古代国家の形成

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古代国家の形成 2007.11.15更新 

オンライン講座概要 講師:植木 武 共立女子短期大学 教授  
前書き: 広く人類学を見渡すと、3つの最重要テーマがある。ここでは、その中のひとつ「国家の発生・形成」問題について解説したい。このテーマは、1950年代にアメリカ文化人類学者により取り上げられてから、古代文明の起源や形成モデルの研究テーマとして、勢力的に推進されてきた。経時的に社会変化を、マクロ視点に立ち文化発展段階から眺めると、サーヴィス(1962)が解説した、バンド社会、部族社会、首長制社会、国家という見方が最も解り易い。当初は、文化人類学者により「国家の発生」問題として取り上げられたが、後に考古学者は、自分の発掘している文化は国家なのか首長制社会なのか、あるいは、部族なのかバンドなのか、という関心を持つようになり、現在では主として考古学者の手によって研究が進められている。

古代国家の形成

広く人類学

 広く人類学を見渡すと、3つの最重要テーマがある。ここでは、その中のひとつ「国家の発生・形成」問題について解説したい。このテーマは、1950年代にアメリカ文化人類学者により取り上げられてから、古代文明の起源や形成モデルの研究テーマとして、勢力的に推進されてきた。経時的に社会変化を、マクロ視点に立ち文化発展段階から眺めると、サーヴィス(1962)が解説した、バンド社会、部族社会、首長制社会、国家という見方が最も解り易い。当初は、文化人類学者により「国家の発生」問題として取り上げられたが、後に考古学者は、自分の発掘している文化は国家なのか首長制社会なのか、あるいは、部族なのかバンドなのか、という関心を持つようになり、現在では主として考古学者の手によって研究が進められている。
ここで考察する国家とは、現在、国際連合に加盟しているような近代国家ではなく、過去において存在し、現在では消滅してしまった古代国家、つまり、初期国家(early states)を対象としている。その典型例は、人類史上最初であり、絢爛豪華な国家を築いたエジプト文明である。それに続くメソポタミア文明、インダス文明、黄河文明、マヤ文明、インカ文明等が、初期国家の典型であるが、それ以外にも、国家レヴェルの政治体系を整備した政体が、世界のそれぞれの地に出現し消滅したわけである。日本に限れば、研究者により意見は分かれるが、著者などは、邪馬台国をもって初期国家の誕生と考えている。
国家と並んで文明社会という概念がある。文明(civilization)とは、高度に発達した農耕または牧畜という生業を基盤にもち、都市と呼べるセンターを有し、そこに存在する中央政府が行政を司り、身分階級や職業の分化を発達させ、社会が明瞭に階層化し、非常に高度に発展した文化を、意味する。本来、政体を意味する国家と、文化を高度に発達した文明とは別個の概念であるはずなのに、欧米ではほとんど両者を互換的に使用してきたという過去がある。それに都市(urban centers)という言葉もほぼ同義語として加わり、それ故に、その後に続く研究者達に混乱を生じてしまった、という歴史がある。
「国家の発生・形成」問題は、研究者自身の認識・判断のもと、文化の継続的・質的変化を大きく段階的にとらえ、文化進化階梯の視点から研究が進められてきた。というのも、この文化進化論的観点から見ると、文化発展のプロセスが明解・容易に理解できるからである。著者は同じ視点に立ち、日本の旧石器時代をバンド、縄文時代をトライブ(部族集団)、弥生時代を首長制社会、古墳時代を初期国家、飛鳥時代を律令国家(エムパイア)と論じたことがある。それでは、ここに初期国家の定義を述べてみよう。

   初期国家

 

初期国家とは、一義的には、明瞭な領土の上に立法・司法・行政・祭祀・軍事等を掌握する中央政府を有する独立した政体である。
二義的定義として、その内容について触れるなら、次のようになる。初期国家とは、首長制社会を超えて国家のレヴェルまで複合化(複雑化)が進んだ社会で、通常、その頂点に立つ国王/女王と彼/彼女の親族から、貴族、司祭者、戦士、工芸職人、商人、農民等、ときには奴隷グループまでを含む臣民/国民が、ハイアラーキカルに並ぶ数層(3階級以上)の社会階級(層)をもつ社会である。
時には、国王が聖職者の役割を果たす神聖王権国家もある。世襲制によりその地位を確約されている国王/女王を中心とする中央政府は、習慣や伝統を基に法体系を整え、それぞれの法律を施行するわけだが、違反者には死刑を含めた各種の罰則がある。国民は、国王からその身の安全を保障される代わりに、物納、ときには金納を含める税金の徴収を受け、他にも、徴兵されたり、道路や河川の、あるいは城壁等の土木工事に労働奉仕を強制されることがある。国土は広大なため、国王/女王がひとりで隅々まで統治することは不可能ゆえ、そこで、親族や貴族たちが責任をもついくつかの大管区(省・県・郡等)に分け、それらを更に小管区(リージョン・ディストリクト・村等)に分け、つまり、複数レヴェルに行政区を分割して統治した。行政の仕事には膨大なものがあり、とても王とその親族だけで遂行できるものではなく、ここに、専従の役人階級である官僚クラスの発達がみられる。国の中心は、国王/女王とその親族、貴族達が住む宮殿(ローヤル・パレス)が立地するアーバンセンター(都市)で、人口数(ときには数万)も多く、人口密度も高く、ここが政治と経済の中心となる。
都市に住む多くの住民は直接食糧生産に従事しないので、その都市周辺の田園部に住む農民とか、あるいは海浜・河川地域に住む漁撈民とか、山麓で家畜を飼育する牧畜民が食糧生産の任をとる。そこで都市部には、国王/女王や貴族たちとは別に、農業・漁撈・牧畜生産から切り離された、専従の彫刻家、画家、鍛冶屋、そして冶金術師等の専門家が居住する。アーバンセンターと農村部、あるいは、アーバンセンターとアーバンセンター間との商品売買で活躍するマーチャント(商人)も出現した。隣国との戦闘に必要となる、また、国内の叛乱にも目を光らせる、ポリス的色彩の濃い軍隊の存在も必然であった。
以上の定義は、国家でも最高レヴェルに発達したエジプトとかメソポタミア文明の、しかもその絶頂期に観察された特徴であり、これらすべてを有していなければ国家と呼べないと、言っているわけではない。以上のだいたいの特徴を含んでいれば、一応、「国家」と呼んでも差し支えないと、考えてもらえたら良いであろう。
そこで、次に日本の初期国家の発生問題を論述したい。解り易くするために、ここでは俗に言われる「七・五・三理論」を紹介する。初期国家とは何か、という厳密な教育を受けていない日本の古墳研究者たちは、ほとんどの方々がこの問題を真剣に考えていない。しかし、ごく一部であるが関心を持つ古墳研究者たちがいる一方、多くの古代歴史家は、このテーマに関心を寄せてきた。「七・五・三」とは、それぞれ世紀を意味しており、3世紀に初期国家が発生したと主張する研究者が少数いる。上述したごとく筆者自身もそのひとりであるが、邪馬台国の出現をもって、日本における初期国家の出現と考える見解である。7世紀をもって初期国家の出現と考えるのは、古代歴史家に多く、その考え方に同調する考古学者も多い。5世紀をもって初期国家の出現と考えるのは、関西の古墳研究家に多い。5世紀は、古墳時代の中期にあたり、古墳や古墳時代の集落址が北は青森県まで拡散した時代で、その頃をもって初期国家の誕生と想定する見方である。
「魏志倭人伝」に書かれていることが前提となるが、西暦3世紀の中頃に、女王卑弥呼を擁する邪馬台国が、周辺の約30ヵ国(クニ)と連携を組み、秩序・安寧をもたらしていた。なにしろ、それ以前の男王のときは、70〜80年にわたり争い・戦闘が続いたわけで、ところが卑弥呼を擁立すると戦乱が収まった。九州一帯であったか、畿内を中心に西日本全体であったかは議論の余地は残るが、邪馬台国と他のクニとの間において双方向のネットワーク圏が確立され、これをもって日本における最初の初期国家の形成をみたと、筆者は考えている。
古代史家を中心に7世紀に初期国家が成立したという考え方は、明らかに矛盾が生じる。7世紀は、既に天皇が行政を行っており、更に天皇に実権を握らせるため大化改新があり、それに続く数代の天皇は、近江令、浄御原令、そして、中国の刑法をそのまま真似た大宝律令(701年)、養老律令(718年)と、次々に法令を制定していった。つまり、この時代はいよいよ天皇に権力の集中化が進んだ時代であった。やはり、この7世紀は天皇を中心とした律令国家体制への確立期と考えるべきで、従って初期国家の誕生はそれ以前となる。あえて言うなら、7世紀の日本はインカ帝国と比肩できる、エンパイア形成期であったと思う。これ以上はスペースの都合で解説を継続できないが、詳細は参考文献を参照して欲しい。

参考文献

  

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