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二里頭文化 2007.03.18更新

二里頭文化

【和:にりとうぶんか
【中:Er li tou wen hua
殷・周時代>二里頭文化

  二里頭遺跡は、偃師市の西部、伊水と溶水の間に位置する、初期王朝時代初期の都市遺跡である。夏王朝後期の都であるとも言われ、注目される。二里頭遺跡の中心部近くには宮殿区とみられる一帯があり、宮殿址と称される大型建築基址が存在する。そのほか、青銅器製作址、骨器製作址などの工房址、墓地、住居址等が点在する。城壁は発見されていない。二里頭遺跡からの出土品で重要なのは青銅器である。中国文明の特徴ともいえる青銅器は、この二里頭遺跡に端を発するといっても過言ではなく、その意義は大きい。

二里頭文化(約B.C.2000~約B.C.1600)
【考古学ノート】
 1984年から、北京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱堌堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘しました そして、豫北地方が漳河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であることを発見し、二里頭文化期には、漳河型先商文化・岳石文化・二里頭文化の三者が黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されました。
 二里岡下層期には漳河型先商文化が南下を開始し、まず西の二里頭文化に取って代わりました。二里岡上層期には東の岳石文化に取って代わりました。
 この状況は、ちょうど殷(商)が夏を滅ぼした史事と符合します。二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であることが歴史的にも地理的にも証明されることに(北京大学考古学系副教授 劉緒・徐天進「三代文明の探索」『中国の考古学展』平凡社 1995)なります。
 河南省偃師県二里頭遺址は、洛陽の東隣の偃師県で、1950年代終り、徐旭生(著書に『中国古代史の伝説時代』)が発見(『考古』1959-11)しました。殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。
 文字資料が未発見ですが、この文化を四期に分類しています。そして、二期が夏で、以下は殷に入る(『華夏考古』1991-2)とされます。同じ『華夏考古』の1987-2号では、三期までが夏とありました。
 一号宮殿址は、基壇は方形で、南北約100m、東西108mで、北東部に切り欠けがあります。周囲に塀、内・外側に回廊が見つかりました。
 二号宮殿址は、一号宮殿址の東北150mにあり、東西58m、南北73mです。中庭の北寄り、東西の壁から等距離の位置に宮殿があり、東西42.5m、南北12.5mの土壇が出土しました。 宮殿の北に大墓があり、宮殿は付属施設で死者に対する祭祀をするためのものとされます。青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。
 軟玉製品も2種類見つかりました。1種類は、山東の龍山文化に伝統がさかのぼる類の石包丁形・骨製の鋤先形です。もう1種類は、二里頭文化に始まる多角刃斧・戈で、形式に統一が見られます。山東の龍山文化に伝統がさかのぼる類(異文化の重宝)も宮殿近辺の墓から発見されました。王のもとに献上品・分捕物として、各国の名を冠して呼ばれる宝物がありました。各土地の支配者としての権限を授与される際、その印として分与されたと思われます。
 卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認されました。大多数が晩期大口尊の口沿内側(中国社会科学院考古研究所洛陽発掘隊「河南偃師二里頭遺址発掘簡報」『考古』1965-5)に刻され、形状もすでに甲骨文字と良く似ています(李学勤『中国古代漢字学の第一歩』凱風社)。 
【文献学ノート】
 夏王朝の始祖の禹は、嵩山のほとりに住んでいました。嵩山とは五嶽(中国の聖山)の一つです。五嶽とは、東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省)をいいます。
 禹は補佐役の益に禅譲しました。益は禹が死んで3年の喪があけると、禹の子の啓に帝位を譲り、箕山に隠棲しました。
 啓は、釣台(河南省禹県)で多くの部族の首領らを召集して盛大な祭神の儀式を行い、帝位の継承を表明しました。しかし、西方の一部族(陝西省戸県)の有扈氏は、禅譲を主張して反対し、挙兵しました。
 甘水(戸県の西)で開戦直前、啓は上帝(古代中国人が信仰する天上の最高神)の名を借り、「上帝は有扈氏を滅ぼそうとされている。われわれの戦いは上帝の懲罰を行うためである。もし戦闘の最中に、戦車の左側にのる射手が上手に矢を射ず、戦車の右側にのる勇士が上手に敵を殺さず、戦車の御者が上手に馬をやらなかったならば、命令に服従しないものである。命令に服従するものには賞を与える。命令に服従しないものには罪を与えて、あるものは死刑にし、あるものは奴隷にする」と発しました。
 結果、有扈氏が負け、多くの部族が服従し、啓に朝貢しました。啓は王と称して、夏朝(およそB.C.19C~B.C.15C)を建設しました。支配地区は河南省西部・山西省南部で、勢力と影響は黄河の南北から長江流域の一部地方に及びました。各部族・氏族の首領は貴族(大奴隷主)となりました。捕らえた俘虜を奴隷にし、氏族共同体の成員は平民に、一部の平民は没落して奴隷になりました。奴隷と平民は奴隷主の搾取と圧迫を受け、奴隷の生死は奴隷主の手に委ねられました。奴隷社会の始まりです。
 啓(位にあること39年、78歳で死)の死後、太康があとをとりましたが、狩猟に熱中して、民事につとめませんでした(『史記』)。そして、&332703;に天下を奪われます。
 太康の死後、弟の中康が立ちましたが、天下を回復できませんでした。寒b41は、羿を殺して夷族の統領となります。
 中康の孫の少康は、寒浞を攻め滅ぼします。夏王朝の復興です。しかし、7代目の孔甲は好んで鬼神と方(くら)べ、淫乱を事として、夏后氏の徳を衰ないました。「諸侯、来れに之に背く畔く」(『史記』)とあります。
 孔甲あと、子の皋が継ぎました。在位3年、一説には11年です。その後、皋の子の発が継ぎました。在位7年、一説に12年とも13年とも言われます。このころ、夏王朝は急速に滅亡へと向かいます。夏王朝は17人の王に伝えられ、たびたび遷都し、400年続きました。
 B.C.1600頃、発の子の桀が洛陽で位につきました。しかし、桀と貴族等の暴虐無道・財物の浪費は、「ひとたび太鼓が鳴ると、3000人のものが一斉に牛のように首を伸ばして酒池の酒を飲んだ」とあります。桀は人を馬の変わりにして、その背にまたがって歩き、自分を太陽になぞらえました。
 「この恨めしい太陽め、おまえはいつ滅びるのか。こんな苦しい思いをするくらいなら、わしらもいっそおまえと一緒になくなってしまったほうがましだ」と、人民の反乱が起きました。
 商部族(東夷民族)の首領の成湯(大乙・契から14代後)が挙兵しました(『繹史』(清代著・戦国期の古墳から出土した「竹書紀念」から引用)・『晏子春秋』・『呂子春秋』・『史記』)。宰相は伊尹(阿衡)です。成湯は、夏に方伯(一地方の諸侯)として仕え、隣の葛伯など諸侯を征伐しました。
 成湯は、桀を南巣(安徽省巣県)に追放し、夏王朝は滅亡しました。
 商部族(東夷民族)は、黄河下流域に住み、長い歴史をもっています。商の先祖の契はかつて禹を援けて一緒に治水を行い、大きな功績をあげました。湯に至るまでに8 回も国都が遷り、そのたびに部族の成員は増えました。夏王朝の末期になると、商の勢いは発展し、中原政権を脅かすほど非常に強大になっていました。伝説に、「ある日、簡狄という娘が玄鳥(つばめ)の卵を呑み、やがて契という子を産んだ」とあります。
 その後、殷に遷都(安陽県小屯)しました。B.C.300年頃のことです。出所:小林松篁

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