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敦煌芸術総論 2008.10.11更新
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歴史上の″絲綱之路″シルクロードは、東は中国長安に始まり、西はローマに至る。ヨーロッパ、アジア大陸を横断して万里に続き、中国と西方とを結んで、経済、文化の往来する″大運河″であった。敦煌は、中国西部の大砂漠地帯の端に位置し、早くも漢代には″河西四郡之一″と称されていた。中原から西域への出入口であり、またシルクロード上の重要な合流点であり、中継点でもあった。中華の文明はこの地を通って西方へ伝わり、また西方の文明もこの地を通って中原へもたらされたのである。永い時間を経たこれらの文化交流は、中国の文化の発展に大きな役割を果たした。とりわけインドからもたらされた仏教文化は、中国、朝鮮半島、日本、さらには東南アジアの地域の宗教、哲学、芸術、音楽、舞踊などに極めて大きな影響をおよばした。敦煌においても、 一千年におよぶ中国、インドの文化交流が、こんにちの私たちに貴重な文化遺産をのこすこととなった。それが、世界に有名な敦煌石窟芸術なのである。参考資料
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敦煌石窟とは
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敦煌石窟とは、莫高窟を主体とし、敦煌西千仏洞、安西楡林窟など数カ所の石窟を含んだ石窟群を言い、全体の合計で約570の洞窟が現存している。その中でも莫高窟の規模が最大で、保存の状態もよく、現在492の洞窟が知られている。
このように莫高窟を主体とする敦煌石窟芸術は、四世紀に始まって十四十世紀に至るまでの約千年間、十六国時代の最初の洞窟開鑿をかわきりに、隋唐の隆盛を経て、五代、宋には隋唐の余韻をとどめながら、やがて清代に衰退するまで、わずかに明代を除いて、ほぼ歴代を通して生み出され続けたものなのである。現存する塑像は三千体近くあり、壁画は五万平方メ―トルに及ぶ。その規模はまさに世界最大の砂漠の宝庫と呼ぶにふさわしいものである。しかもこの宝庫はただ古い宝物を閉じこめておくためだけのものではなかった。今世紀の初頭、蔵経洞(現在の莫高窟第十七窟)から総数五万件に及ぶ古代の写本と帛画(はくが絹絵)等の発見があり、これによって国際的な新しい学問領域″敦煌学″も生まれたのであった。
敦煌石窟芸術は、中国の伝統芸術、西域の芸術と外来の芸術、とくにインドの仏教芸術、これらが融合し、建築と彩塑(彩色を施した塑像)、壁画とが結合した立体的な芸術である。多種類の形式の窟室内の建築や木造の殿堂式窟檐(くつえん=石窟前面につくり出した木造の廊建築)は、その窟内に躍動感に満ちた彩塑と内容豊かで色彩鮮やかな壁画が加えられて、 一体としての芸術性を生み出している。
石窟内の壁画や彩塑のほか、蔵経洞発見の文物を含む敦煌芸術は、建築、彫塑、壁画、帛画及び紙本画、版画、工芸、書、音楽、舞踏など多方面の芸術領域を内包した、 一種の総合芸術群なのである。
敦煌芸術は、仏教思想を宣伝するための芸術であったが、同時にシルクロードを通った多くの地域の人びとが永い間に生み出した経済、文化の交流の産物であり、結晶であった。
敦煌芸術には二つの部分が見られる。 一つは敦煌の地元で生み出され敦煌独自の特色をそなえた芸術である。もう一つの部分は中原あるいは西域からもたらされた芸術である。したがって、敦煌芸術も時期によってはその時の中国芸術を代表していたと言うことができるのである。 ‐
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一、建築
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(一)石窟そのものが立体空間としての建築――すなわち、使用目的の違いによって禅窟、中心柱窟、殿堂窟、そして塔などの形式がある。
(二)木造の建築――現存するものとしては、唐、五代、北宋の殿堂式窟檐が多い。
(三)壁画に描かれた建築。これは内容的に非常に豊富で、宮殿、寺院、城と壕、民家、茅屋の家並、旅館等々が見られる。
これら三者を結合すれば、 一編の敦煌建築史ができあがる。
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二、彩塑(塑像)
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(一)石窟そのものが立体空間としての建築――すなわち、使用目的の違いによって禅窟、中心柱窟、殿堂窟、そして塔などの形式がある。
(二)木造の建築――現存するものとしては、唐、五代、北宋の殿堂式窟檐が多い。
(三)壁画に描かれた建築。これは内容的に非常に豊富で、宮殿、寺院、城と壕、民家、茅屋の家並、旅館等々が見られる。
これら三者を結合すれば、 一編の敦煌建築史ができあがる。
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三、壁画
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壁画は敦煌芸術の中でももっとも内容が豊富である。おおよそ七つの内容に分類できる。
(一)尊像画――仏、菩薩等の神聖な姿を描いたもの。時には説法図中に表され、また時には単独で表される。仏教の経典では、仏菩薩は男性像として表されるが、中国では女性の美しさとその穏和な性格に対する愛慕の念、とりわけ母性に対する崇敬の念から、菩薩が女性像に変化を遂げた。唐代には画師たちは宮廷の女性をイメージしながら菩薩像を描いた。そこには慈悲深く、優しく、しかもあでやかな女性美が表現されている。
(二)故事画(説話図)――これは、仏教経典に記された故事(説話)を題材として制作された連続画のことである。故事はいずれも内容に富み、物語の完結性がしっかりしたものである。その大部分は因果応報の思想に貫かれている。ただし故事の内容には傾向の違いがあるので、さらにこれを仏伝故事、本生故事、因縁故事の三種類に分けることができる。
(1)仏伝故事は、釈迦牟尼の生涯における種々の事蹟を描写した物語である。 一般には乗象入胎と出家臨城という二つの代表的な場面のみが表されるが、北朝期の仏伝故事では、横長の区画六帯を並列させ、八〇以上の場面を描いたものがある。その画風には南朝絵画の影響が認められる。また五代時代の仏伝故事では、屏風形式で、全部で33扇を運ね、画面の内容を自由に交錯させながら130に及ぶ場面を連続させるものがある。その表現は、仏伝の内容こそ経典に拠りながらも、人物の形象、衣冠服飾、儀礼制度、風俗習慣、建築形式等々、いずれにおいても徹底した中国的内容を示しており、これは現存する仏教伝記の連続画としては世界的にも最も内容豊かで、かつ完全な保存状態の作品である。
(2)本生故事は、釈迦が前世において行ってきた様々な善行についての物語である。その主なものとしては、薩埵(サッタ)太子本生(捨身飼虎)、尸毘(シビ)王本生、月光王本生、シュヤーマ本生、九色鹿本生、スダーナ太子本生などがある。これらはいま宗教的な内容とされてはいるが、インドにおける民間説話の色彩をなお色濃くとどめるものである。
(3)因縁故事は仏が救済した衆生に関する様々な物語である。これには須暦提女因縁、難陀出家因縁、波斯匿王女金剛因縁、釈迦五指化獅子降悪牛因縁などがある。内容はいかにも不可思議であり、ストーリーは込み入って非常に劇的で、敦煌の壁画の中でもとくに人びとを引きつけるものがある。
(三)神話画――これは中国の伝統的な神話に題材をとったもので、北魏晩期に登場した。すなわち東王公、西工母、伏義、女禍、青龍、白虎、朱雀、玄武、さらには風神、雷神など漢晋以来の伝統的な道教の神仙思想による神話の内容を表現したものである。道教の題材が仏教の石窟寺院に入り込んで来るという現象は、けっして偶然に起きたものではない。これは仏教が中国へもたらされて後、中国の北方地域に流行した仏教の禅定思想と道家の″虚静思想″とが互いに結合したことの反映であり、仏教思想とその芸術が中国化していく過程で現れた表現である。
(四)経変画(変相図)――これは、ある特定の経典に拠って描かれた壁画で、まず隋代に、簡単な構成の各種の経変画が始められた。そして唐代には盛んに行われるようになり、すべての洞窟で大型の経変画が中心を占めるようになったが、ウイグル、西夏の時代には下火となった。主要な経変としては、維摩詰経変、阿弥陀経変、法華経変、観無量寿経変、弥助経変、薬師経変、宝雨経変、報恩経変など20余種がある。 一つ一つの経変は多くの物語内容を含んでいる。例えば維摩経変は、文殊問疾の場面を中心に維摩居士の神通変化の有り様を展開し、当時の中国の帝王の出行と各国王子使者の赴会の場面が表されている。法華経変では、火宅喩、窮子喩、化城喩等の哲学的内容が、いずれもいきいきと具体性をもった画面に表されている。とくに化城喩は、珍宝を求めて尋ね行く一群の人びとを秀麗な山水草木の景色の中に描き込んでいる。人びとの姿と景色とが融合して、深淵な意味をたたえた芸術的境地をつくり出している。
(五)仏教史述画――仏教典籍の記載をもとに描かれたもので、仏教における聖なる出来事を描いたもの、高僧の事蹟を描いたもの、戒律画、瑞像画などがある。これらいずれも歴史上の人物、歴史的な事件を内容としながら、同時に虚構の物語性も兼ねそなえ、宗教的な幻想性に富んでいる。例えば張籍出使西域図(第二二三窟北壁、初唐)では、漢時代の張騫(?~前一一四)の西域への遠征は歴史上の事実であるけれど、画面の榜題に記されるような、張騫を″大夏国″へ遣わして仏の名を問わせたという内容は事実ではない。また仏図澄浣腸の物語(第二二三窟北壁)は、西域僧の仏図澄(233~348)の協の下には穴が開いており、栓をしてこれをふさぎ、また栓をはずせばそこから光明が発して四方を照らしたというのである。仏図澄は毎口川へ行って栓をはずして腸を取り出して洗い、洗い終わればまた元へ戻したという。これなどは完全な宗教神話であるが、これらの物語の多くは中国において作られたもので、また西域やインドから伝えられたものも含まれている。 ‐
(六)供養者像――これは開窟造像のための出資をした施主の功徳像で、肖像画に属すべきものである。ブッダのための供養者たらんとする本来の意味からすれば、似ている似ていないは求めるべきものではなく、求めるものはただ敬虔な心であった。そのため、供養者像は往々にして千人一面、皆同じ姿で表されたのであった。ただ、唐宋時代の供養者像は、写実的で個性をそなえており、敦煌一千年の供養者像の中ではとくに優れている。描かれる内容は、王侯大臣、地方官吏、貴族婦女、各民族の施主、歌舞・伎楽の供養者、官私の奴婢などで、像の大きさは小さいもので20~30センチ、大きいもので等身からそれを超えるものまである。これら大型のものはいずれも名のある実在の人物の肖像であった。例えば張議潮出行図(第一五六篇、晩唐)は、まさに歴史上の人物の物語性に富んだ画像であり、 一定の視点から歴史的な内容を表現したものである。
(七)装飾意匠――これには一種の建築装飾として、藻井(そうせい=天井が方形の小さい枠になっていて、一枠ごとに絵や文様が描かれているもの)、平天井などがあり、また円光(仏像の光背、画中の宝座、テーブルクロス、冠服、器物などがある。これらを彩る文様には時代ごとの変化が見られるが、おおよそ植物文(蓮華、忍冬、山茶花、葡萄、石榴など)、動物文(青龍、白虎、有翼の獅子、天馬、麒麟、駆ける兎、鳳凰、雁など)、幾何学文(円環連珠文、稜文、格子文、垂角文など)、天象文(日月、星座、雲彩、天花など)、人物文(仏像、力士、飛天など)に分けることができる。多くの文様は変化を遂げ、しかも忍冬文と蓮華文、あるいは動物文と植物文というように互いに結合し合って、画師たちが高い想像力を発揮している場合もある。
以上七種類の内容の壁画はそれぞれに特色があるわけだが、これらは洞窟内の大きな構成の中の一部分であり、互いに他と融合し統一されているのである。
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四、帛画(絹絵)及び紙本画
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蔵経洞から発見されたもので、総数は大小合わせて一千近くにのぼる。隋代から北宋時代のものまであり、とくに晩唐から五代の帰義軍節度使時代にかけてのものがもっとも多い。内容としては、各種の如来像、菩薩像、天王像、力士像があり、また説法図や経変画(変相図)もある。これらの題材は同じ時期の壁画とまったく共通のものである。そのうちいくつかには、紀年銘と傍題が付されてある。また中には経変文と連結されているものもある。例えば労度叉(ロードラークシャ)闘聖変図は、横長の画巻で、 一面に絵を配し、その裏側には経変文が記されて、絵と文とが結合し互いの効果を高める仕組みになっている。すなわちこの種の絵は多くの場敦煌伎楽天、伎楽飛天、浄上世界の舞楽天などが、髻を結って宝冠をつけ、半裸に裙を纏い、頭光を負うという菩薩の姿に表される。彼らの持つ楽器、楽人と舞伎の編成などは、隋唐の九部楽、十部楽と似ている。第二二〇窟薬師浄土変に描かれた燃灯舞、阿弥陀浄土変に描かれた対舞、これらはともに豪華壮麗な天国の楽である。俗楽は、供養者列画像中の楽隊、結婚儀式の場面での楽舞、そして出行図中の鼓吹営伎や雑伎・清商楽など、人物はいずれも普通の身なりであり、規模も小さく、酒店で芸を売る者もある。彼らはわずかに一楽一舞のみを見せるのであり、時には自ら楽器を弾き自ら舞う者もある。
敦煌楽もまた西涼の楽であり、亀茲楽に改編を加えて成立したものである。この改編とは河西に流行していた中原の古楽を取り入れたものである。壁画に描かれた楽器を見ると、唐代の20種類の楽器はほとんど大部分が西涼楽の楽器である。そのうちの多くは西域各民族の楽器で、各種の鼓、五弦などがある。その次に多いのは中原の古楽以来の楽器で、筝(そう)、簫(しょう)、方響、笙(しょう)、阮咸(げんかん)などである。や琵琶といった外来の楽器は少ない。敦煌楽は、西北民族の音楽と外来の音楽とを大量に吸収し、それらを融合して感情豊かな新しい響きを創り出したものである。舞踏もこれと同様で、多くは腕を振るい足を投げ出し、縦横に飛び跳ねる胡舞に属するもので、いくつかの・変相図や出行図においてのみ緩やかで調和のとれた中原の伝統的な舞船を・見ることができる。このような新しい音楽と新しい舞踏は、唐朝の高揚期における活気にあふれた時代精神を反映したものなのである。
このように、敦煌芸術という宝庫は内容が極めて豊富である。かつてフランス人は敦煌壁画を″壁上の図書館″とも称した。それは中国の十六国時代から宋元に至る千年間の各民族、各階層の人物とその活動ぶりを、いきいきとした描写によって映し出している。しかし、宗教芸術は世俗芸術と完全に一致するとは限らない。実際の作品から見ると、敦煌壁画は三種類の方法を通して現実世界を反映していることが判る。
(一)直接的反映――例えば供養者像は、当時の名のある功徳主の肖像である。なかでも張議潮夫妻、張淮深夫妻、曹議金夫妻など、彼らはいずれも著名な歴史上の人物である。張議潮出行図は、単に歴史的人物と歴史的事件の反映であるばかりでなく、民族の英雄に対する歌頌でもあるのだ。
(二)間接的反映――すなわち仏教説話や経変中に描写される世俗生活を通して現実世界を反映することをさす。例えば弥勒変相の嫁娶図は、男子は妻を要り女子は他に嫁して婚礼の儀式を行う場面を描写したもので、まさに唐代の習俗を反映している。しかし、もし″弥勒之世、女人五百歳始出嫁(女人は五百歳で初めて嫁ぐ)”という経文が経典の中になければ、弥勒変相図に嫁要図は登場し得ない。また、耕穫図は唐代の農業生産の一連の過程を描写したものだが、これも経典中に″弥勒之世、 一種七収全粒の種で七度の収穫を得るアの語がなければ、この図もまた表現されることはなかった。さらに維摩変相における帝王図と各国王子使者図は、当時のいかなる帝王の画像でもないにもかかわらず、しかしいずれも当時の現実の歴史背景と関係がある。例えば第二三〇窟の貞観十六年(六四二)の帝王図(図版26参照)では、帝王、随臣、各族首領の形象は、唐初の冠幅制度と唐の太宗の巡幸時における″各族君長咸従(みなしたがう)という規定と一致するものである。まちがいなく現実を反映しているが、しかし経変の主題の思想的必要と経文とによって描かれたものである。この種の例はいずれも同様である。
(三)屈折的反映――例えば西方浄土変では、幻想的な極楽世界を描写するが、ここにいる仏菩薩や天人は頭上に頭光を負い、足の下には蓮華が表されていて、彼らが蓮華から化生した神であることを象徴している。経典によれば、阿弥陀は極楽世界の最高の統治者であり、それは現世における帝王に相当する。観音、勢至の両大菩薩は、経変の中では、宰相になり、また菩薩を十地に分けるのも、すなわち十の等級ということである。経変に表される大小の菩薩は、いずれも等級に従って描かれているのである。現世の封建的な等級制度が、仏国世界にも表されている。現世の者が極楽世界へ行きたいと望むなら、そこには三輩九品の制があって、等級は一層厳格である。上、中、下の三輩(輩は類のこと)があって、輩にはまたそれぞれ上品、中品、下品の等級がある。経典ではこの等級による往生を九品往生とか九品来迎などと呼んでいる。そのうち上品上生と上品中生とには、多くは僧侶、帝王、貴族が入る。彼らは毎日念仏を歌え仏を奉り、仏像や仏画の制作に出資するので、功徳は最も大きく、死に臨んでは阿弥陀自らが諸衆を率いて来迎し、極楽世界へ行くことができる。そして蓮華の花に化生して菩薩となり、またただちに仏にまみえることができる。 一方下品下生には、 一般庶民、愚人人、悪事をはたらいた人などが入る。彼らは地獄へ落ちてもろもろの苦しみを受けるべき者たちだが、臨終に際してそれでも仏の名号を唱えれば、八〇億劫の生死の罰を受けた後、ようやく浄土に往生できるという。このように、いずれも現世における等級制度の屈折した反映なのである。
敦燥芸術はまさに歴史の鏡である。
仏教芸術はインドに発生し、他の地域へ伝えられた。しかしそれはすべての地域でみな変化している。ガンダーラ様式、グプタ様式、バーミヤン様式、キジル様式、ホータン様式、高昌様式等々。題材、内容、規則は基本的に同じであるが、造型性、服飾の内容、肉体のポーズの取り方、仏菩薩の顔の表情などに多くの違いが生まれた。とくに高昌や敦煌といった地域へ入ってからの変化は一層大きなものがある。
まず訳経や仏教に対する理解の上では、ブッダは黄帝や老子と同じようなものと見られていた。魏晋南北朝以来、仏教は道家や儒家の思想観念と互いに結合した。江南仏教の祖とされる康僧会(?~二八〇)は、三国時代の早い時期でありながらすでに仏道儒三家を一体のものとして混ぜ合わせていた。本生故事の中には、忠君孝親の思想が出現している。極楽世界においても倫理道徳の観念が充満しているのである。これは仏教芸術の中国化における重要な方向の一つである。
次に表現形式においては、敦煌芸術は漢晋の芸術伝統を十分に継承し発展させた。すなわち、はじめは現実と想像を結合する創作の方法であった。現実世界を素材の源とし、創作の出発点をすべて仏において、″万類由心″自分の心から創り出す過程を経て、その後に民族形式の中から表現するのである。ここでいう民族形式とは、線描の造形、想像的な組合せ、複数の視点からの透視法、装飾構成、随色象類・以形写神(色に従って対象を形づくること、形をもって対象の本質を写しとること)の考えである。しかし、単に伝統に拠っていただけでは新しい創造は困難である。そのため古代の敦煌の優秀な二人たちは、大胆外来芸術を吸収した。例えば人体の構造に関する知識、人体の美しさの表現、凹凸法などを参考にし、融合させ、古くからの伝統芸術に新たな血を注ぎ込んだ。これによって人と神との結合した大量の形象と、優美な芸術的境地とを創造したのである。新たな民族的様式を創造したのである。
敦煌芸術は、豊富な内容と壮大な規模とによって全世界の注目をあつめ、世界の文明の宝庫の中でもひときわ強く光り輝く一個の珠五となっている。 一九六一年、敦煌石篇は中国政府により″全国重点文物保護単位″に指定され、国家による保護の措置がとられるようになった。そして一九八七年には、 ユネスコによる″世界遺産″の指定を受けた。敦煌芸術は、まさに永遠不滅の魅力によっていまも人類文明の発展に多大の貢献をなしているのである。
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