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山東龍山文化 2007.07.18更新
【和:さんとうりゅうざんぶんか】 |
【中:Shan dong long shan wen hua】 |
新石器時代>山東龍山文化
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山東龍山文化(黒陶文化)(B.C.2500~B.C.2000)
1928年、山東省章丘龍山鎮の城子崖で発見され、1930年~1931年に発掘しました。そして、黒色土器を持った文化、黒陶文化が出土しました。黄河中・下流域に分布し、大汶口文化と分布範囲がおよそ一致しています。墓などの面でも大汶口文化の習俗を継承しています。数多く、一つの遺跡で山東龍山文化が大汶口文化の上に堆積しています。
こうしたことから、移行期の特徴的な遺物の発見とされ、大汶口文化晩期から山東龍山文化早期への伝承関係が明白になりました。そして、大汶口文化・山東龍山文化は、中国東部黄河下流地区に居住していた東夷の部族の文化が発展して形成した、相前後する二つの文化であることが解明されました。
土器の焼成温度は高く、胎質は硬いのが特徴です。ロクロの使用が一般的になり、器胎の厚さが均一で、器形も均整がとれています。陶・灰陶が主で、紅陶・白陶は稀少です。黒陶には卵の殻のように薄い卵殻黒陶もみられます。卵殻黒陶は山東龍山文化の土器の典型で、胎質はきめ細かく、表面は黒く光沢があり、器壁の厚さは 0.5~1㎜、作りは精巧で、造形も美しいものです。表面は、無文で磨かれて光沢があるものと、突帯文・透かし彫り・箆描文・貼り付け文などの文様や、小さな耳、リベット形の飾りをつけているもの、の2種類があります。雲雷文・饕餮文に類似した文様も出現し、殷・周の青銅祭器に見られる文様の先駆的な例が見られます。
器形は三本の足や高台がつけられたもの、底の平らなもので、尖った底や丸底の器は見られません。蓋・把手・大小の耳・大小の注ぎ口などをつけたものなど、造形的にも変化に富み、また実用的にもなりました。
石器は磨製で、すべての遺跡から半月形・長方形の双孔の石包丁が見つかりました。穀物を収穫するのに用いた新型の道具です。
狩猟や戦闘に使う石の鏃も出土しました。柳葉形・菱形で、中央には脊が突き出し、矢柄に入れる部分は身とはっきり区別されています。しかも切先は射殺するために鋭利になっています。
家屋は、早期は竪穴式住居で、統制をとる主体の存在を示しています。それに続く時代は平地上の家屋です。壁にする部分に溝を掘り、そこに柱を立て、溝に土を戻し、築き固めます。床に石灰を1~2㎜上塗りしています。また、横穴式住居も見つかりました。
経済生産や社会発展の上で、大汶口文化より高い水準に達しました。そして、動物の肩胛骨で占卜をする習俗も出現しました。原始宗教の新しい展開です。
銅器の真鍮(銅と亜鉛の合金)の千枚通しが見つかり、鉱石の豊富な所すなわち甘粛省南部、青海省東部の文化(約紀元前2300年~前1900年)が量・種類とも豊富(『北方文物』1989-2・『考古与文物』1990-3・『考古与文物』1991-2・『考古学報』1981-3)です。しかし、この文明が夏文化であるとするのは誤り(笵文瀾『中国通史簡編』修訂本第一編 人民出版社 1953)です。
山東龍山文化は2つの類型に分類されます。
城子崖類型は、山東省中部の丘陵地帯および西部平原地帯に分布しています。灰陶の比率が比較的に大きく、黒陶は相対的に稀少です。きわめて素地が薄いが卵殻陶もあまり見ることができません。縄文・方格文などの文様や、鬲・斝・などの器形も見られません。こうしたことから、山東龍山文化と、その西部の別の原始文化との二つが、互いに影響し合って出現したと考えられます。
両城鎮類型は、山東省東部と沿海地区に分布しています。
城子崖遺址は、1928年、山東省章丘県(旧歴城県)龍山鎮の城子崖で呉金鼎が発見しました。1930年~1931年、中央研究院歴史語言研究所が発掘(『城子崖』)しました。版築技法で築かれた城壁が発見されました。土器は黒陶・灰陶が主で、焼成温度は1000℃前後です。城子崖遺址下層から陶文が出土しました。また、牛・鹿の肩胛骨の卜骨も出土しました。
両城鎮遺址は、山東省日照県の東北、両城鎮の西北から1934年発見され、1936年中央研究院歴史語言研究所尹達が発掘しました。そして1954年以来、山東省文物管理所・山東大学などが調査しました。陶器は、泥質と夾砂の磨光黒陶です。
日照県東海峪遺址は、山東省日照県の東南部、東海峪村西北から発見されました。1973年に2回と、1975年に山東大学歴史系考古専業が発掘面積800㎡を発掘(山東省博物館・日照県文化館東海峪発掘小組「一九七五年東海峪遺址的発掘」『考古』1976-6)しました。 原始的な版築造りの、長方形の土台をもつ建築が出土しました。建築技術の進歩を示しています。また、饕餮を刻んだ軟玉の斧(『中国文物精華』1992・『考古』1972-4)が見つかりました。
瑤県三里河遺址(B.C.2405~B.C.2030)からは、1975年、人工的に鋳造した小型の銅器が発見されました。錐のような工具で、新しく冶金技術が出現したことを示します。
泗水尹家城遺址は、済南の南100㎞の泗水県尹家城の、南から北に流れる小さい川に挟まれた南北約130m、東西約90mの岡から発見されました。早期は竪穴式住居で、入口を南西隅に南向きに作り、それぞれの家屋が一定の秩序を持って建てられています。統制をとる主体の存在(『泗水尹家城』)を示します。それに続く時代は平地上の家屋です。壁にする部分に溝を掘り、そこに柱を立て、溝に土を戻し、築き固めています。床に石灰を1~2㎜上塗りしています。
鄒平県丁公遺址は、山東省北部、城子崖遺址の東北東50㎞の鄒平県丁公で発見されました。1991~1992年に山東大学歴史系考古実習隊が発掘面積630㎡を発掘しました。そして、房基47座、灰坑697 座、溝9 条、陶窖1 座、墓葬42座、石・骨・蚌・陶・銅器等2000余件が出土しました。
また、横7㎝ばかりの刻文陶片(H1235:2)が見つかり、文字(『出版ダイジェスト』 1993-9-30)の可能性があります。鉢の平らな底の一部に、尖ったもので刻(『考古』1993-4) されています。馮時氏は、彝族の文字(古彝文)(「山東丁公龍山時代文字解読」『考古』 1994-1)だとし、解読しています。古彝族の文字とすることは、前述の、大汶口文化・山東龍山文化は、中国東部黄河下流地区に居住していた東夷の部族の文化が発展して形成した、相前後する二つの文化であることからして、充分に可能性が高く、現在異論は出ていません。
南北約350m、東西約310mの城壁(『中国文物報』1991-1-12・『中原文物』1993-1)が見つかり、龍山文化の中期に築かれ、後期に修理されています。城内に住居跡はありますが、宮殿跡は未発見です。
襄汾陶寺遺址は山西省南部から発見されました。木製の器物、軟玉器が出土しました。良渚文化の影響が見られますが、饕餮は刻されていません。L字形の大型石器が出土しましたが、農具ではありません。太鼓、とぐろを巻いた龍?の紋がある土器の大皿、仰韶文化の土器の鈴と同形の銅の鈴が出土しました。
辺綫王遺址は、山東省寿光県辺綫王から1984年、鉄道建築中に発見されました。山東龍山文化の城壁が見つかりました。出所:小林松篁
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