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半坡遺址 2007.02.26更新

半坡遺址

【和:はんぱいせき
【中:ban po yi zhi
新石器時代  >半坡遺址

 半坡遺跡博物館は西安市の市街地から東6キロ離れた産河の東側にあり、黄河流域における比較的に完全に整った典型的な母系制社会の村落遺跡である。六千年ぐらいの歴史を持っている。遺跡は面積が5万平米で、居住区と墓葬区に分かれている。
 1953年の春から、5回にわたって発掘を行った。発掘面積は1万平米ぐらいにも達している。発掘によって豊富な科学的な資料が得られた。1958年に遺跡の上に中国で初めての遺跡博物館が建てられた。1961年に国から全国重要文化財に指定された。
 花と樹木に覆われた半坡博物館の庭の中央に池があり、池の中に築山がある。その上に一人の17か18歳ぐらいの少女の彫像があり、少女は麻布のスカートをはいて、腕に陶製腕輪をはめ、手に底尖汲水瓶を持って、しゃがんで水を汲もうとしているが、突然魚と清らかな泉が目に入り、汲むか止めるかと迷っている様子で、多分魚を驚かすことを心配しているのであろう。少女はこのあたりで生活していた半坡の娘である。
 半坡博物館には、展示室が三つと遺跡ホールが一つある。
 第一展示室には、中国原始社会の主な遺跡分布図、半坡博物館の建設、半坡人の生産活動、家畜の飼育、陶器の製造などが展示されている。
 第二展示室には、半坡人の社会組織、村落中央にある大きな長方形家屋遺跡、道具、炊飯用品、芸術と文化、絵画芸術、符号の利用、簡単な計算などが展示されている。
 第三展示室には、補助的な目的で主に陝西省原始社会史が展示されている。

 半坡遺跡は1952年、陝西省西安市半坡村で発見され、面積は5万uです。1954年〜57年、中国科学院考古研究所石興邦が5回にわたり発掘・調査しました。結果、早期(B.C.4800〜B.C.4300半坡類型)と晩期(廟底溝類型から西王村類型)に分類されました。 この遺址は、黄河流域の母系氏族共同体の村落で、遺址は住居・墓地・窯場の3つの区域から成り立っています。人種は黄色人種(モンゴリーデ)の東アジア型(『考古学文化論集』1)とされています。磨製石器の斧・鍬・刀・錐・鑿・鏃・投石球、骨角・貝殻の道具の針・錐・鋸・釣針・叉・鏃・矢・矛が出土しました。窯場は住居区の東側にあり、土製の刀・鑢・紡錘車も見つかりました。
 土器は、甕・罐・鉢・盆・碗で、精良なものと粗雑なものがあります。精良なものの多くは地が赤色(紅陶・土そ篁篁のものの色で、黄土層のさらに下にある紅土層から採取)で、その上に人の顔・魚・鹿などをかたどった黒色(マンガンと鉄をすりつぶす)か褐色の文様(彩文)が描かれています。彩陶彩文土器であることから、専門の職人が存在したと考えられます。仕上は、粒子が細かく粘り気があり、土器の表面が滑らかです。 中央アジアのアナウやウクライナのトリポリエの土器に似ていることから、アンダーソンは、この文化は西方から伝わったとする彩陶西来説を唱えました。甘粛彩陶を収集し、6期に編年分類しました。しかし、甘粛の最も古い曹家嘴遺址より半坡遺址のほうが1000年以上も古く、彩陶は東から甘粛へ伝わりました。故に、彩陶西来説は誤りとされています。 土器作りには、回転台(回転させながら形を整える台でロクロではない…『考古』 1990-12)が使われました。そして、どこにでもある黄土ではなく、もっと深い所の紅土層・水底に沈殿した粘土層を使用しました。焼成温度は、950〜1050度(『考古学報』1964-1)です。
 農耕・牧畜がおもな産業で、644 点の用具出土したことから、狩猟・漁撈も重要だったようです。河に近い平坦な場所を選んで、半地下式の竪穴式住居の家屋を建てて定住生活(『考古学報』1975-1 ・『中国原始社会雕塑芸術』)をしました。
 段丘上の環濠集落で、まわりに幅6〜8m・深さ5〜6mの防御濠があり、外敵を防いでいます。家屋の下半分は竪穴で、上半分が地上に露出した半地下式竪穴式住居です。木の柱を支柱とし、泥で壁を築き、樹の枝や茅で屋根を葺きました。小家族(2〜4人)単位の生活です。
 家屋は長方形・円形で、大部分は10u余で竈の穴があり、窓がありません。部屋の大きさにへだたりがないことから、身分格差がなかったとされます。門口は南向きで、寒冷な西北風が容易には吹き込まない仕組みです。数10棟の家屋が一地域に集中し、村落を形成し、200戸程の家屋があり、500〜600人が生活していました。また、多いときには数百人が共同生活をし、成員として統一的行動をとっていました。まわりに幅・深さ各々5〜6mの防禦溝を施し、外敵を防ぎました。土器の底の圧痕に、筵の類があり、屋内に敷かれていた(中国社会科学院考古研究所・半坡博物館『西安半坡』(原始氏族公社聚落遺址)1963文物出版社)と推測されます。 村全体の食糧貯蔵庫があり、窯場は共有でした。粮食用の作物は主としてあわ・きび、野菜として白菜・からし菜(『西安半坡』)で、漬物・泡菜(『史前研究』)、何かの宗教儀礼に使われた(『西安半坡』)種子入れ(径10pたらずの小さい物)、鹿・豚・牙(水辺の潅木中に住む。現在は華中にしか生息しない)・猪などの家畜がいました。
 土地・家屋・道具・家畜は氏族の公有で、労働・消費は共同で行い、平等の生活をしていました。居住地の中心に1 棟の大家屋(全部で5 棟・集会所)があり、重要な事は全氏族で、共同で相談していました。本家の当主の住居(『考古学報』1983-3)との説もあります。家々は弧を描くように中央の集会所を取り巻いて建っています。 大家屋の室内壁際の床下に、人間の頭蓋骨が埋められていました (『西安半坡』) 。この家屋を守護させる(『江漢考古』1992-2)目的で、首狩りの風習があったとされます。出所:小林松篁

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