黄河文明

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黄河文明(第ニ部) 2008.10.25更新

オンライン講座概要 講師:雷従雲

出所:黄河文明展

前書き: 歴史が悠久で国上の広大な中国は,燦爛と輝く古代文化を持っている.中国の北半分に位置する黄河流域は,中国文明の揺藍の地である.太古から今日まで,黄河は奔流してやまず, この流れに育まれた偉大な文明は光り輝いている.参考資料

4.燦爛たる商周文明

 

紀元前17世紀,黄河下流域に興った商部族は,湯の指揮のもと,ほかの多くの部族と連合して夏の支配者桀を打ち破り,商朝を建てた.湯が夏を滅ばしてから,紀元前11世紀に商朝が滅びるまで,17世,31王,約600年間続いた.
商は「邦畿千里」の王朝であり,活動の範囲とその影響下の地域は相当広い。考古学者は万里の長城内外, 五嶺(湖南,江西南部と広西,広東北部の境にある五つの山)以北,東は山東,西は黄河上流までの地域で,商文化遺跡や遺物を発見した。特に幾つかの商代の城址遺跡と安陽殷墟の大規模な発掘は,われわれに商代文明に対する全面的な認識を持たせたのである.
商代前期の城址については,近年河南省偃師県尸郷溝で重要な発見があった.考古学調査と発掘の結果,城址の平面はほぼ長方形を呈し,南壁はすでに洛河に押し流されてないが,ほかの三面の城壁はほぼ完全に残っていた.東西1,200メートル,南北1,700メートル.壁は全部版築で築かれ,基部の厚さは約18メートル,残部の高さ1×2メートル.城門七つと縦横に交差する数条の大道が見つかった。大型建築基礎跡が三カ所発見された。そのうち最大のものは縦横各200メートル,四月を厚さ3メートルの版築の塀に囲まれている。その塀内中央部に縦横数十メートルの宮殿の基壇跡がある。この商代前期の城址について,ある学者は商王湯が都した「西亳」ではないかと考えている.
早くも50年代に調査と発掘が何度もくり返された鄭州商代遺址は,面積25平方キロで,文化層の堆積が厚い.遺跡中央部で発見された商代城址の規模は大きく,城壁の長さは7キロに達し,平面はほぼ長方形で,城壁基底の幅は平均20メートル, 内側あるいは内外両側に護城坡」と呼ばれる版築の部分がつく(主体の壁をつき回めるための横板を外側から支える土盛りも版築で作られる。この外側の傾斜した壁を護城坡という).3千年余の風雨の侵蝕と世の治乱興亡を経てきたが,今なお鄭州市内で地表から8,9メートルもそびえ立った城壁の名残りを見ることができる。当時の版築による城壁の堅牢さがわかる.城壁内には大きな宮殿の基礎跡があり,城壁外にはいろいろな手工業の作業場の遺跡と住居跡がある.近年来,青銅器の出土が絶えず,刻辞の卜骨も発見されている.1974年と1982年にこの遺跡から発見された商代中期の窖蔵(穴倉)出土の青銅祭器のうち,獣面乳釘文銅方鼎と円鼎は形態が巨大で,造形が雄渾である。獣面文銅卣・銅尊・銅罍は作りが優美で,文様は華麗である。これらは商王室の宝器に違いない。この商代中期の重要な都邑は商王仲丁の建てた傲都であるかもしれない.
河南省安陽市西北の遠くない所,小屯を中心とし,洹河両岸地区を含めて,東西約6キロ,南北約4キロの地域に,広大な商代文化遺跡がある。ここが内外に名高い商代後期の都城遺跡--殷墟である.この一帯は商代晩期に「北蒙」とも,「殷」とも呼ばれた。紀元前14世紀, 商王盤庚がここに遷都して,殷紂王が滅ばされるまで, 273年続いた。周が殷を滅ばしてからは, ここはしだいに荒れ,一面の廃墟となった。そこで司馬遷(漢代『史記』の著者)はここを「殷墟」と呼んだのである.
殷墟では北宋以来絶えず重要な文物が出土してきた。半世紀以来, ここにおいて数十回の大規模な発掘が行われ,大型の宮殿と宗廟の遺跡・巨大な王陵と貴族の墓地が調査された.普遍的に存在した人を殺して殉葬する風習と人身供犠の現象が発見され, また大量の灰坑(窖穴)と多くの手工業作業場遺構も発見された。見事な青銅器・玉器・陶器・甲骨卜辞を含めて,出土した大量の遺物は当時の高度な文明を反映している.
農業は商代の主要な産業であり,農具にはすでに多くの青銅農具があった.当然大量の木器・石器・骨器・蚌(貝製の)器もあった.農業労働では大規模な単純協同作業が採られた。まさに甲骨文にいう「衆脅(協)田」のやり方で耕作したのである。栽培された穀物は禾(あわ)・黍・稷・麦・稲など多種あった。農作業のほか, 人々は馬・牛・羊・豚・犬・鶏などの家畜を飼った。中国の古代農業経済の「五穀」(稲黍稷麦豆)を植え「六畜」(牛馬羊豚鶏犬)を飼うという伝統は,商代にすでに定まっていたのである.
商代の手工業はたいへん発達していた。各種手工業,鋳銅・陶器製造・骨器製作などでは専門の作業場が設けられ,その内部でははっきりと分業が行われていた。青銅精錬鋳造業は商代手工業が達成した最高の成果である.河南の鄭州や安陽などで規模のかなり大きな鋳銅作業場遺跡が発見され,王畿から遠く離れた方国でも, 自国の鋳銅の場所を持っていた。
黄河流域で発見された商代青銅器は1万点を下らない。青銅器の種類は多いが,主には王室・貴族が使用するための祭器で,ついで戦争に使う武器,そして生産工具である。よく見られる青銅祭器には炊器,食器, 酒器があり, 鼎・鬲・甗・簋・彝・卣など20余種みられる.これらの青銅器は大きさ,様式はさまざまだが,造形は生き生きとし,製作は精緻である.銅器上の文様には,獣面文・鳥文・蝉文・蕉葉文・鹿頭文・牛頭文・雲雷文などがあり,文様は細密で繁褥,華麗で荘厳,独特の民族的風格をもち,世界の青銅器文化のなかの工芸技術から見ても,商代青銅器は最も精巧で,最も華麗な例である.
殷墟出土の青銅器は最も数が多く,水準も最高である.
「司母戊」方鼎は重さ875キロ,高さ1.33メートルで,豊富な精煉鋳造の経験と発達した工芸技術がなければ, これほど大きな器を鋳造することは考えられない.1976年小屯西北で商王武丁の配偶者婦好の墓が発掘されたが,副葬品の中には青銅器468点があり,形態を見分けることができる青銅祭器は21種217点あった。「司母辛」銅方鼎,「婦好」扁足銅方鼎・「司母辛」銅兕觥・「婦好」銅鴞尊・獣面文銅壷は,造形が雄大奇抜で,文様装飾は華麗で繁褥,商代青銅器中の精華である。婦好墓は保存状態も完全で,このほかの副葬品も非常に豊富であり,殷墟で発掘された王室の成員の陵墓のうち唯一完全無欠のものである。甲骨卜辞に記されたところによれば,墓の被葬者婦好は重要な祭祀行事を司り,またしばしば軍隊を率いて夷方・土方・羌方・吉方・巴方などの部族を征伐しており,武丁時期に権勢をふるった重要人物であった.ある1片の甲骨ト辞に「辛巳卜,貞,登婦好三千,登旅万,乎伐〔羌〕」と刻字があり,婦好が羌方征伐の1度の戦役で, 自ら13,000人の大部隊を率いたことを述べている。これは今のところ商代において1回の征戦のうち用兵の最も多い例である.この3千年前の王妃,婦好が戦争に強く,風雲を叱咤する統帥者であったとは,驚くべきことである.
絹織物・玉彫刻・象牙彫刻・漆工芸といった古代中国の多くの伝統手工業が商代すでにかなりの程度発展していたことは,殷墟での発見によってよくわかる.
製陶業においては,高嶺土(カオリン)を使って製作した白陶は白く艶があり,彫りが美しい.酸化ケイ素を釉薬とする灰釉の器は胎土が硬く,吸水性が弱く,表面にガラス質のような光沢のある灰釉がかかり,原始的な磁器の特徴を備えている.殷墟などで出土したこの種の灰釉の器は中国青磁の先駆である。
象牙,玉石などを彫刻した芸術品と装飾品は種類が多く,工芸水準も極めて高い.婦好墓出土の玉石器は700余点あり, 小さな鳥・獣・虫・魚から大きな大理石の丸彫り,及び緑松石象嵌の象牙杯に至るまで, どれもがすこぶる高い芸術的価値を有している.
養蚕・紡績・機繊は商代すでに盛んに行なわれた.甲骨文の中に桑・蚕・絲の象形文字があり,出土物の中に実物をよくまねた玉蚕があり,絹織物の痕跡や刺繍繊物も出土している。
このほか,たくさんの漆器の残片の発見は,商代の漆工芸技術が発達していたことを示す.
中国の文字は長い発展の過程を経て,商代に成熟の段階に至った。甲骨文字は一種の成熟した文字である.殷人は祖先を崇拝するとともに,「上帝」崇拝の強い原始的な宗教観念を持っていた.このことと相俟って, 占卜術がかなり流行したのである。商代の統治者は戦争・雨の有無・祭祀から商王個人の狩猟・疾病などに至るまで事々に卜い, 上帝に吉凶の伺いをたてた。長年にわたって殷墟から出土した刻字のある甲骨片は10万片以上に達する。ここは商代後期の王室卜辞文書庫といえる.甲骨文は約5,000字あり,すでに法則性を備えた文字体系を成している。その卜辞の内容はほとんど当時の社会生活の各方面にわたっている.ト辞中に日蝕・月蝕の記録があり,鳥星,商星,大星・火星についての記載もある。
現在まで遺されてきた商代文字は,ほかに青銅器に鋳出された金文と,陶器・玉器・石器に刻まれた陶文などがある.注目に値するのは,殷墟出土の一部の器物の上に当時の墨書や朱書の文字が筆画も明晰に,筆鋒もはっきりと遺されていたことである。これは商代にもう毛筆を使っていたことを証明する。これらの漢字は漢字の最初の形であり,貴重な初期の書の芸術作品でもある.
甲骨卜辞の内容は長いもので百字を超えるものがあるので,簡牘(竹簡と木簡)やほかの素材に書いたり刻んだりした文章はもっと長かったであろう。周人が「先の殷には冊と典とがあった」(冊も典も木簡竹簡の文書のこと)というのは当然根拠がある.
今は亡き著名な考古学者夏鼐先生は,中国文明の起源の問題に言及してこう述べた。「商文明の高い水準をもっともよく代表している特色は,発達した青銅鋳造の技術と銅器上の装飾文様,甲骨文字の構造と特色,陶器の形状と文様,玉器の製作と装飾文様などである.これらはみな個性と独特の風格と特徴を備えている。これによって中国文明は独自に発生し発展してきたのであり,外来のものでないことを証明することができる。」「商代殷墟文化はまことに光り輝く文明である」(『中国文明的起源』).
約紀元前11世紀末,周人は殷人の支配に取って代わった。周は商を滅ぼす前,商朝の西方にあった一つの強大な方国であった。近年,周の初期の政治経済の中心であった陝西省扶風県・岐山県一帯で, 重要な発見が多くあり, 西周時代の極めて重要な青銅器が出上し, 2基の大型建築基礎跡が発掘された。『詩経』緜は,周の文王の祖父古公亶父が豳(陝西省)から民を率いて漆水沮水(ともに豳の地にある川の名)を渡り,梁山を越えて岐山の下に止まり,そこに城郭を築いたという.周原(岐山の南の高原)の地下遺構には周の初期の都邑の遺跡が含まれているはずである.文王の末年に都を豊に遷し,武王は豊から鎬に遷した。紀元前1207年,武王は商を滅ばし,都を鎬京(今の陝西省長安附近)に定めた。歴史にいう西周である。
周朝は商朝より大きな勢力範囲を持ち,西周文化は自身の文化に加えて商文化を吸収した厚い基盤の上でなおいっそう栄え,中国奴隷制文明はこの段階で頂点に達した.
周人はもとから農業に努め,農業を国の基本とした。彼らは黄土が軟らかくて耕しやすい点を利用して,耕作は普通二人が組んで耒を押す方法を採って行った。これを偶耕という.実践の中で得た豊かな農業生産の経験から,輪番に土地を放置して地力を回復させる休耕制度を実行した.西用の手工業生産は,規模からいっても,技術からいっても商代の水準を超えていた。
王室は膨大な青銅器鋳造を掌握し,各諸侯国も自国の鋳造工場を持っており,各地で発見された西周青銅器の総数は商代よりもはるかに多い.
河南省洛陽出上の原始的な青磁器は,釉色がむらなく艶があり,高い工芸水準を備えている。陝西省出土の西周の瓦には板瓦と筒瓦があり,それには位置を固定するための環や釘がついている.瓦の出現と使用は,古代建築発展史上重要な意義がある.
紡織技術も明らかに進歩した。陝西省涇陽県西周墓出土の麻布残片は,糸の大さが均一で,経糸緯糸の目は緊密である.宝鶏市茄家荘西周墓出上の絹織物の圧痕は,当時辰砂などの顔料を使って着色していたことを物語る.
西周の遺された文字資料は豊富である.大量の青銅器銘文のほか,甲骨文も発見され,『尚書』『詩経』などの典籍に残っている長篇の文献と詩歌もみられる。青銅器上の銘文の内容は,当時の祭祀・征戦・賞賜・訴訟が主なものである。中には長篇の文章にまで発展したものもあり,例えば毛公鼎の銘文は497字の長きに達する。また貴重な文学作品といえるものもあり,西周の金文の書体は,丸みがあって優雄,力強く質朴で,多くは秀れた書の芸術作品である。
夏・商・西周と三代続いた1300年間,制度と伝統は踏襲されつつ,国家の規模は一代ごとに拡大し,経済文化は一代ごとに発達していった.文明時代に入った最初の段階で,黄河流域は独自の風格と創造精神を備え持ち,同時に世界文化の発展に対して創造的な貢献を果たしたのであった。
紀元前770年,周朝は都を洛邑(今の河南省洛陽)に遷した.これ以後を東周と呼ぶ.その前期を春秋(前770-前476年), 後期を戦国(前475-前221年)と呼が、この期間に中国の歴史には激烈な変革が起こり,奴隷制から封建制への転換を完成した。
春秋時代,中央王朝の統治は事実上瓦解し,強大になり始めた地方の諸侯勢力は互いに併呑しあい,大国の諸侯が覇を争うという局面が出現した。うち続く併合戦争の末,戦国時代に至って,文献に記載されたものは10余国,そのうちの大国は秦・斉・楚・燕・韓・趙・魏,即ち「戦国七雄」である。
春秋戦国時代,産業の一つの重要な特色は治鉄術の急速な発展である.考古学の発見は, 前8~7世紀即ち春秋初期,黄河流域にすでに鉄器が使用されていたこと,戦国時代に至って, 鉄器使用の範囲は拡がり, 生産工具・生活用品・武器装備に鉄製品が使用されたことを示している。鉄器が広く社会生産の領域に入り込んだことは,そこに革命的な意義が認められる。封建的生産関係の形成と生産技術の進歩は農業経済の迅速な発展をもたらし,手工業の発展及び商品と貨幣の関係の発達を促した.各諸侯国の都市が,雨後の筍の如く急に興り,商品経済は大変活発になり,科学と文化芸術は空前の繁栄を見せた。同時に社会経済の発展はまた黄河と長江流域の広大な地域の各諸侯国・各民族をいっそう結びつけ,政治・経済・文化の上で統一された多民族の封建国家はすでに胚胎していた。
鉄器時代の到来は青銅鋳造業を衰退させたわけではない。むしろ社会経済の高度成長に伴なって,春秋戦国時代の青銅鋳造業は未曽有の規模を現出した.各諸侯国に青銅精煉鋳造の大工場があり,精煉鋳造の技術は新しい進歩を見せた。黄河岸から数十キロしか離れていない山西省侯馬発見の晋国鋳銅作業場追跡は規模が大きく,陶範(陶製鋳型)3万余点,そのうち器形がわかるもの1,000点以上が出上した.このほか銅塊・鉛塊・鋳銅生産工具が少なからず発見された。この遺跡やほかの地方で出上した豊富な遺物から次のことがわかる.鋳銅の伝統的な鋳型技術は改良され,造型材料は面料と背料が広く使用されたこと.陶製鋳型鋳造は手順がさらに細かく,効率の高い型押し法による鋳型製作へと発展したこと.青銅器の各種の部分を分鋳して合体する方法は複雑な器形の鋳造工程を簡素化したこと.胎上の緻密な陶範の質の改良によって青銅器の鋳込みの技術を全般的に上質で精密なレベルに高めたこと。「王子午」銅鼎をはじめとして,河南省浙川県下寺発見の春秋後期の青銅器群は,春秋時代にすでに青銅器鋳造の「蠟型法」(蠟で作った原型から鋳型を作り,蠟をとかし流して後,溶解した金属を鋳込む方法)の新技術が発明されていたことを証明する.このほか,合金の新技術,銅器の本体と附属部分を分鋳したあと再び鋳て合体したり,鑞付け・錯留めする技術,青銅器の鎏金(金メッキ)・文様の彫刻・錯金銀(金銀の象嵌)・緑松石象嵌などの技法も発達してきた。この時代,手工業製品としての青銅芸術は商周時代と比べて新たな盛況を呈した。

青銅器物の性格が祭器から実用器に転化したことは,春秋戦国時代,青銅工芸の用途の重大変化である.文明時代初期の段階で形成された商代青銅芸術は,その文様と一部の器形が空想的で風格のある恐ろしい怪物を表わしており,一種の神秘的な力と美を感じさせる。文様に表わされた怪物の雄健な線は,概念的な言葉ではとても表わし得ない原始宗教の観念をそのものずばりに体現しており,その堅実な器形と相まって,『詩経』長発に「(商の湯王は)有虔く鉞を乗る,火の烈烈たるが如く」とある血と火の時代を極めて巧みに表現しているのである.春秋,特に戦国時代になると様相はがらりと変わる.奴隷制の瓦解につれて,伝統的な礼俗はしだいに変化をきたし,祭器は名目だけのものに変わり始め,実際には以前のような社会的機能を果たせなくなってきた。これに伴ない青銅芸術も古い形から脱し,新しい姿を現出することになったのである.黄河流域・長江流域の各諸侯国, 各地方いずれの青銅芸術にもそれぞれ独特の風格があったが, この総体的な変化は共通していた。その主要なものは次の二つである。
一つは器型が軽便となり,使用に応じ,多様化したことである.新しい器種が続々と現われ,多くの新出の器型の中には命名し難いものもある。以前と同じ器型のものも,しばしば素材は軽くなり,型は気が利いている.これらの銅器のほとんどはもはや廟堂中に陳列する祭器ではなく,多くは生活の実用器具である。各種の容器以外に,武器の鋳造も大変な数にのばり,銅鏡・銅帯釣(バックル)など一般的な服飾品や生活用品もかなりの比率を占めた。
二つめは装飾が華麗精細を競い,文様の題材と風格に顕著な変化が起ったことである.多くの青銅器上の文様は金襴緞子のように細かく華やかだが,特にめだつ主題がない.夔龍文,鳳鳥文や各種の神話上の題材のような伝統的文様がな活用いられていたとしても,あの厳粛な雰囲気はもはや消失していた.伝統的な文様が新時代の要求を満たすことができなくなったために,職人たちは社会生活中の狩猟・桑摘み・酒宴・水陸攻戦といった題材を取り入れて文様とした。これらの変革は,原始宗教的な禁忌が打ち破られ,芸術が幻想の中から覚醒して神秘の天地を抜け出し,世俗の生活を注祝し表現し始めたことをはっきりと示している。芸術は既に神の芸術から人の芸術に変ったのである.
春秋戦国時代の青銅工芸は,当時の社会変革に呼応して新しいものを創造したので,中国古代芸術史上重要な輝かしい一章となった.
春秋戦国時代は科学・技術・医学・史学・文学・彫刻・絵画・音楽などの方面でかなり高い成果があった。しかし,精神文明の幾多の成果のうち, しだいに成熟し且つ体系化・理論化された学術思想こそは春秋戦国時代の最も偉大な成果であった。各諸侯国の急激な社会変革がイデオロギーの領域での新しい開拓と創造に条件を与えた.当時,百家が蜂起し,諸子が争鳴したが, 全体を貫く一つの思潮は「理性主義」である。それは先人の後を受けて発展させたもので,原始的巫術宗教の伝統観念から脱して,人間世界の社会思想学説を採用すると共に,他面では初めて中華民族の文化―心理構造を定めたのである。これは孔子を代表とする儒家思想であり,老子,荘子を代表とする道家思想はその対立物と補完物となった。「儒道互いに補う」という思想は,以後2千年間中国古代社会のイデオロギーの領域において支配的な地位を占めた思想であり, また他の民族文化と異なる漢文化の思想的基盤となったのである。
孔子は偉大な思想家,教育家であり,世界文化史上の巨人である。彼の代表する思想理論は古代中華民族の性格と文化―心理構造を形作るうえで重要な影響を与えた.
儒家と道家の学派以外に, 当時墨家・法家・陰陽家・名辯家・農家等々が生まれた。この諸学派にはそれぞれその代表人物と著作がある.伝えられてきた諸子の作品は,『論語』『孟子』『老子』『荘子』『墨子』『荀子』『韓非子』『商子』『公孫龍子』などが主なものぅほかに春秋戦国時代に成った古典名著に,『尚書』『周礼』『儀礼』『詩経』『易経』『春秋左伝』『国語』『孫子兵法』『戦国策』などがある。
これら黄河の大地の上に誕生し育まれてきた傑出した人物と偉大な著作は,散りばめられた星の如く,中国先秦の歴史という銀河の中でまばゆく光り輝いているのである。

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