考古用語辞典 A-Words

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危山漢代兵馬俑坑 2007.03.01更新

危山の漢代兵馬俑坑

【和:きさんかんだいへいばようこう
【中:wei shan han dai bin ma yong keng
秦・漢・三国>危山漢代兵馬俑坑陵

 危山の漢代兵馬俑坑は2002年11月23日、危山の山腹で木を掘り出す作業をしていた土地の農民によって発見された。文物を保護するため、考古工作隊は発見の3日後に現地に赴き、手際よく発掘作業を開始した。
兵馬俑が発見された坑の長さは9.7m、幅は1.9m。坑の中には100体以上の彩色上絵を施された兵馬俑が収められていた。大まかな調査を経て、この兵馬俑坑は漢代の貴族の墓の副葬坑であることが明らかになっている。陣営を組んだ兵馬俑は、漢代貴族墓の副葬のしきたりに従って配置されていた。前には先導の騎兵隊の列があり、中央には立って乗る立車と主の馬車、その後に歩兵隊の陣が置かれている。
30体ほどの俑で編成された騎兵隊は5人横隊。騎馬俑は堂々として真に迫り、周囲を更に護衛隊が固めている。赤色の馬俑は輪郭が鮮明で力強く、耳と尾は作り付けられたものでなく、それぞれ馬の頭部と臀部に開けられた小さな穴に差し込む可動式のものである。
中央は3輌の馬車からなる馬車隊である。前の2輌はそれぞれ4頭の逞しい馬が引く立車で、後の1輌は二轅(馬をつなぐ長柄)の?車(古代官吏専用の軽馬車)である。専門家の説明によれば、馬車の各部品はすべて揃っており、現在までに出土した漢代陶馬車の中でも車体が大きく、格式も高い身分を表すものであるという。これについては、研究の価値も非常に高いということだった。
文献の記載によれば、中国では商・周の時代には一轅戦車による編成部隊がすでに軍隊の主要戦力となっており、戦車を用いて戦を行うことが闘いの常であった。漢代に入ると、戦車は戦には使われなくなったが、身分の象徴として、やはり重要な式典などに用いられていた。
俑陣のしんがりは歩兵隊の列である。歩兵俑は騎兵俑よりやや小さく、盾を手にして威風堂々としている。盾も手も差し込み式のもので、自由に動かせる。調査チームの記録によれば、歩兵俑は80体ほどあり、歩兵隊の周囲には律鼓など、その時代の儀式に用いられた器物が収められていたという。馬俑も歩兵俑も型を使って作ったもので、一部に差し込みの方式を用いるなど、製作技術はかなり高い。
発掘作業が進められる段階で、車馬坑の付近で更に二つの副葬坑を発見された。発掘が完了した2号副葬坑では、5体の端正な女俑が発見されている。そのうちの3体は保存状態がよく、造型がそれぞれ個性的で、衿や袖などは赤く、全身は白く彩色が施されていた。髪の造形は細緻を極め、それぞれの表情を持っている。女俑の一つは横になった姿で出土し、首は一面に赤く塗られ、特に鮮やかであった。風に翻ったような長い袖は薄青色で、些かに赤みも認められる。女俑の周辺では、衣類や楽器を収める箱などの破片が発見されている。
2ヵ月近い時間を費やし、初期段階の発掘調査はほぼ完了したが、被埋葬者の身分など重要な問題はまだ判明していない。発掘された墓の周辺で、新たに2ヵ所の漢代の墓が発見された。山東省文物局長の話では、現在のところ発掘調査がなされたのは、ほんのわずかな範囲に過ぎず、周辺の墳墓の規模も範囲もまだ確定されていない。発掘現場と文物を効果的に保護するため、条件が熟する後日に調査を託し、発掘された3つの墓は特別に調合された土で再び埋められた。
考古調査チームの隊長を務める済南考古研究所の崔大庸所長はインタビューに応じ、危山漢墓発掘の意義について次のように述べた。「墓中の兵馬俑の並べ方は漢代の車馬の遠出の礼儀制度と完全に一致しており、その時代の貴族の遠出の様子を生き生きと反映している。これらの騎兵隊、馬車隊、歩兵隊と器物俑の配置は、漢代の石象図で見たことがあるが、実物の出土は今回が初めてである。今回調査した兵馬俑坑は、規模、構造、意義ともに秦の始皇帝陵兵馬俑、陝西咸陽楊家湾兵馬俑に次ぎ、中国で3番目に重要なものと言ってよい」。出所:「人民中国」

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