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都江堰 2008年05月15(木)更新
【和:とこうえん】 |
【中:du jiang yan】 |
春秋戦国|歴史名城>都江堰
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都江堰は、約2000年の歴史がある水利施設の名前でもある。四川省はこの水利施設のおかげで、実り豊かな場所になり、「天府の国」と呼ばれている。そしてこの有名な水利施設と関係あるのが、地元で行われている「放水節」だ。 「都江堰に住む、約半数にあたる30万人以上の人や、四川省のほかの地方から、たくさんの人がやって来ました。都江堰の放水が始まる頃には、人々は岸辺に集まり、一度目の水が流れ出すと、小石や竹ざおで、流れてくる水の先頭を打ち、水流が穏やかで、水害が起こらないよう願っていました」。「放水節」の由来は、都江堰の水利工事にさかのぼる。戦国時代(紀元前476~紀元前221年)、まず秦は紀元前316年に、今の四川省にあった蜀を滅ぼして長江上流を占拠し、下流にある楚国に近づいた。成都は当時、西南の最も重要な都市の一つで、多くの兵と馬の糧食、軍備物資を蓄えていた。しかし、長江の支流の岷江は成都を通らない。蜀の郡守だった李氷は、長江の水路を利用し、軍需品の供給を確実なものにする戦略上の水路を開くため、都江堰の水利工事案を計画した。そして岷江の川筋を、成都を通るように変えた。紀元前256年、都江堰水利工事は完成し、紀元前223年、秦の軍隊は岷江を下って長江に入り、一挙に楚を滅ぼした。そしてその2年後、秦は天下を統一した。都江堰。この古い水利施設は、今までも成都平原の良田を潤している。 成都平原を支える「内江」軍事使命を果たしたあとの都江堰は、成都平原の農耕の発展に大きく貢献し、地元の人々に利益をもたらした。都江堰は、成都から西に56km行った場所の、岷江の上流にある。沸き返るような水の流れは、この場所で緩やかになり、岷江は二手に分かれる。「外江」と呼ばれる、外側に流れる水は長江に向かって流れ、水上運輸、放水の働きをしている。「内江」と呼ばれる、内側に向かう水流は、成都平原を流れ、農地の灌漑に用いられる。「内江」の流れを安定させるために、「飛沙堰」を通る時は、岩壁の折り返す地形を利用して、泥と砂が除かれる。また水量を調整するために、山などの地形を利用して分流し、洪水を防いでいる。
都江堰は四川省成都平原西部の岷江にあり、世界で完全な形で保存されている唯一の堤防なしで導水する生態的水利施設であり、中国で最も完ぺきな形で保存されている古代水利施設でもある。「世界の水利工事の奇跡」といわれている。都江堰は2000年前、中国の戦国期の秦国蜀郡太守の李氷とその息子が人々を導いて築造した大規模の水利施設であり、中国に現存する最も古くて、由緒ある水利施設である。
都江堰は、魚嘴・飛沙堰・宝瓶口の3部分から成り、岷江の流れは、人工の中洲によって外江(上流に向かって左)と内江(上流に向かって右)に分かれ、外江はそのまま岷江として下流へ続いている。内江は灌漑用水として宝瓶口へ流れ込み、そこからいくつかの用水路に分かれて平原へと流れていく。
この堤防を兼ねる中州は、竹製のカゴに石を詰めたものを積んで造られた。この中州の最上流部が魚嘴で、鋭角になっていて魚の口のようなのでこの名がある。中洲の最下流部が洪水対策のための飛沙堰である。岷江が増水したとき内江へ多量に流れると、平原に水が流れ過ぎて氾濫を起こす。そのため、岷江の水量が多いときは、内江の水が飛沙堰を経由して外江に戻るようになっている。
ここから引かれた水は成都平原5300km2を潤し、成都を天府と呼ばれる豊かな国とした。
2008年5月12日午後現地時間2時ごろ汶川大地震
世界文化遺産に登録されている古代の水利施設「都江堰(とこうえん)」の人工中州の上流部に亀裂が入ったほか、水門管理棟と発電機棟が倒壊していたことが14日わかった。 中国水利省は専門家らを緊急派遣し、上流の紫坪鋪ダムの水位を下げるなどして安全確保を図っており、都江堰の流れに影響は出ていないとしている。 都江堰は2000年以上前の戦国時代、岷江(みんこう)の氾濫を防ぐため建設された中国最古の水利施設。人工中州で川を2つに分け、多くの用水路に分かれて成都平原を潤してきた。 水利省では特に紫坪鋪ダムが決壊するなどすれば、都江堰も甚大な被害を被るとして対応を急いでいる。
このほか、今回の地震の震源地アバチベット族・チャン族自治州には世界自然遺産に登録されている美しい湖で有名な観光地、九寨溝(きゅうさいこう)もある。九寨溝でも山崩れ、土石流、地面の陥没などが発生したが、死傷者は出ていない模様。
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