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中国考古学の三十年 更新2007.08.13 元四川大学教授 童恩正 (森本和男訳)

 

研究論文と報告>中国考古学の三十年
研究者>童恩正

 1949年(中華人民共和国の成立した年)から1979年(中国共産党第十一回中全大会が開かれ、毛沢東時代の”左”の誤りが是正され始めた年)までの三十年間、中国考古学における発見と研究に目ざましい進展が見られた。1949年以前と比較し、発掘調査は全国各地にあまねく広がった。大量の新資料が出土したことにより、歴史上の多くの空白がうめられた。また、新しい技術(例えば放射性炭素年代測定法)が採用され、人々の認識範囲が広がった。考古学専門家の育成、および各省・自治区文物考古機関の設立によって、出土文物に適切な保存と研究を施すことができるようになった。専門雑誌が創刊され、また、専門的出版社も出現して、重要な資料を広く江湖に公表できるようになった。そのうえ、中国は社会主義国家で、土地が国有であるため、地上と地下のすべての文物は国家に属している。文物の持ち出しを禁止する法令と、警察と税関の厳重な取締りによって、輝かしい古代文明を抱える国々がしばしば遭遇する文物の流出という憂慮すべき事態を、中国は基本的に免れることができたのである。この期間に、新たに発見された考古学的資料は常に世界の瞠目を浴びた。こうして考古学は、中国政府の自慢する数少ない学問の一つになったのである1)。
 しかしながら、1949年から1979年までの三十年間を別の角度から見ると、中国は毛沢東の絶対的な権威主義的統治下のもとにあった。この間、閉鎖的な鎖国政策が徹底化され、中国の社会科学は教条主義と民族主義の深い影響にさらされたのである。この三十年間の主要なイデオロギーを二つの段階に分けることが出来る。1949年から1959年までの十年間は、いわゆるソ連「一辺倒」の段階であった。当時ソ連の学術界に蔓延していた過度の教条主義と民族主義的傾向、さらにスターリンに対する個人崇拝は、中国の学術界に劣悪な影響を及ぼした。1959年以降、中ソ関係は険悪となり、中国の学術界は「毛沢東思想の偉大な紅旗を高く掲げる」ことになった。そして、「以階級闘争為綱」、「滅資興無」、「厚今薄古」、「古為今用」等々の政治的スローガンが、二十年もの間中国の学術界を支配した2)。このような背景の下で、理論とはマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の語句を抄録したものにすぎず、古代社会の研究とは新しいデータを利用して既成の結論を追認するにすぎなかった。歴史上未曾有の文化大革命の時代(1966年−1976年)に、中国の学術は真正な探求にほど遠く、権力の奴婢と化して政治闘争の手段となってしまった。
 著名な歴史学者である故黎樹は、1983年に中国の歴史学研究を総括した際、「建国後の三十年間の歴史学を振り返ってみると、我々は新しい有利な条件を充分に活かして、歴史学を大きく進展させることが出来なかった。逆に”極左”思潮による撹乱、特に1966年以降の江青、康生、陳伯達の反革命集団による破壊は、歴史学にたびたび重大な打撃を与え、思想的に大きな混乱を巻き起こした。これは深刻な教訓でもあった」と指摘した3)。考古研究所の元所長であり、また中国で最も影響力のある夏 は、考古学について「古代の人類活動によって遺留した実物をもとにして、古代人類を研究する学問であり」、「歴史科学の一分野である」と定義した4)。考古学と歴史学は密接不可分な関係にあり、両者の依存する研究資料がそれぞれ異なっていても、古代の人類社会の歴史を研究するという目的は一致している。それ故、その基本概念と理論は同じなのである。もし歴史学研究が三十年にわたり、”極左”思潮による重大な打撃を受け、深刻な教訓を生んだとするならば、古代中国の歴史を研究する考古学においても、同様な事態が予測されるであろう。はたして当時の政治的環境に影響されず、またイデオロギー支配も受けずに、中国の学術界の外側で独立して考古学が健全に発展できたであろうか。
 私自身の過去の研究活動の再検討を含めて、中国考古学研究について全面的に見直し、深く考えた末、私は次のような結論に達した。三十年来中国考古学は、中国社会科学の一部分を形成してきた。したがって、いくつかの欠点、錯誤も同様に存在し、経験や教訓を総括する必要性がある。理論の教条化、硬直化が進み、政治的要素が不適切に関与したので、学術研究の中に民族主義的傾向が現れたり、保守的概念の堅持が生じた。この傾向は、すべての中国の社会科学に共通してみられる弊害である。ただし、考古学では特殊な形で出現した。



 マルクス主義と毛沢東思想に準拠することは、中国考古学の最大の特徴であり、1949年以後に中国考古学が「新段階」に発展した際の重要な標識の一つである5)。したがって、中国考古学の三十年について総括する場合にも、この問題から始めなければならないだろう。
 いかなる学問と言えども、その準拠する概念と理論は極めて重要である。同じ資料を扱っていても、理論的に異なる枠組みの学問に従うと、全く相違するか、時には甚だしく相反する結論に達してしまうことがある。各々の学問には特有な具体的理論がある。普遍的な哲学思想や政治思想からも常に影響を受けているが、それぞれの間にはかなりの違いがある。すなわち、マルクス主義の経済理論、文芸理論、哲学理論および政治理論、マルクスの唱えた弁証法的唯物論と社会進化論、毛沢東が生涯にわたって堅持した「以階級闘争為綱」という理論、それらの理論はたとえ「全世界にあまねく通用する」理論であっても、結局、考古学の具体的理論を体現しているわけではない。不思議なことに、中国考古学界の権威が「マルクス主義・毛沢東思想の指導性」を強調して地歩を固めたにもかかわらず、マルクス主義・毛沢東思想がどのように考古学理論に関与し、研究方法を左右するのか、という点を系統的に記述した書籍もしくは論文は、これまで一編も公表されたことがない。また、中国以外の国におけるマルクス主義考古学の発展状況も、今まで紹介された試しがなかった6)。その理由として、三十数年もの長い間、考古学上数多くの光輝な発見が相次いだため、理論問題に冷淡な態度をとり続けたのだと考えられる。マルクス主義・毛沢東思想を堅持するという前提がありながら、これは一種の欠落と言わざるを得ない。
 専門的な理論的論述が欠乏したため、実際の分析にあたっては、中国の権威的学者の思い浮かべるマルクス主義・毛沢東思想の考古学に従うしかなかった。先史社会の研究について言うと、十九世紀後半にアメリカの人類学者、モルガン(Morgan, Lewis Henry)が提唱し7)、後にエンゲルスによって詳述された単線的進化論8)、つまり、人類社会は原始群、母系氏族、父系氏族へと展開するという単線的発展系列は、疑いもなくマルクス主義・毛沢東思想考古学にとって重要な内容である。夏 は以下のように指摘した:

 文字史料のない原始社会の歴史的容貌については、主に考古学と民族学の資料に依拠して解釈できるであろう。解放以来、発見された旧石器文化遺跡の分布は希薄であり、遺跡内の遺物も貧弱で乏しい。これは、それらの社会構造がまだ原始群の段階で、後になって早期氏族社会の段階へ進んだことを表明している。新石器時代の農業村落の住居址配置および共同墓地の状況は、繁栄する母権氏族組織を意味し、後になって父権氏族社会に進んだことを表明している9)。

この一節はかなり概略的であるが、三十年間にわたり中国先史考古学の遵守する唯一のモデルとなった。中国猿人文化、仰韶文化、竜山文化には、順次「原始群」、「母権氏族社会」、「父権氏族社会」の標識が貼られた。その他の地域の文化は、時間に照らし合わせて各段階に当てはめられた。ある段階の文化類型をめぐり、母権社会とするか、あるいは父権社会と見るかによって意見の違いがあったが、これは単に具体的な事実認識の相違に属する問題であった。モデル全体の正当性については、誰も疑問を差しはさまなかった。
 もちろん、十九世紀の古典的進化論には歴史的価値がある。けれども、全ての科学理論の創世期にありがちな錯誤や不備な点も、古典的進化論に多く含まれていた。二十世紀以降、これについて各国の考古学者と人類学者は様々な討議を重ねて、補完を試みてきた10)。多くの課題に対して一致した結論はまだ出されていないが、いくつかの基本的な問題について、大多数の人類学者の間ですでに共通認識が出来上がっている。すなわち、人類社会の発展は固定的な単線モデルで決して解釈できない、母系社会と父系社会は相互に接続する二種類の社会形態ではない、母権社会は必ずしも母系社会ではない、等々の認識である11)。中国考古学の権威ある学者の何人かはこれらの見解に同意せず、自己の正当と思われる結論を堅持している。ただし彼らは、中国のすべての考古学者が単線モデルを遵守するように要求したり、あるいは異なる意見の発表を抑圧したことはなかった。学問の内在的価値、つまりその正当性と錯誤は、実践と異なる意見の度重なる論議を通して始めて提示できるのである。残念ながらこの三十年間、中国考古学の権威ある何人かの学者は他の国の理論的動向を重視して、理論問題の討論の必要性を認識しなかった。こうして、彼らはモルガンのモデルを堅持するあまり、学問の基礎を欠落させたのである。理論の膠着化とともに、その他の解釈の余地が極めて乏しくなった。
 中国考古学の権威ある何人かの学者は古典的進化論を堅持し、この問題について討論の進行を拒否した。その原因は科学的要因というよりも、むしろ政治的要求にもとづくものであった。夏 はこのように書いている:

 郭沫若院長の考古学的研究は、甲骨文と金文の資料を利用して、中国古代史もマルクス主義の社会発展史観に合致することを証明し、反マルクス主義者の胡適一派の誤謬を論駁した。エンゲルスの古典的著作『家族、私有財産および国家の起源』は、原始社会の資料を利用して、私有制度等が全くの歴史過程の産物であり、それ等が発生、発展、消滅することを証明した。そして、私有制は恒久的に存在するとしたブルジョア学者の誤謬を反駁したのであった12)。

夏 の意見によると、考古学研究の最高目的は「中国古代史もマルクス主義の社会発展史観に合致することを証明」する点にあり、私有制度の「発生、発展、消滅」の必然性を証明する点にある。これらの問題について、学術研究の課題とすることは全く必要である。しかし、もし固定的な結論になってしまうと、科学的根拠を失ってしまう。夏 の強調した点は、当時の政治的要求を反映していた。1949年に成立したばかりの中国共産党政権は、世界の他の共産党政権と同様に、権力の合法性を理論的に「不可抗力的な社会発展法則」から導き出そうとした。これはつまり、単線的な社会進化論を意味していた。「マルクス主義的社会発展史観」によると、人類社会は原始群、母権氏族社会、父権氏族社会、奴隷社会、封建社会、資本主義社会、社会主義社会と発展し、それぞれの社会は段階的に順次入れ換わって来た。これは自然現象と同様に「客観的法則」であり、人類にとってさえぎることのできない法則とされた。もし「社会主義社会」が人類社会の最終的到達点とするならば、社会主義の出現により、共産党の統治およびこの政党の実施する制度を、人々は一切受け入れざるを得なくなる。その他に選択の余地は残されていない。この点を考慮に入れると、三十年間、中国先史考古学について新発見が極めて多かったわりには、その資料を解釈するモデルが長い間わずか一種類しかなかったことを理解できる。すなわち、この学術研究モデルの背景には、世俗政権の強固な影が付きまとっていたのである。
 歴史時代に関する考古学理論については、おそらく毛沢東の「以階級闘争為綱」思想が考古学領域で具体化されたのであろう。この問題について、夏 はかつて以下のように論述した:

偉大な指導者毛主席は、「人民、ただ人民こそが世界歴史の原動力である」と語った。働く人民は歴史の主人公であり、彼等は社会的富と文化を創造した。けれども、奴隷社会と封建社会では、労働人民の創造した富と文化は完全に搾取階級に奪われてしまい、労働人民は様々な厳しい迫害を受けた。我々考古学者はマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想の指導の下で、毛主席の「古為今用」の偉大な方針をしっかりと認識し、階級と階級闘争の観点から考古資料に反映する社会現象を考察しなければならない。ブルジョア階級とすべての搾取階級によってねじ曲げられた歴史的悪影響を一掃し、「歴史的転覆を」「再びひっくり返して」、「歴史的容貌」を元通りにするのである。考古学をプロレタリア階級の政治的任務に役立てよう13)。

この一節は、プロレタリア文化大革命の時期に執筆され、極端な時期に書かれた極論にちがいない。しかしながら、夏 自身はもちろんのこと、彼の死後に彼の学問的思想を記述した人も、この一節について異義を差しはさまなかった。したがって、この記述は今に到っても中国考古学界に影響を及ぼしている一節なのである。さて、この考え方をマルクス主義・毛沢東思想の考古学的理論として捉え、分析してみよう。
 階級社会では、常に労働人民は統治階級の搾取と迫害を受けてきた。彼らの発明創造の多くは、文字で記載された歴史の中で軽視されてきた。考古学的資料を研究する場合も、社会の大多数を占める労働人民の社会的、経済的、文化的状況に注意を向けなければならない。けれども、古代社会における政治、文化、芸術、宗教、科学の主要な具体的成就は、結局のところ、政治家、文学者、芸術家、宗教家、科学者等の専門家集団によって達成された。したがって、もし労働人民の直接的作用を強調し過ぎると、しばしば「歴史的転覆」が起こり、政治、文化、芸術、宗教の領域に偏見が生じ易くなってしまう。これは「搾取階級」の産物を軽視するものであり、中国考古学研究に不足していた点でもあった。この種の偏見が最高潮に達したのは、文化大革命中に吹き荒れた狂気のような「破四旧」運動であった(「四旧」とは旧思想、旧習慣、旧風俗、旧伝統を指す)。当時の為政者による扇動もあって、紅衛兵は全国の貴重な文化遺産に対して極めて野蛮な破壊活動を行い、中華民族の文化的伝統に未曾有の大打撃を与えた。
 指摘しておかなければならない点は、歴史時代における人と人との関係は、決して階級関係だけではなく、その以外に社会的、政治的、経済的関係もあったことである。特定の条件下では、これらの関係も歴史の進展に影響を及ぼした。異なる階級の間には、対抗関係のみではなく、相互依存関係も存在していた。現代の階級闘争を絶対視する毛沢東思想を古代社会にまで拡大し、労働人民とその他の階級、特に知識分子と対立させて、考古学研究の唯一正当な理論とするのはかなり一面的と言えるだろう。
 この理論によると中国考古学は、歴史研究の過去の遺産、そして現代の中国以外の全ての研究とも決別することによって始めて、「ブルジョア階級とすべての搾取階級によってねじ曲げられた歴史的悪影響を一掃」できるのであった。中国考古学を歴史的伝統および世界考古学と対立させる見方は、三十年間にわたる鎖国的な方針の理論的基礎となった。これは中国考古学の発展に計り知れないほどの損失をもたらした。
 考古学の任務を「プロレタリア階級の政治的任務」とすることは、言葉を変えて言うと、中国共産党の遂行する政策に従うことを意味した。これは考古学の通俗化をまねき、客観性と科学性を消失させた。七十年代に起きた古墓の発掘現地で開かれた「憶苦思甜」会14)、曲阜孔府の文物を利用した「批林批孔」15)、いわゆる林彪の「天才論」を石器発展史を用いて行なった滑稽な批判等々を思い浮かべれば16)、この種の概念がどの様な悪影響をもたらしたかを想像できるであろう。



 社会的、歴史的背景からすると、考古学は中国人の民族感情を最も掻き立てる学問の一つであろう。
 中国は歴史と伝統を重視する国であり、長期にわたって祖先崇拝が盛行した。過去の遺物は、財宝的価値があるだけでなく、特に政治的、儀式的意義があった。例えば、青銅製の鐘鼎は古代から変ることなく「国之重器」であり、権威と統治の合法性を象徴している。それ故、中国人の倫理観からすると、もし子孫が祖先の遺物を良好な状態で保管しなかったならば、これは国家にとって不幸となるだけではなく、家族や個人にとっても大きな恥辱となるのである。古くから王朝および民間で、習慣となっていた古物を収蔵する風習は、この種のイデオロギーと関連している。
 西欧の帝国主義諸国は十九世紀中頃から中国へ侵略し始めた。中国人民は外国の列強勢力に反感をつのらせた。百年近い間に大量の珍貴な文物が国外へ流出し、古物商の格好な収入源となった。これは中国人の自尊心をいたく傷つけた。中国の現代考古学は、新しい学問として五四運動以後に生まれた。五四運動は反帝、反封建のスローガンを掲げて1919年に勃発した。ほぼ同じ頃、1921年に河南省縄池仰韶村の新石器遺跡で最初の科学的発掘が開始された。五四運動は反帝国主義を主張したが、中国考古学の形成にも当初からその影響を受けざるを得なかった17)。このような歴史的背景のため、中国人考古学者は民族意識に敏感にならざるを得なかったのである。
 1949年以後、毛沢東は様々な理由から西側諸国を敵視する政策を強力に押し進めた。中国人民の心中に元来からあった反帝国主義の思想は不断に拡大、強化され、ついには現実の域を超え出て、排外思想へと変化してしまった。こうして、中国の考古学研究にも、何らかの形で常に民族主義的色合いが付きまとい、国外との正常な学術交流に大きな弊害をきたしたのであった。
 民族主義の要求に応えるため、一部の中国人考古学者は理論的に実用的な態度をとった。彼らは、如何なる西側の理論にも従わないと口では述べていたが、実際には特殊な問題についてしばしば異なる立場と異なる観点を採用した。例をあげて述べると、西側考古学界で二つの大きな観点があった。つまり、固有進化説と文化伝播説、そしてこの二つの観点に関連する文化、文明の起源の一元論と多元論であった。彼らはこれを利用して対外的と対内的問題という、二種類の性質の異なる問題を解釈した。ここで言う対内と対外とは、現在の中華人民共和国の境界を基準にしていた。
 対外的には、現代中国の国境内にあるすべての文化を一まとめにして、世界のその他の文化と比較した。この意味で一部の中国人学者の強調した点は、固有の起源および独立した発展系列であった。安志敏は文明の起源を論じながら、「世界の文明起源を一元的に論じた学者がいた。例えば、伝播論の主唱者であったスミス(Smith, G. Elliot)は、エジプトを文明起源の中心とし、人類の全ての文化はエジプトから伝播したと主張した。」「考古学の発展により、文明の起源に対する認識はますます深まり、多元説が優勢となった。どの地区を起源地とするかは人によって意見の相違があるが、世界中に異なる文明発祥地が存在することには異論がない。それぞれの文明が独自に発生し、相互に影響を与えながら文明の領域が漸次拡大したのである。」中国はそのような文明発祥地の一つである。「中国文明が独立して発生したことは、今日、広く学術界で承認されている」18)。上記の意見について私は完全に同意したい。ただし付け加えておきたい点がある。世界中にいくつかの文明起源地があり、それぞれの起源地の文化は自らの道程にそって、低い段階から高い段階へと発展したとする仮設は、結局は進化論の範疇に属しているということである。
 けれども、中国の文化や文明が独立して発生したことを強調する場合でも、中国文明がつまるところ世界的な関係において発生、発展したという事実も忘れてはいけない。中国外部からの影響、特に西アジアと南アジアからの影響は、中国考古学の重要な研究テーマである。しかしながら、この三十年の間、中国人考古学者の態度はさほど客観的ではなかった。外来的要素として、銅器の起源や鉄器の起源という重大な問題があるが、中国国内で真剣な討議はなされていない。別な文化的要素について、もし国外の学者が外来的可能性を示唆したりすると、中国人学者の反発は激烈を極め、政治的色彩を必ず帯びてしまう。冷静に学術的問題を討論するという態度をそこに見出すことは難しい。
 最も顕著な例を彩陶の起源に関する議論に見ることができるだろう。1920年代に仰韶文化が初めて発見された時、スウェーデンの考古学者アンダーソン(Andersson, J. G.)は、比較資料を欠いていたため、仰韶文化の彩陶の来源を中央アジアのアナウ文化(Anau Culture)とする仮説を提示した19)。その後比較資料が豊富になると、1943年にアンダーソンは誤りを素直に認め、仮説を訂正した:

事の重要さを理解せず、正確な視点を欠いた優越観の下で、我々ヨーロッパ人が優れた文化を中国にもたらした「優れた民族」についてかたるのは、根拠がないだけではなく、不名誉なことでさえある。
 中国人はどの様な民族なのか?旧世界の四つの中心、つまりエジプト、イラク−イラン、インド西北部、中国は金属時代の初期から高度な文明が出現した。その文化遺物の豪華絢爛さは、今でも人々を魅了して止まない。ところで、古代文明以後の発展はどうなったであろうか?エジプト、メソポタミア、イラン高原、パンジャブ・シンドは砂漠や瓦礫のなかに忘れ去られてしまった。ただし中国のみは同じ民族によって連綿と歴史が続いた。仰韶文化に始まり、安陽文化と数多くの王朝を経て今日に到るまで、文化は絶えることなく発展してきた。この民族は、勤勉で勇敢であるとともに、平和を好む。歴史上、彼らは幾度となく蛮族の征服を甘受したが、再三にわたって決起し、武力による反抗もしくは文化的迎合によって自由と勢力を獲得して来たのである。
 謹厳な気持ちで彼らの最初の遺跡に接しざるを得ないのではないか?20)。

どんな偏見をもってしても、アンダーソンの謙虚な姿勢から、彼が中国民族を高く評価し、過去の錯誤を反省していることを明白に読み取れるだろう。新発見の資料がさほど十分でない段階で早急に仮説が提示されることは、学術研究によく有り勝ちなことである。
 アンダーソンに対する中国人考古学者の批評は1937年から始まった。 達は「竜山文化与仰韶文化之分析」のなかで述べている:

新事物の発見は、その事物について、人々の過去の認識をしばしば補足したり、訂正したりする。このことは全ての学問の発展につきものであり、考古学も例外ではない。十年余り前にアンダーソンは中国新石器時代の研究に先鞭をつけ、かなりの資料を収集した。ただし、当時の資料に限界があったため、仰韶村と斉家坪の二遺跡を近似の遺跡と判断できなかった21)。

このような意見は正当な学問的批評である。しかしながらアンダーソンが錯誤を認めたにもかかわらず、1949年以降も彼は依然として「中国文化西来説」の代表者と目され、多年にわたって何度も批判にさらされた。例えば、1972年に安志敏は以下のように指摘した:

仰韶文化の発見は、植民地主義の唱える「中国無石器時代」の謬説を論破した。外国のブルジョア反動学者は翻って仰韶文化の年代を遅らせ、反動的な「中国文化西来説」の為に新たな理論的根拠を画策した。・・・・アンダーソンは1925年に発表した所謂「六期」説のなかで、「仰韶期」を「新石器時代後期もしくは金石並用期」とし、その年代を紀元前3200−2900年とした。後にアンダーソンは「仰韶期」を新石器時代後期に編入したが、逆にその年代を紀元前2200−1700年に遅らせた22)。

このような批判に、どれほどの事実的根拠があるのか判らない。私は多くの資料を調べたが、西側考古学者のうち、一体誰が「中国無石器時代」の理論をまともに発表したのか、今に到っても見い出せずにいる。特にアンダーソンを「外国のブルジョア反動学者」と決めつけるのは、全くの政治的偏見にすぎず、学問的な討論となんら関係しない23)。
 この他に、現代中国の国境外からいくらかの文化的要素が来源したと主張する学者に対しても、中国の何人かの権威的学者による批判には政治的要素がうかがえる。ここにも粗暴な口調がある。中国の青銅鋳造技術の来源について、ある外国人学者は西アジアからの可能性を推測した。確かに世界最古の銅器が西アジアから出現しているので24)、この種の学説はまだ証明できないが、少なくともその蓋然性は主張できるであろう。けれども夏 は、これを「帝国主義分子とソ連修正主義の考古学者」の「呼号」とした25)。また、ソ連の歴史学者ワシリェフが、古代中国における西方からの「黄道帯」概念の借用を主張したのに対して、夏 は反駁を試み、「古代各民族の文化が相互に影響しあったことを否認しないが、ソ連の歴史家が言うように、中国の二十八宿が西方の「黄道帯」概念の借用であったとする謬説は、古い「中国文化西来説」の復活を試むだけでなく、事実を歪めて反中国の世論を作ろうとするものである。客観的事実を前にして、この種の意図的企みは恥ずべき失敗に終るであろう」と論じた26)。具体的な学問的問題は、ことごとく帝国主義的侵略関係に結び付けられた。その威嚇の対象となったのは外国人ではなかった。西側の学者が中国の政治的威圧に屈するはずがなかったからである。むしろ中国人学者に対する圧力となり、類似したテーマを誰一人として触れなくなったのである。
 私は、帝国主義国家が中国を侵略する過程で、何人かの外国人学者がその悪事に加担したことを否定しない。また、外国の学術文献中で中国が醜悪に描かれたり、中国歴史が歪曲されたことも否定しない。これらの不正確な点に対して、中国人学者は反駁をする必要がある。ただし、この種の反駁は真実と道理でもって応えるべきであり、感情や侮辱に走ってはいけない。真正な民族的自尊心と狭隘な民族主義をはっきりと区別しなければならない。
 中国国内の問題では、異なる生態環境における文化発展の内在的法則と系統性を、何人かの中国人学者は重視しなかった。黄河中下流地区を強調し過ぎて、中原地区を決定的要素とした。その他の地区の文化発展は、原始文化の範疇に包括され、すべて黄河流域の影響を受けた結果とされた。安志敏は以下のように強調した:

古い先史時代から黄河流域は人類活動の中心となり、旧石器時代から連綿と長期にわたって絶えることなく発展した。特に新石器時代に繁栄を享受し、中国古代文明誕生の確固たる基礎が築かれたのであった27)。

その他の地区の文化と黄河流域の文化との関係について、安志敏の意見を見てみよう:

黄河流域は我が国の古代文化の中心であった。その他の地区の古い遺産や悠久の文化的伝統を決して排斥するつもりはない。それらは中華民族共同体の形成に積極的貢献をなした。けれども、発展の全過程中で常に中原が中核であり、黄河流域の先進的文化の影響と推進によるものであった。特に階級国家になってからは一層明白となった28)。(強調点は筆者による)

私も、夏商周三代の中国古代文明(安志敏の言う階級国家)が黄河流域を中心に発展したことに全く同意するが、先史時代の状況をも一概に論ずるわけにはいかない。旧石器時代について言うと、現在中国で発見されている今から170万年前の最古の元謀猿人は雲南省で発見された。その頃、この地区の文化が、黄河流域の影響を受けていたとは言い難い。新石器時代の長江流域の文化は、生産技術、芸術的水準、社会組織の面で、黄河流域の文化となんら遜色がなかった。河姆渡文化(5005 B.C.)、馬家浜文化(4325-3230 B.C.)、良渚文化(2800-1900 B.C.)がこの状況を代表している。異なる二つの伝統が黄河流域と長江流域で平行して発展しているのであり、それぞれに特徴と長所がある。どちらか一方を中心とし、一方を辺縁としたり、一方を先進、一方を後進とすることはできない。張光直は『古代中国考古学(The Archaeology of Ancient China)』第4版で、アメリカ考古学の「相互作用地域(Interaction Sphere)」という用語を援用しつつ、新石器時代後期の中国各地区の文化的関係を記述した。彼はこの語を使用した理由として、「先史時代の地域文化は中国歴史時代の空間的中核を構成していた。すべての地域的文化は、後世、秦漢王朝が中国歴史文明を統一する過程で、自らの力量を発揮した」ことをあげた29)。このような客観的論断は、疑いもなく実際的状況と一致している。
 現代の中国はアジア大陸東部に位置し、その占める範囲は広く、地形は複雑である。最北の寒帯気候から最南の熱帯気候まで、生態環境には極めて大きな差異がある。古代には、それぞれ異なる生態区域で自然条件に適した文化が発展した。社会進化の理論と照らし合わせると、それぞれの文化には独自の発展法則と系列があった。安志敏はアジア大陸東部の黄河流域のみ「新石器時代に繁栄を享受し」、「中国古代文明誕生の確固たる基礎が築かれた」とした。その他の地区の社会的進歩は、すべて「黄河流域の先進文化の影響と推進による」とした。これは実質的に進化論の原則に乖離し、しかも西方「文化伝播論」と「文明起源一元論」を反映しているのである。進化論と同様に、伝播論にも若干の異なる学派がある。しかし大筋から言うと、この理論によると、わずか少数の中心から全世界の文化が創造され、その他の地区の文化は、すべてこの中心から伝播した結果と考えるのである30)。
 先史時代に黄河流域と長江流域で文化が平行的に発展し、歴史時代になって以降、なぜ黄河流域を中心に中国文明が展開したのか、その原因については、中国人考古学者の研究すべき別な課題であろう31)。
 1949年から1979年までの三十年間、中国の政治的状況に極度の権力集中が生じた。地域(特に辺境地区)は政治の中心(北京、黄河流域に位置する)に対して服従を強いられた。そして、歴史上の漢族(黄河流域の古代住民)の先進性も強調された。この時期の中国考古学の目的が「為無産階級服務」であったことを思い浮かべると、安志敏の主張はあながち偶然ではなかったと言えよう。
 学問研究の基本的概念以外にも、中国の何人かの権威的学者に民族主義的傾向が見られた。つまり、外国との共同研究、甚だしくは技術上の共同研究さえも拒絶したのである。この三十年間に、西側学者は如何なる野外調査、研究にも参加できなかった。それだけでなく、正式に発表された資料以外の補助的情報も得ることができなかった。中国で考古学を専攻する西側の留学生も、野外調査資料に接することが困難であった。これらのことは周知の事実である。典型的な例を紹介しよう。私は四川大学にいた頃、1981年にアメリカ国家科学基金の援助の下で、張光直を代表とするハーバード大学との共同研究を企画した。その内容は、中国の農業起源について学際的に長期にわたって共同に研究しようとするものであった。当時の文物政策と法律を遵守して、アメリカ人学者は野外調査に決して参加せず、ただ調査計画とその後の研究に参画するだけであった。すべての出土文物は中国の所有に帰するはずであった。この過程で、アメリカ側は最新の考古学整理室を建設し、また、野外調査で新技術を広めて人材の育成に努め、中国人のアメリカ留学さえも予定された。最新の自然科学的方法を中国考古学に応用することは、中国にとって大いに有益なことと思われた。しかしながら夏 の反対で、この計画は遂に頓挫してしまった。計画について反対から棄却に到るまで、夏 は計画そのものさえ見ようとしなかった。彼の否定的態度は計画自体を云々するものではなく、中国の考古学研究に外国人の介入を一切排除しようとするかたくなな態度であった。彼の取った方法は、学問的論証からこの計画の可否を裁量するのではなく、政府の権限を利用して行政的に直接制止を命じたのである。この事件は、当時の考古学界の権威的指導者に付きまとう家父長的傾向と頑迷な排外思想を反映している32)。



 夏 の書いた文章のなかで、この三十年は「中国考古学の黄金時代」と幾度となく言及された。1984年に、中国社会科学院考古研究所は夏 の指導の下で、「中国考古学的黄金時代」という題目で三十五年来の考古学研究を総括した33)。
 中国考古学の研究者として、私は中国考古学の成就したそれぞれの分野すべてを大いに歓迎し、光栄に思っている。「中国考古学的黄金時代」に列挙された事実に全く同意したい。とは言うものの、私は「中国考古学の黄金時代」という表現に、いくばくかの疑問を抱いている。
 1949年から1979年まで、中国考古学における発見は未曾有であった。大規模な農業建設と工業建設は、そのような発見に絶好な機会を用意した。広大な中国大陸の各地で活躍する考古学研究者の刻苦勉励によって、中国の考古発見は質的にも量的にも全世界の関心を引き起こしたのであった。その意味で、1949年以後の三十年を発見の黄金時代とするのならば、私は完全に同意する。
 考古学的発見は考古学において重要な要素であるが、それだけで考古学研究が尽きてしまうわけではない。ある国のある時期の考古学全体の成就を評価するには、新発見以外に、三つの側面を考慮しなければならない。つまり、理論的概念の科学性、研究成果の独創性、研究手段と方法論の先進性である。この三つの側面について、この三十年間、中国考古学はいくつかの問題を抱えている。
 理論について言うと、単線的社会発展進化論と毛沢東の階級闘争思想は、中国考古学に深刻で劣悪な影響を与えた。このことは上記した。今日でも、非常に多くの中国人考古学者は理論問題を忌避し、考古学の具体的理論に意見を提出しようとしない。理論的概念の先進性については、明かに夏 の主張と大きく異なっている。
 理論の硬直化と空洞化は、必然的に研究活動にも影響を及ぼした。この三十年の間、大多数の中国人考古学者の研究は、主に考古資料自体の解釈、つまり時代、名称、機能等々に注意が向けられていた。もちろん、この研究は極めて重要であり、考古学研究の基礎でもある。けれども、夏 が正しく指摘しているように、「我々は遺物と遺構だけを研究するのではなく、古代社会の自然環境も研究しなければならない。実物から古代の社会組織、経済状態、文化的容貌を研究し、人類社会の発展法則を追求するのである」34)。残念ながらこのテーマに問題がおよぶと、中国の考古学研究はすぐさま公式化と概念化に終ってしまい、全く独創性を失うのである。
 実際、中国には広大な国土、複雑な民族、豊富な社会類型がある。もしも研究者が自由な発想に富み、モルガンのモデルに拘束されなかったならば、数十年にわたって蓄積された極めて豊富な地下資料に基づきながら、中国人考古学者は異なる地区、異なる民族からなる古代社会の多種多彩な様相を解釈し、総合できたであろう。さらに、疑いもなく中国考古学は世界文化の研究にも有意義な貢献を果たしたであろう。
 野外調査について、事前に発掘担当者に具体的な理論や指針、科学的仮説、論理が欠如していたため、発掘の進行、資料収集の範囲、記録の様式等が教科書どおりに処理され、ほとんど変化がなかった。その結果、非常に価値のある現象、珍しい研究資料(特に自然環境に関する動植物遺存体、文物とみなされない各種の遺構)が見過ごされ、捨てられたのであった。ここで中国考古学の先駆者 達が六十年代に書いた文章を再度復習してみよう:

ここ数年、我々は祖国の歴史編纂活動に参加してきた。まず最初に遭遇したことは原始社会の問題である。最も困惑し、処理に困ったのは氏族制度の部分であった。我々はこの段階の考古資料をあまねく調べ、考古学論文を参考にして、大量の資料から我が国の氏族社会発展の基本的構図を組み立てようとした。しかし、いざ着手してみると様々な困難に遭遇した。大量な情報はしばしば千編一律で、不完全な遺物や曖昧な遺構に簡素化され、さほど確実な科学的根拠を提供していなかった。・・・今後の考古発掘と総合研究で、新石器時代の考古資料をどの様に全面的、系統的に使用して文化遺存に現れた社会的容貌を把握するのか、真剣に検討したい35)。

 達はここで、考古学的技術を問題にしているのではなく、方法論的問題を語っているのである。 達の提案以来、六十年代から七十年代にかけて状況は多少改善されたであろうか?この点を我々中国人考古学者は謙虚に考えなければならない。
 研究手段、方法論の面については、この三十年間、中国ではほとんど進歩がうかがえなかった。野外調査技術と基本的な道具類は、五十年代初めに夏 等が考古訓練班を創設した水準にとどまっている。これは西側考古学の三十年代の調査方法に相当する。夏 は「三十年来的中国考古学」で多数の新技術について語ったが、ただし、その大部分はさほど普及していない。北京にあるごく少数の機関を除き、地方在住の多くの考古学研究者にとって発掘方法、使用する道具、測量実測器材、文物の修復保管方法等の点については、依然としてかなり遅れた状態である。コストのあまりかからないフローティング法やコンピュータによる調査分析は、管理機構が軽視しているので、今だに運用できる人は非常に少ない。中国は古い文明を誇りとしているにもかかわらず、中国考古学の技術的進展が差し迫った課題となっているのである。
 出土資料を迅速かつ完全に公表することは、野外調査に伴う遵守しなければならない原則である。けれども、色々な障害から、中国の考古学研究者はしばしばこれを実行できないでいる。中国の各省・自治区は、それぞれ面積、人口ともに欧州の大国一つに等しい。この三十年の間、各省・自治区博物館は発掘調査と報告書の作成に鋭意努力を重ねてきたが、博物館の専門職員は、少ない所で数人、多くともわずか十余人しかいない。早くも1957年に当時の中国社会科学院院長郭沫若は、「出土文物は急速に、しかも大量に増えている。整理、研究は間にあわず、人手が絶対的に不足している。これは深刻な問題だ」と指摘した36)。その上、この三十年間は政治運動が不断に続き、本来から不足がちな考古学研究者の大部分の時間は、別な用途に費やされてしまった。その結果、大量な資料を速やかに整理することが出来なくなったり、正式な報告の代りに簡報のみで終ってしまったのである。出土文物は倉庫内に積み上げられた。日が経つうちに記録は失われ、ラベルは混乱してしまった。このような資料の学問的価値は、単なる廃棄物に等しい。私の知る限りでは、このような状況は各地の博物館でかなり日常的となっている。
 この三十年の間、中国考古学の発見は確かに人を驚かすほどであった。けれども、これ等の発見を前にして、我々は謙虚な態度で接しなければならない。夏 は「発掘されたものは国の宝である。我々の祖先の遺産であり、祖先の功労である。発掘作業中に注意深く発掘されず、細かい観察や詳細な各種の記録がなかったならば、そのような発掘作業は一種の破壊活動になってしまう」と語った37)。世界中を驚かした馬王堆漢墓や秦俑の発見を含め、中国の重要な考古発見は、一般大衆が無意識に見つけたものであり、学者の科学的な予見によるわけではなかった。したがって、考古学の達成を考察する時、資料本体と、発掘水準、研究水準は区別する必要がある。前者は祖先の創造したものであり、後者は現代の学問的水準の忠実な反映なのである。光輝で豊富な地下の財宝について、天分に恵まれた中華民族先人達の創造性に感謝したい。もし中国人考古学研究者が思想的に束縛されず、中国の現状下で良質な技術を身につけ、不十分な分野では国外と学術交流を行なえば、中国考古学はさらに高い段階へと発展するであろう。
 1966年から1976年まで続いた文化大革命は、中国人にとっては「革文化的命(文化の命を革める)」ことであった。この十年間、上から下まで組織的に「破四旧(四つの旧を破壊する)」がなされ、一軒ごとに捜査の手が伸びるほど徹底していた。地下の文化財だけでなく、個人収蔵の文物(中国で収蔵されている文物の大部分を占める)も大きな被害を受けた。中国文明五千年の歴史の中で、異民族の侵入や内乱の時でさえも、これほどまでの悲惨な災害はなかったであろう。この災害は、「考古学活動の発展に非常に大きな阻害を与えざるを得なかった」38)という空言で概括できるものではない。良識ある中国人考古学者は厳粛に反省し、詳細な統計数値を算出して、歴史の真実を公表すべきである。そのようにしてこそ、中華民族の先祖と子孫を始めて結ぶことが出来るのである。
 文物の破壊と考古学者への迫害は、文化大革命に限らなかった。土地改革、三反五反等の諸々の政治運動中、中国の個人蔵文物は非常に多くの損失を受けた。「土地改革という偉大な革命運動で、古書文物は一点も失ってはいけない!」と郭沫若も述べていた39)。このような状況は社会的大変動の時には免れ得ない現象であるが、歴史的真実を風化させてはならない。1949年以前、専門的訓練を受け、学術的業績のある考古学者と文物鑑定家は、元来さほど多くなかった。しかし、1957年の反右派闘争で、彼等の多数は右派のレッテルを張られ、残酷な迫害を受けた。国際的に著名な学者であった曽昭 、陳夢家等は迫害にあって自殺してしまった。これらの事件は「黄金時代」中に起きた惨劇であり、後人は決して忘れてはいけない。



 1979年の中国共産党第一一回中全会以後、「擾乱反正」、「改革開放」のスローガンが出され、「実践は経験真理の唯一の基準である」と主張された。中国共産党元中央総書記胡耀邦はさらに明確に指摘した。「文化大革命とそれ以前の”左”の誤りによる影響は広くて深く、危害は極めて厳しい。林彪・江青の二つの反革命集団を徹底的に批判すると同時に、文化大革命とそれ以前の”左”傾の誤りについても、全面的に清算しなければならない」40)。これ以後、歴史学、哲学、経済学、法学、文学、宗教学等の分野を含めた中国の学術界では、色々な形式を用いて、過去三十年間に”左”思想と教条主義のもたらした深刻な危害を検討した。多くの真面目な学者は、繰返し”左”の影響を排し、学術民主主義と学問の自由を勝ち取った。数多くの紆余曲折を経つつも、学問の純粋性と科学性を守る闘いは、まさに盛んになりつつある。しかし、不思議なことに何人かの考古学界の指導的人物は、全民族的な反省の時期に、まるで部外者のように関わろうとしていない。数年来、夏 は中国考古学について数回にわたって総括したが、文化大革命を否定せざるを得なくなった以外には41)、中国考古学の達した成果、所謂「黄金時代」のみを強調した。三十年間にわたる中国共産党の政策に見られる偏向(この偏向は現在の共産党最高幹部も認めている)に触れることもなく、中国考古学研究の理論的・方法論的弱点にも言及しなかった。考古学の発展を当時の社会的背景から引き離して孤立させ、一部の事実を以て他の部分を隠蔽する見方は、実事求是にほど遠い。
 私は、この三十年間に中国考古学に存在したいくつかの問題を取り上げたのであり、中国考古学の達成した巨大な意義を決して否認しているわけではない。もしも批判すべきことがあるとするならば、それはまず初めに私本人に対してなされるべきであろう。一人の中国人考古学者として、私の取り組んだこれまでの研究、著作も時代の影響を受けざるを得なかったからである。
 長期にわたって野外調査に従事する多くの中国人考古学研究者に対して、私はいついかなる時でも敬意を表する。彼等の賃金は安く、作業環境は劣悪、しかも風雨の中で重労働を強いられている。数十年を一日のごとく過ごす辛い彼らの労働こそが、中国考古学を成功に導いた真の源である。「”左”傾思想と小生産観念の束縛により、我々の党内には、かなり普遍的に長期にわたり教育、科学、文化を軽視し、知識分子を差別視する誤った観念があった。これは我が国の物質文明と精神文明の建設にきわめて大きな障害となった」と、胡耀邦は語った42)。この間、中国共産党が知識分子を重視して彼等を支援し、さらに、物質的好条件とは言わないまでも、政治運動を減少させて研究活動に多くの時間を割いたならば、明かに現在のような水準に留まっていなかったであろう。夏 は中国考古学の三十年を総括した時に、考古学の改良、自由な学術的雰囲気の創造、良好な物質的条件の提供を中国共産党に要求せずに、重労働を強いられている考古学研究者に一面的に「献身的精神」を要求したのであった43)。これは不公平な要求であろう。
 この論文で夏 の論述を比較的多く引用し、彼の見解とは異なる意見を提出した。その理由は、この三十年間、常に彼は中国考古学活動の具体的指導者であり、彼の言行は中国を代表し、深遠な影響を与えて来たからである。中国で最も知名度の高い考古学者として、彼の学問的業績は多くの人の知るところである。けれども完全な人間はいない。中国知識分子は極端な思想統制の下で研究を行なわなければならなかった。特に研究の基本方針は、特殊な政治環境に適応させざるを得なかった。ひどい場合には政治環境に迎合したのである。夏 は傑出した学者であるが、彼は同時に1959年に反右派闘争に積極的に参加し、階級闘争の高潮期に第一線で入党した党員である。彼の権威は主に党の権威に由来している。彼の考古学分野における三十年間の指導も、党の指導を具現したものであった。したがって、彼が常に一貫して正しく、”左”傾思想の影響をいささかも受けず、”左”路線を実行したわけでもなく、”左”の意向にも迎合していなかったとするのは、不可解である。高名な故人の尊厳を守るために筆を曲げてへつらい、事実を隠す必要はなかろう。(ピッツバーク大学)

『再思集』北京,中国社会科学出版社, 1985, p. 25

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