3千年紀の後半から、新石器時代後期に進入したと見ることができる。北方と南方の文化を比較検討すると、非常に多くの共通点が見つかる。両者はともに農業を主体に、狩猟採集活動を補助的に行なう社会であった。けれども、経済の中で占める狩猟採集活動、特に魚貝類等の水生動物の捕獲、採集の比重は、北方より南方の方が大きかった。彼等は角、骨、貝等の原料を応用して労働用具を製作し、定住的村落生活を送っていた。このことは、彼等の生産力と生活様式がほぼ同等であることを示していた。社会的性格からすると、竜山文化と良渚文化は、いづれも原始社会の最後の段階である首長制の段階であった。石家河文化の社会も部落社会後期の段階であった。しかしながら、それ以降の社会発展の軌跡を見ると、かなり大きな差異が生じた。黄河流域文化と長江流域文化について、新石器時代後期の生産手段と社会組織にさほど大差がなかったのに、どうして文明の発展と国家の成立時には、二つの異なる展開が生じたのか? この問題に答えるためには、多くの側面から考察しなければならない。北方と南方の異なる地理的環境と農作物、周囲の民族との異なる関係、潅漑設備の異なる需要、異なる基層社会や宗教信仰等々が、この問題にすべて関係していると思われる。そこで、それぞれのテーマについて個別に検討を加えてみよう。
1.地理環境
まず最初に、中原竜山文化と南方新石器文化の位置する地理的環境を考察してみよう。中原竜山文化の分布範囲は広いが、すべて黄河中流の平原上にあり、地形は平坦で、交通の便は良く、文化の交流、物資の交換に適している。原始社会の発展過程で、統一した社会意識と宗教観念が容易に培養された。従って部落組織の上部に、さらに大きな政治的実体が出現し易かったと言える。このことは新石器時代後期に、この地域で基本的に統一的な文化である竜山文化が形成された原因でもある。
黄河流域の気候は寒くて乾燥している。南方の動植物と比べて種類が乏しい。過酷な自然条件は人々に生産経済を強要し、社会組織を調整させながら生産に適した文化を発展させねばならなかった。かつてトインビー(Toynbee, Arnold)は、挑戦と反応(challenge-and-response)の結果人類文明が発展したので、すべての最古の文明は自然条件のやや悪い地域から出現したと述べた(51)。黄河流域の歴史的発展状況は、彼の推測と一致している。
逆に南方はこれと相違する。山なみは険しく、河川は縦横に走り、森林は密生し、沼沢は連綿と続いている。人々は河谷あるいは湖周辺の平原で文化を発展させた。自然の障壁は古代の文化を個々の文化的範囲(cultural niche)に分割させた。すなわち「廣川大水、山林溪谷、不食の地なり」とある(52)。文化的範囲は相互に影響し合ったが、往来そのものは北方平原ほど便利で緊密と言えるほどのものではなかった。長江流域の新石器文化の種類が極めて多く、類型が複雑な原因はこの点にある。
それぞれの文化的範囲は(黄河平原と比較すると)さほど大きくなく、許容人口および社会的余剰生産物に限界があった。それ故、原始社会の解体中に首長制が出現してからも、社会的要求を満足させることができ、必然的に国家へと発展する可能性も、また必要性もなかったのである。
南方の気候は温和で、雨量は潤沢である。動植物の種類は多く、自然条件は良好である。狩猟採集経済からすると、これは極めて理想的な地域と言えるだろう。生活物資を容易に得られることから、この地の民族は北方ほど生産経済を重視しなかったのである。このような状況は前漢代になっても残存し、『史記』貨殖列伝に生き生きと描かれている。
楚・越の地、地廣く人稀に、稻を飯にし魚を羮にす。或は火耕して水耨す。果陏 蛤、賈を待たずして足る。地勢、食饒く、饑饉の患無し。故を以て呰 にして生を偸み、積聚無くして而して貧多し。是の故に江淮以南は凍餓の人無く、亦千金の家無し。
生産上の停滞は、必然的に社会文化的発展の停滞を招いた。「凍餓の人無く、亦千金の家無し」という語句は、紀元前2世紀頃になっても、江南の原住民族の間で階級分化がさほど普遍的でなかったことを説明している。緩慢な社会発展の様子をこの語句から想定できるであろう。
2.農作物品種
中国南方と北方の主要農作物が相違したことも、南北の文明発展の異なる経路を導いた原因の一つであろう。
中原竜山文化の主要農作物は粟(millet)であった。すべての穀物の中で粟は干旱に強い作物である。水の消耗は大麦(barley)に比べて半分にすぎない。長期の乾燥状態の下で、エン麦が75パーセントしか収穫できない時も、粟は90パーセント以上の収穫が得られる(53)。この種の作物は耕作条件が複雑でなく、粗放農業に適している。中原地区に広く分布している柔らかい黄土のため、石、木、貝、骨製の原始的農具でも十分効率がよかったと思われる。しかも、粟の成長期間は短く、毎年4月から5月に種を撒くと、9月中旬から10月に収穫できる。黄河中下流地域に比較的雨量が多く、温度もやや高い数カ月の間に種植するため、基本的には人口潅漑の必要性がない。この種の作物の特徴は、新石器時代の低い耕作技術で、潅漑技術が十分発達していない状況の下でも、安定した生産量を維持できた。社会にかなりの剰余生産物を供給できたので、文明の出現に確固たる物質的基盤を提供したのである。
この他、北方の植生は南方と異なっている。何炳棣教授はかつて古文献と考古資料を総合して、「文献と地質研究によると、黄土地区の森林は丘陵、斜面、山麓と平原の比較的低湿な地域に限られていた。一般に黄土高原と平原には太古から森林はさほど成長していなかった」と論じた(54)。現在、この結論は正しいと言える。つまりこれは、中原地域の人々が人口増加によって耕地を拡大する際に、南方ほど森林伐採の労苦に遭遇しなかったことを示している。
南方の主要農作物は稲である。一般的に稲は精耕細作を要求する作物である。一定の気温条件以外に(通常、25度から33度の間)、稲の栽培には十分な水分が要求される。稲の成長過程で植物自体の吸収、葉の表面からの蒸発、土壌への浸透等から、毎日5.6から20.4ミリメートルの水が必要である。水田に一定の深さで水の蓄えが要求されるだけでなく、3〜4カ月の長期わたって貯水しておかなければならない。従って、人工潅漑が実施される前は、その耕地を無限に拡大することができず、河、湖、渓流に近い窪地や沼沢の周囲に水田が集中したのである。南宋の周去非は『嶺外代答』の中で、12世紀の両広地区の水稲耕作について記している(55)。
深く廣く土を擴げ彌く望み、田家の耕、百に一爾無し。必ず水泉を冬夏常に之の地に注ぎ、然る後に田と爲す。苟し膚寸高く仰げば、共に棄てて顧みず。其の耕、僅を求めて塊を破き、深易を復さず。乃ち田に點種し、更に移秧せず。既に種の後、旱して水を求めず、 して疏決せず。既に糞壌無く、又 耘せず、天に一任す。
近代になっても雲南の怒族、布朗族、海南の黎族等の水田生産技術は、依然としてこれと似ている(56)。『史記』貨殖列伝には、前漢時代の楚、越の水稲耕作を「火耕而水耨」と記している。新石器時代の良渚文化、石家河文化の耕作とさほど進んでいない。南方で稲作農業は非常に古くから開始されたが、人工潅漑技術が発展する以前、大規模な耕地の拡大には常に大きな制約がともなった。生産量は分散的な小村落の生計を支えるのみで、さらに大規模な城市と国家を維持するには困難であった。南方では、小家族を単位とする生産は共同労働の範囲を制限した(この点は後で詳述する)。また溝渠を掘削するには、森林を伐採し、複雑な自然地形の障壁を克服し、緻密な粘性土壌を取り除かなければならなかった。歴史時代になって、普遍的に鉄工具が使用されるようになってから始めて、潅漑事業が開始された。水利潅漑は文明になってから後の産物であり、決して文明の前提条件ではなかった。
次に、稲の栽培は日照(太陽の輻射)に大変敏感である。特に開花期(reproductive stage)と成熟期(ripening stage)に、理想的な太陽輻射強度は1平方メートルあたり250カロリーから500カロリーである(57)。それ故、稲田を開く主要条件は、必ず森林を伐採して日影になる部分を消滅させることにあった。しかも、大規模な森林伐採は鉄製工具を使用して始めて可能であった。この条件は、石器時代の良渚文化や石家河文化では十分到達しなかった。
最後に、人工潅漑の構築と森林伐採用の鉄製工具の状況を見てみよう。通常、水田には一定の水量を蓄えておかなければならない。また、水田の傾斜もほぼ水平に、微妙に設定する必要性がある。従って、開墾して水田を造る時には、土地を平坦にして、田に畔を設けなければならない。大規模に土地を平坦にするには、畜力の牽引が必要不可欠であった(58)。文献資料によると、江南地域で広く牛耕が行なわれるようになったのは、後漢初年(紀元83年)であった(59)。この側面からも江南地域の稲作は、長期にわたって遅れた状態を示している。
人類の食糧生産は、すべて人間活動に必要なエネルギーを提供することを目的にしている。1949年にホワイト(White, Leslie)は、所謂「エネルギー獲得」の概念を系統的に提出した。この理論によると、「人類文化の発展基準は、獲得されるエネルギー、およびエネルギーを制御する能力によって決まる」(60)。この理論からすると、新石器時代後期の中国北方と南方の文化について、その生産力は、農業作物、工具の種類、家畜の品種等の面から、さほど大差はなかったであろう。すなわち、生産発展のこの段階では、粟作農業であろうと、稲作農業であろうと、大自然から取得するエネルギー量はほぼ同じであった。両者は基本的に、文明出現前夜の同一段階にあったと言えよう。
けれども、社会的生産性(productivity)は、単に獲得される総エネルギーからのみ決定されるのではなく、投入エネルギー(input)と獲得エネルギー(output)の比率からも考えなければならない(61)。この点からすると、北方の粟作農業と南方の稲作農業の間には、発展過程中に明かに大きな差が現れていた。
前にも記したように、黄河流域の粟作農業は、原始的な耕作条件の下で安定した生産量を維持していた。工具と技術が基本的に変化していない状況で、社会的な分業が進み、人口が増加して生産の増大が必要な時に、単純に耕地面積を拡大することによって生産量を増強させた。黄土平原は主として草で被われていたため、耕地面積の拡大に、大量な労働力の投下や新しい工具の開発はさほど必要ではなかった。夏代から西周にかけて、中原の農具が常に石器もしくは木器の段階に留まっていたにもかかわらず、社会が不断に発展した理由はここにある。もちろん、1千年以上も中原の農業が進歩しなかったと言うわけではない。この種の進歩が社会の発展と比較して、それほど急激であったり、革命的であったわけではないことを強調しておきたいだけである。
長江流域の稲作農業はこれと異なる。稲作農業の最初の段階は、自然地形と自然水源を利用した火耕水耨の段階であり、投入する力量は低くても収穫量は高かった(62)。社会全体で得た総エネルギー量は、粟作農業と比肩できるであろう。原始社会の段階では、このような生産(もちろんその他の経済活動も含まれる)は氏族や部族の活動を十分に支えたであろう。しかしながら、もし国家のような複雑な組織や、城市、文字、青銅器のようなより高度な文明的要素を社会が維持しなければならなくなると、剰余生産物の増加、稲の種植面積の拡大が必須となる。だが、耕地面積を拡大するには、森林を切り開き、溝渠を築造し、土地を整地し、田畔を構築しなければならない。つまり、大量の労働力(エネルギー)を投下しなければならないのである。鉄器と畜力牽引の欠けている状態で、そのような大規模な労働力の投下は、社会的富を増加できないだけでなく、逆に却って投入エネルギーと獲得エネルギーの割合を低下させてしまう。要するに、労働生産性の低下を招いてしまうであろう。もちろん、当時の人間が明晰な経済原理を理解していたわけではなく、本能的に損失を防いでいたのである。原始社会後期に中国南方社会は長期にわたって停滞していたが、単純に一つの原因だけで説明するのは難しい。
3.近隣民族との関係
周辺民族との関係は、中国の国家と文明の出現に何らかの影響を与えた。この点で北方と南方では異なっている。
中原地区より北側は蒙古の大草原と接し、そこは古くから遊牧民族の活動していた場所であった。遊牧民族と農耕民族は経済活動、生活様式、信仰習俗が異なり、衝突を免れない。農耕民族は経済的に遊牧民族とは独立しているが、逆に遊牧民族は農耕民族の穀物、紡織品、金属器等の物産、および上流階級の嗜好品が必要であった。何らかの理由で彼等が平和的手段でこれらの物品を得られなかった場合、掠奪が唯一の手段となった。こうして両者の間に戦争が頻繁に起こったのである(63)。歴史文献に、古く黄帝代に「北は葷粥を逐ふ」という記載がある(64)。その後、この類の史実は決して絶えることがなかった(65)。サーヴィス(Service, Elman)は、黄河流域の初期の政治を論じた際に、中国の初期城市の出現、政権の集中、階級分化を、遊牧民族との衝突に関連させて論じた(66)。中原竜山文化から常に城塞が発見されるのは、この種の防禦が必要であったからである。
カーネイロの提案した制限論に従うと、当時の中原竜山文化の人々の境遇を解釈し易い。この文化は完全に黄土地帯で発展した。彼等の農作物は黄土に適した栽培品種である。住居は黄土地帯の半地下式家屋で、主に陸上交通を使って移動していた。衣食住は黄土と切り離すことができなかった。遊牧民族の圧力にさらされて、彼等には二つの選択肢しかなかった。一つは、自己の社会構造を強化させて組織的に抵抗することであった。もう一つは、南方へ居を移すことであった。南へ移住すると、彼等にとっては全く見知らぬ土地なので、生態環境に適応し難くなってしまう。さらに、元来から居住していた人間集団との間で新たな争いが起きる。このような状況下で、彼等は前者の道を選択したのであった。
南方の状況はこれと異なる。多くの集団は山林渓谷、河湖沼沢の間に分散し、交通は不便で、往来は少なかった。恒常的な外界からの脅威もない。北方民族を団結させたエネルギーは、ここには存在しない。
4.水利事業の必要性
水利の重要性を強調したウィットフォーゲルの説に同意はできないが、多くの歴史的記述によると、確かに中国最初の王朝である夏王朝の成立には、水利と密接な関係が窺える。『孟子』 文公(上)に「尭の時に當りて、天下猶未だ平かならず。洪水横流し、天下に氾濫す。草木は暢茂し、禽獸繁殖し、五穀登らず、禽獸人に逼り、獸蹄鳥迹の道、中國に交はる。尭獨り之を憂へ、舜を擧げて治を敷かしむ。」とある。この記述を読むと、中国文明史の開始は治水と関連があるように見える。その後、「夏禹治水」の伝説は広く知れわたるようになった。『史記』夏本紀では、治水の功績によって禹が政権を取得したことを明確に記載している。治水の過程で蓄積された権威を利用したとの説もある。『荘子』天下篇「昔禹は洪水を湮ぎ、江河を決し、而して四夷・九州に通ずるや、名山三百、支川三千、小なる者無数なり。禹は親しく自ら 耜を操りて天下の川を九雑し、腓に 無く脛に毛無く、湛雨に沐し疾雨に櫛り、萬國を置く。」『漢書』地理志「尭洪水に遭い、山を て陵を襄る。天下を分絶し、十二州と爲す。禹を使め之を治め、水土既に平ぬ、更に九州を制し、五服を列ね、土に任て貢を作す。」全て治水は「九州を制し」、「萬國を置く」の前提となっている。この点からすると、ラッティモア(Lattimore, Owen)の見解は正しいと言えよう。
原始的土地所有制度が家族、氏族あるいは「共同」所有であろうとも、土地の更なる利用(水利事業−−引用者註)は、不可避的に集団活動へと発展する。このようにして伝統的な社会権力は、それが「首長」、「氏族会議」、「王」、「国家」と呼ばれていようが、より直接的かつ強力に、土地の統制ではなくて集団労働の統制として現れる。もしも一人、もしくは1個の集団が水利事業と開墾に伴う人力を十分に支配できたならば、その人物もしくは集団は、その社会の基本的権力を統治できるであろう(67)。
史実から見ると、中国の国家権力の形成には、防禦と集団的な水利事業が密接に関係し、また、集団労働の統制に関係していたのであって、土地所有制度と直接関係していたわけではない。マルクスとウィットフォーゲルの説と異なる点は、中国の黄河流域で最古に出現した水利事業は、決して潅漑ではなく、防水害にあったことである。黄河流域は地形が平坦で、河岸が浅く、一年のうち夏季に雨が集中するため、太古から氾濫し易かった。古代に黄河流域で定住するためには、防水害が主な問題であった。『漢書』溝洫志に「古者國を立て民を居へ理するに土地を彊する。必ず川澤の分を遺めて、水勢及ばざる所を度る。」とあるのは、このことを指しているのである。
この点からすると、南方の状況は異なる。南方の河川は、黄河のように常に氾濫していたわけではない。さらに、南方には山が多く、平原にも高い丘陵が多い。人々は洪水による災害を容易に避けることができた。一部の地域(例えば蜀)を除いて、大規模な治水伝説や史実は存在しない。この点が、南方で統一的な政治管理の欠如した理由の一つである。
5.社会の基層組織
人々が一定の形式の社会団体(家族、氏族、部落、首長、国家)を組織する最終目的は、自然環境に最も効率的に適応し、生産を行ない、生産物を一定の形で再分配するためである。モラン(Moran, E. F.)は「それぞれの社会組織は、生存に必要な物資を取得する手段を全て備えている」と述べている(68)。この観点からすると、異なる生態環境は人類の経済活動を左右し、人類の社会組織に重大な影響を与えている。
北方では地形が平坦で、黄土が開墾し易い。また、共同治水と防禦が必要なため、容易に協業の観念が生じる。従って、原始社会後期の基層的生産単位は、氏族であった可能性が強い。このことは、大規模な集村型村落と、見事に配列された氏族墓地によって確かめられる。後世、長期にわたって存在する農村共同体はここから出発している。北方の集団生産の伝統は、階級社会になっても統治者の搾取手段として採用された。『殷墟卜辞』に「王大令衆人曰、協田、其受年」(前七.三十.二)、「人三千 」(粹一二二九)、および周代の『詩経』周頌・噫 に「駿ぎ爾が私を發きて、三十里を終えしめよ。亦爾の耕に服するものを、十千もて維れ せしめよ。」とある。これら全ては周知の史実である。
氏族を基礎とする農業生産組織は、比較的容易に複雑な政治団体に統合しやすい。このような団体が出現すると、統治および管理が容易なのである。国家の形成と文明の出現に有利な条件を創出したのであった。
南方では、水害と外来民族からの圧力がなかったので、人と人との共同作業を行なう動機が欠けていた。しかも、稲作農業が水源と地形に制限されていたので、家族が生産単位となった。氏族は存在していたが、その主な作用は社会的側面にあって、生産的には関与していなかった。良渚文化と石河家文化の遺跡に、北方新石器時代の遺跡でよく見られる大規模な集落と整然とならんだ氏族墓地がないのは、この点と関係しているのである。ホワイト(White, Joyce)はタイの先史遺跡を研究した際に、同じような結論に到達した。「生産組織については、水稲栽培はしばしば分離的かつ拡散的で、共同的な求心力を促進しない」(69)。経済的な分散性は、必然的に政治的分散に影響を及ぼした。サーリンズ(Sahlins, Marshall)は、原始社会におけるこの種の家族制生産様式について指摘した。
その固有の状況で、生産構造として考察すると、家族制生産様式は、一種のアナーキー性をしめしている。
家族制様式は、世帯−−たがいによく似かよってはいるが−−のあいだに社会的、物質的な関係をあらかじめ樹立しているわけではない。分節的な解体の割れ目が社会になかにひろがるのをふせぐために、わずかに無組織を制度化し、機械的な連帯性をつくりだしているにすぎない。社会経済は無数のせまくかぎられた生活に細分化され、おのおのの生活は相互に独立して作動するようになっており、ひたすら自分のためだけに専念する自家本位的な単位である。分業なのだろうか。世帯の枠をこえると、生活はもはや有機的な力をもってはいない。生産集団の自律性を犠牲にして社会を統一しようとするのではなく、分業−−性による分業が原則なのだから−−がここでは、社会の統一を犠牲にして生産集団の自律性を確保するしくみになっている。・・・・・
政治的にみると、家族制生産様式は、一種の自然状態にあるといえよう。いくつかの世帯集団が協定しあって、その自律性の一部をたがいに譲渡するように強制するなにものも、この生産の下部構造のなかにはみあたらないのである。じっさい家族経済は、部族経済のミニアチュアといってよいもので、だから、統治主権者なき社会という、あの未開社会の状況が政治的にはそこからでてくるわけである(70)。
民族誌資料、人類学者のインドネシア、フィリピン、マレイシア等の調査によると、原始的稲作農業の行なわれている地域は、その基層単位は常に家族であった。集約農業が発展してから、潅漑系統の造築と用水分配のために、全村落による共同作業や数ヵ村にまたがる作業が始めて出現したのである(71)。長期に存在した中国南方の家族経済は、国家への統合および文明の出現を妨げた要因の一つにちがいない。
6.宗教信仰と政治思想
物質的な面における相違の他、中国南北の民族の意識形態にも異なる点を見出すことができる。これも社会発展過程に重要な影響を与えた。そこで、宗教信仰と政治思想について検討したい。
宗教および宗教的な意識形態と社会制度は、どんな社会であろうと非常に密接に関係している。異なる状況下で、宗教は現存する社会制度を強固にしたりあるいは破壊したりし、また社会変化を加速させたり、遅延させたりもする(72)。国家と文明の出現過程で、この作用は顕著に機能する。キーティング(Keatinge, Richard)は以下のように指摘している。
あからさまな強制力が存在しない時は、宗教的拘束が政治的集中化への道を開いた。考古学的に発見される宗教遺跡の規模と数量から、当時の社会における宗教の意義を知ることができる。宗教的堂宇に金銭を費やしたり、人的物的資源を惜しげもなく奉じたりすることは、疑いもなく、初期国家の経済構造に甚大な影響を及ぼした。同時に、政治的組織形態にも大きな影響を与えた。これらの資源を生み出し利用するために、政治的権力が組織されたのである(73)。
中国でも同じような状況が窺えるだろう。南北の文明発展の相違を考察する際に、宗教の問題を軽視することができない。現存する資料を見ると、宗教信仰と意識形態の面においても、中国南北の民族の間で差異が存在していた。
北方では、共同生産を基盤にする氏族意識が濃厚であるため、祖先崇拝が盛んであった。『禮記』祭法に「有虞氏は黄帝を にして を郊にし、 を祖にして尭を宗にす。」とあり、既に伝説的な五帝時代に祖先崇拝が制度化されていた。中原竜山文化の整然とならぶ氏族墓地は、生前の血縁継嗣関係を重視した傾向を示している。
特定の祖先に対する崇拝は、元来、特定の氏族あるいは家族の内部に限られ、極めて排他的であった。『左伝』僖公十年に「神は非類を けず、民は非族を祀らず。」とある。しかしながら、国家形成過程中に、もしも特定の氏族あるいは家族が政治団体の統治者になったならば、彼等の祖先崇拝は全政治団体の神になるか、もしくは甚だしい場合、全民族の神になってしまうであろう。中国古代の「姓氏」という言葉の発展から、このような変遷をたどることができる。『通志』巻二十五氏族略・氏族序に、「三代の前、姓氏分かれて二と爲す。男子は氏を稱し、婦人は姓を稱す。氏以て貴賎を別つ。貴者に氏有り、賎者に名有り氏無し。今南方諸蠻、此道猶存り。」とある。『通志』の著者、鄭樵の解釈によると「姓以て婚姻を別つ」とあり、従って姓が異なれば、氏族や家族が異なることを意味していた。「氏」の状況はやや複雑である。鄭樵は32種類もの「氏」の決定方法を列挙したが、その中で最も基本となるのは、第一と第二の方法、つまり「國を以て氏と爲す」方法と「邑以て氏と爲す」方法であった。すなわち「氏」は、最初、政治的実体を現す名称であったことを示している。『禮記』祭法の記載によると、王は七廟を立て、諸侯は五廟を立て、大夫は三廟を立てた。祭祀の対象は全て「王考」、「皇考」、「顯考」、「祖考」であり、最高統治者の祖先であった。このような祖先崇拝の出現によって全政治組織による神霊崇拝が生じ、政治権力の団結と強化を大いに促進させたのである。
古代中国に特有な礼楽制度は、尊卑の等級を明らかにし、当時の社会秩序を確立させるための有力な手段であった。そして、中国の礼楽制度の成立は竜山文化中であったと見てよかろう。前述した棺槨を併用した木槨墓、獣面文の玉 、玉鉞、 鼓、土鼓、特磬等々は、この制度の具体的な表現である。それらは、新生貴族集団の社会的地位を合法化し制度化させる機能を持ち、国家の出現や文明の形成を助けたのであった。
南方の宗教信仰は、これと異なっていた。良渚文化の墓葬制度には明確な階級分化と祖先崇拝の存在が窺えるが、この祖先崇拝は地域的な神霊崇拝や政治的な神霊崇拝には発展しなかった。反対に、原始的な動物崇拝と鬼神崇拝が長期にわたって存在した。『山海経』の中に書かれている南方的な動物崇拝が周代に流行ったこと、楚におけるシャーマニズムの盛んな様子が屈原の『楚詞』に記されていること等々の事実を、多くの人が知っている。漢代になって『淮南子』人間訓に、「荊人は鬼、越人は 」とあり、高誘注に「好く鬼に事えるなり。」とある。『漢書』地理志では江南の宗教信仰を「巫鬼を信じ、淫祀を重ねる」と記している。北方の祖先崇拝や先王先公崇拝と比べ、南方の信仰はやや原始的、分散的で農村共同体的側面を持つ。それは一方で、この地域の社会的現実を反映しており、保守的な体質を維持しつつ、新しい政治制度の出現を防いでいたのである。
政治思想の面で南方と北方は鋭い対比を見せている。60数年前に蒙文通先生は、中国上古文化を三つの系統に分けた。すなわち、北(河洛)、東(海岱)、南(江漢)の三地域である。北方文化は『韓非子』、『竹書紀年』に代表され、法制度、政治に長けていた。東方文化は儒墨、六経に代表され、科学、哲学に長けていた(74)。前二者の地域は竜山文化の範囲内であり、本論文の大まかな分類に従うと、北方系統とすることができる。上述した著作の内容は法制度、政治、科学、哲学であったが、国家管理、階級区分、社会分業、礼楽制度に肯定的態度を示し、先進的政治制度と文明を促進する要素を反映していた。
南方文化は『山海経』、『楚詞』に代表される。これらの著作に記された宗教信仰の原始性は前記した。政治思想の面で最も典型的な著作は、老子の『道徳経』である(75)。この著作に反映された政治思想は、北方の伝統とはるかに相違しているだけでなく、当時の社会的現実と発展の趨勢から乖離した状況を良く示している。以下の段落は、人々の熟知している文章である。
小國寡民。人に什伯するの器有るも用ひざらしむ。民をして死を重んじて遠く徙らざらしむ。舟輿有りと雖も、之に乗る所無し。甲兵有りと雖も、之を陳ずる所無し。民をして復結繩して之を用ひしむ。其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を樂しむ。鄰國相望み、鷄狗の聲相聞ゆるも、民老死に至まで、相往來せず(76)。
ここで、老子は国家の出現に反対し、文字を含めた文明的なものの使用すべてを拒絶している。老子の思想が原始社会の農村共同体的意識を反映したものであると、しばしば多くの学者によって指摘された。もちろんこの指摘は正しいが、このような政治思想が南方で生まれた理由については触れられることがなかった。老子の小国寡民の思想的基盤は、南方の長期にわたって存在した分散的家族経済にあったと考えられる。この経済は、さらに大きな政治的実体へと発展する要求を欠いていただけでなく、北方で紀元前3千年紀頃から始まった深遠な社会変化を恐れ、閉鎖的かつ停滞的な政治経済の維持に努めたのであった。このような社会的背景の下で、老子のような神秘主義的色彩の濃い保守的思想家が生まれたのである。
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結語
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近代中国において、最初に南北文明の差異に注意を向けた学者は梁啓超であった。彼は『中国古代思潮』で、「人類最初の文化は、必ず河川に沿って発生した。これは万国共通である。我が中国には黄河と揚子江の二つの大河がある。その位置からして各々性質が異なる。各自特有な文明があり、独立して発展したように見える。しばしば相互に調和と混合を繰り返したが、その相違を被うことはできない」と指摘した(77)。この梁氏の文章は思想史の観点から書かれているが、問題の本質を突いており、南北文明の独立的発展性の一面を捉えている。その後、蒙文通は学術的観点から、また徐旭生は民族的観点から(78)、この問題をさらに一歩進めて叙述した。半世紀以来の考古学的発見は、南北の文化的起源と発展に関して、物質文化上、大量の資料を提供している。文献資料の分析は日増しに精緻となり、新しい考古資料も日を追うごとにますます豊かになりつつある。古代中国の、南北の間に存在する巨大な文化的差異について、学問的に異義を提出する人はもういないだろう。
中国古代の南北文化の発展に差異があることは、表面的な現象である。この現象が発生した原因の追求こそが、歴史学と考古学の最終目的なのである。もしもこのような現象の存在を認め、そしてこの現象の生まれた根本要因を認めるならば、さらに一歩進んで、過去に存在したいわゆる中国歴史の大統一的概念を捨てなければならない。中華文明の一致性を考えるならば、地域文明の特殊性をも考慮しなければならないのである。固定化した理論的枠組みでもって中国の歴史を研究するのではなく、現在の様々な研究の合理的な部分を採択し、優れた点に従って真理を追求するのである。本論文は、この分野について最初の試みであり、錯誤を免れ得ない。願わくは広く中国内外から御叱正を賜りたい所存である。
『古代文化談叢』第33号pp. 223〜245.
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参考書籍
★中国の考古学
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