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良渚文化 2007.03.18更新

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良渚文化

【和:りょうしょぶんか
【中:Liang zhu wen hua
新石器時代>良渚文化

 良渚文化(約紀元前3100年~前2200年)
 良渚文化は、揚子江狩下流、太湖の周辺に分布し、1930年代、浙江省杭州市郊外の良渚鎮で発見されました。黒い光沢のある土器は、山東龍山文化の特徴と一致します。
 1960年代に入り、一つのまとまった文化として認められました(『考古』1988-3)。1994年から、北京大学歴史系考古教研室厳文明・浙江省考古研究所王明達・上智大学が発掘調査し、城壁と思われる小高い土塁に囲まれている版築工法の跡が発見されました。
 浙江省考古研究所王明達氏は「良渚文化の大規模な繁栄ぶりから推測すれば、城壁があっても不思議ではありません。私はこの土塁が城壁であると確信しています」と述べています。城壁とは、戦争目的であり、支配者の存在を意味します。軍人の活躍(『考古』1993-2・『東南文化』1992-1・『中原文物』1992-3・『史林』73-5)も想像されます。 また、良渚の西北西5~6㎞の莫角山では、宮殿が発見されました。ここは杭州平野の西方の天目山から平野に移る境界です。農民を徴集・使役した大規模な土木建築で、3万㎡に及びます。
 祭壇・墓からは、富の象徴である軟玉製品が出土しました。軟玉製品は、人間を活気づけるエッセンスが含まれると信じられていました。緑・茶・黒・橙のトロッとした光沢(半宝石)の装身具・儀式用の武器・祭祀用の道具で、玉琮・玉璧・玉鉞と呼ばれます。
 玉琮は、王の権力を表わすものです。四角と円で構成され、四角い筆立てのような形をしています。方柱形の内側は円筒形にくりぬかれています。直径が20㎝、高さは50㎝を超えることはありません。これは、人間が手に持つのにほどよく合わせて製作されたためです。玉琮は、天円地方(天は円く、地は四角い)を表現しています。円い形を天とし、そこを神の居場所と定めていました。その天を囲んだ四角い形は大地、すなわち人間界を表します。玉琮は、天と大地を合体させた創造物であり、玉琮を持つ者は地上の支配者(巫師)であり、天の神と交信できる存在でした。良渚文化は、祭政一致の巫師社会であり、ピラミット型の支配構造を形成していました。
 玉璧は、巨万の富の象徴で、階級制度の存在を物語ります。天を表わす円をかたどり、真ん中に穿けた円い穴を通じて魂を天に送り還します。大汶口文化灰陶尊の図象記号に似た複合体の玉璧符号も見られます。 
 また、饕餮と呼ばれる古代の人が考え出した想像上の動物で神を守護する怪獣が、32個からなる白玉の首飾り・玉琮などに刻されています。
 良渚文化の遺址にはつぎのようなものがあります。
 瑤山祭壇墓は、1986年、浙江省餘杭県、反山遺跡から東北に約5㎞の瑤山で、王明達氏が発掘しました(『考古』1993-2)。瑤山は、天目山山系に属した背丈の低い山で、中腹から祭壇が見つかりました。長方形に赤土を小高く盛り、突き固め、周囲には黄土を敷きつめています。11基の墓穴からおびただしい数の玉製品の首飾・腕輪・帯留・冠が出土しました。頭の先から爪先まで、その神聖な玉にくるまれていました。このことから、玉葬墓とされています。大型の軟玉製品には、細い刻線を使った細密な装飾紋が刻され、有孔円盤状の器の璧も見つかりました。
 呉江龍南遺址は、揚子江下流の太湖の南、銭山漾の東北50㎞の呉江龍南で発見され、3段階の文化が重なっていました。
 一番下の層は、一つ前の段階から良渚文化に変化する時期のもので、住居跡の一部が発見されたのみです。
 次の層は、良渚文化早期のもので、当時東西に流れる川を挟んで、合掌造りの屋根・井戸など住居跡が多く発掘(『文物』1990-7)されました。川の水流は幅約3m、深さ4m弱で、鏃・漁網の錘・魚貝の死骸などが出土しました。北岸の屈折した所に幅40~50㎝、高さ40㎝ほどの土を敷き固め、非常に堅い堤防も見つかりました。北側には円い竪穴の豚小屋、川岸で水仕事をする場所から砥石、貯蔵用の竪穴、蒲を編んだ敷物・紡錘車なども発見されました。 陶器は、鼎・高杯・鉢・蓋などで、鉢から脂肪等を検出され、スープを作っていたと想像されます。円と、各辺が内反りの三角形か三叉形を組み合わせた紋様があり、河姆渡文化の「日月の鳥の目」に通じます。灰色・焼き上がった時に煙でいぶして表面を黒くしたもの・橙色などのもので、ロクロで成形しています。 靴形石器は、包丁として使用(金関丈夫・国分直一「台湾先史時代靴形石器考」『台湾考古誌』)したと思われます。大型の靴形石器は農具(『農業考古』1981-2)で、山西龍山文化で豚と一緒に出土(『考古』1988-3・『南京博物館集刊』6)しました。他に有孔石斧、歯がない下駄(スリッパ)も見つかりました。 次の層では墓場の埋葬品に差が見られ、身分格差を示しています。また、大腿骨に骨製の鏃が深く刺さったものがあり、鏃の威力を示す例とされます。 反山墓地は、年代は同じですが祭壇がなく、瑤山祭壇墓のような埋葬品もありません。富裕な人々の中にも階層化が進んだ(『華夏考古』1991-4)ものと思われます。
 澄湖湖底遺址は、蘇州東南15㎞の澄湖の湖底から発見されました。井戸は、底にシジミの殻を敷き、直径数10㎝の大木を二つに割って中をくりぬき、あわせて井戸の側としました(『文物資料叢刊』9・『文物』1984-2)。また、石斧が、木の柄がついたまま出土しました。数種の壺の周辺には原始文字が刻されています。 越城遺址から出した石斧は、楔として使用したもの(『考古与文物』1982-1)といわれます。
 銭山漾遺址(B.C.3300~B.C.2600)は、浙江省呉興県東南7㎞の銭山漾の東南岸から 1934年に発見されました。1956・1958年にわたり浙江省文物管理委員会・浙江省博物館が発掘しました。高床住居で、農業は稲・胡麻・ソラマメ・マクワウリ・野生の桃・サネブトナツメ・ヒシ・ヒョウタン・落花生(判定が難しい…『遼海文物学刊』1989-1)等を栽培していました。
 木製で長さ118.5㎝、握る部分は直径4㎝の米搗き用の杵、カラムシから捕った繊維の織物の狩猟漁撈の道具、世界最古の絹織物(『中国紡織科学技術史(古代部分)』)の帯・糸も見つかり、養蚕を裏付けます。竹などを使った敷物・笊やアンペラ(敷物)・籠・箕・木の鉢(『考古学報』1960-2)なども出土しました。 浙江良渚遺址は、浙江省余杭良渚鎮で発見され、1936年に9 種類の刻画符号が出土(施昕更『良渚』 1938 西湖博物館)しました。 
 他に、雀幕橋遺址(B.C.2380)などがあります。出所:小林松篁

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