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賈蘭坡 2007.03.22更新
写真・賈彧彰
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【和:からんぱ】 |
【中:Jia lan po】 |
研究者>賈蘭坡
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北京原人とともに歩んだ人生
古人類学者 賈蘭坡氏をしのぶ
1936年に発見された北京原人の頭蓋骨は、東アジアの人類の進化にとって確実な物的証拠となった。それを発見したのは、中国の古人類学者、賈蘭坡氏である。世界的に知られるこの人物は、今年7月8日、93歳の生涯を終えた。あの歴史的な発見から65年、北京原人の発見者には、あまり人に知られていない数々のエピソードがある。
「俺の骨を壊すな」
1908年11月25日、中国の河北省玉田県ミマ家塢にある普通の農民の家に、賈蘭坡は生まれた。幼い時、彼は母方の祖母のいる村で、数年間、私塾に通って勉強した。だが戦乱はこの村にも及び、これを逃れて彼の一家は北京に移住した。当時の賈蘭坡は13歳。父親はほどなく彼を高等小学校に入れて勉強させた。
だが賈蘭坡の家はひどく貧しかった。このため彼は1929年、高校を卒業したが、それ以上学業を続けることはあきらめざるを得なかった。そこで21歳の賈蘭坡は、仕事を探しながら北京図書館で独学するようになった。彼は毎日、一番早く図書館にやって来て、書架や新聞の綴じ込み棚から雑誌や新聞を取りだし、一日中これを読みふけった。彼がよく読んだのは『科学』『旅行者』などの雑誌で、大自然の神秘にすっかり魅了されたのだった。
1931年、賈蘭坡は中国地質調査所の試験に合格し、訓練生になった。訓練生の地位は所内でもっとも低く、「先生たち」の末席に連なって、上の人たちと食事をともにすることができるだけで、それ以外は、骨の折れる仕事ばかりをしなければならない。例えば発掘用品を買いそろえ、外部から訪れる学者を案内して各地を回り、地質を調べ、彼らが採集した標本を背負い、労働者たちといっしょに化石の発掘をするのである。
地質調査所に来たばかりのころの賈蘭坡は、考古学や古生物学の知識がまったくなかった。化石を掘り当てるたびに、虚心に労働者たちに教えを請うた。労働者たちはこころよく、「これは豚の化石だよ」「これは鹿だ」「これは羊」と教えてくれるのだった。
当時、中国における古人類学や古脊椎動物学はようやく始まったばかりで、国内には哺乳動物に関する教科書さえ一冊もなく、1885年に英国で出版された『哺乳動物の骨格入門』という英語の本を誰かが借りて来ると、それはみんなの宝物のように珍重された。夜中に、ほかの人がこの本を読まない時に、賈蘭坡はこの本を読んだ。だが、理論的な基礎がなかったため、読み始めたときは大変苦労をした。はじめは一日で半ページか一ページしか読めなかった。英語の基礎もなく、そのうえ専門用語が多過ぎて、辞典にも載っていない単語もあり、人に教えてもらいながら読むしかなかった。
動物の骨格についてもっとよく理解するため、賈蘭坡は労働者たちとともに動物解剖の実験をした。ときに労働者たちがそそっかしいやり方でしくじると、彼は傍らからいつもこう叫ぶのだ。
解剖が終わると賈蘭坡は、改めて骨を煮たあと、さらにカセイソーダで煮て、骨の油を取り去り、それから骨を一つ一つ組み立てて完全な骨格にし、異なる部分に別々の色を塗り、書物にある名前と一つ一つ対照して、その名前を紙に書いて骨の上に貼り付けるのだ。
ある日彼は本屋で、米国科学院アカデミー会員のオズボーンが書いた『旧石器時代の人類』という英文の本を見つけ、飛び上がって喜んだ。しかし値段を尋ねると、なんと彼の月給の三分の一もした。考えに考えた末、買わずに家に帰った。だが、帰宅後もあれこれ考え、翌日ついに決心して、走って本屋に行き、その本を買った。
のちに賈蘭坡は協和病院で解剖学を研修したが、その時いつもポケットにヒトの手の骨を入れていた。そして暇なとき、ポケットに手を突っ込んで骨をまさぐり、一つ一つの骨がどこの骨かを判断した。判断が当たれば反対側のポケットにその骨を入れる。間違えればもう一度やり直す。こうした訓練を重ねたすえついに彼は、左右の手の骨を正確に判別し、豆粒大の人骨と動物の骨も判別できるようになった。
だが当時、中国地質調査所北平分所の所長だった楊鐘健は、そんなことは信じられないと言って、骨を紙で包んで、紙に人さし指くらいの小さい穴をあけ、賈蘭坡に中の骨を判別させた。賈蘭坡は穴を透かしてちょっと見ただけで、正確にその骨を判別してしまった。
懸命の勉強とたゆまぬ努力の結果、賈蘭坡は1934年、「技佐」(大学の講師に当たる)の職に昇任し、周口店での仕事を指揮し、責任を持つようになった。
三つの頭蓋骨を発見
1936年、地質調査所は北京の南西にある周口店で、人類の化石を探す発掘作業を続けていた。しかしわずかばかりの人類の歯以外は、なんら収穫はなかった。もし今後六カ月以内に重要な発見がなければ、米国のロックフェラー基金は、周口店発掘に対する資金援助を中止することになっていた。
人類の化石は見つからず、もう手の打ちようがないと関係者たちが考え始めた時である。10月22日午前10時ごろ突然、賈蘭坡は二つの石の間に、人類の下顎骨が露出しているのを発見した。彼はすぐ地面に腹ばいとなり、慎重にこれを掘り起こした。この重要な発見で、彼の確信は深まり、引き続き発掘を続けることが決定された。
さらに11月25日午前9時半、同僚の張海泉が、発掘したクルミ大の骨のかけらを小さな手提げ籠に放り込んだ。これを見た賈蘭坡が「それは何だ」と尋ねると、張海泉は「ニラです」と答えた。「ニラ」とは「砕けた骨片」を意味していた。だが賈蘭坡がこれを手にとって見た。そして驚いて思わず叫んだのだ。「これはヒトの頭蓋骨じゃないか」
すぐに骨の出た現場を縄で囲んで立ち入り禁止にし、豆粒大の骨のかけらも残さないよう、細かく丁寧に発掘を行った。そしてわずか50センチほど範囲から、多くの頭蓋骨の破片が見つかった。続いて耳の骨、眉の骨も出土した。正午までに頭蓋骨まるまる一つ分の、すべての破片が掘り出された。賈蘭坡はそれを事務室に持って帰り、まず骨をこまかく整理し、そして火にあぶって乾かし、一つ一つの破片をくっつけて復元した。
周口店の発掘調査を点検するため、当時中国に滞在していた世界的に有名な人類学者、ワンデンライヒは、人類化石発見のニュースを聞いてベッドから飛びおり、大急ぎで服を着替えて、妻と娘を連れ、周口店に駆けつけた。「彼は興奮のあまり、ズボンを表裏あべこべにはいてしまったのですよ」と奥さんは述懐している。
「北京の化石人類」の頭蓋骨を手にした時、このドイツ籍のユダヤ人学者の手はぶるぶると震えた。彼にはこの頭蓋骨の持つ価値がよく分かっていたからである。
1892年にオランダ人のユージン・デュボアがジャワ原人の化石を発見し、これが猿から人類に進化する「ピテカントロプス・エレクトス」だと判断した。しかしデュボアは、キリスト教会から厳しく責めたてられ、やむを得ず化石を金庫の中にしまうほかはなかった。しかも自分の意に反して、自分の説を否定したのである。
だが、「北京の化石人類」が「北京原人」と判定されたことによって、人類が猿から進化したという事実が再び証明された。
最初の発見に続いて賈蘭坡は、また二つの北京原人の頭蓋骨を発見した。最後に発見された頭蓋骨は、かなりよく整っていて、神経を通す大孔の後縁部や眉の骨、眼窩の外縁部までも保存状態が完全だった。
わずか11日のうちに、原人の三つの頭蓋骨と一つの下顎骨、三枚の歯を発見したというニュースは世界を驚かせた。地質調査所は賈蘭坡の写真を百枚以上焼き付けて、世界各国の通信社に提供した。国際学術界は北京原人の発見を「古人類学の歴史において最も意義のある、最も感動的な発見」とたたえた。名もない小さな町だった周口店は、一躍、世界的に有名な場所となった。
周口店に始まり、彼の眼はずっと人類の起源の研究に注がれた。そして有名な「藍田人」「丁村人」「許家窰人」などの化石を相次いで発見し、中国の旧石器時代に関する考古学の発展の基礎を定めた。
1994年4月、賈蘭坡らは河北省陽原県で、数多くの古い石器と骨器を発見した。この発見は、人類の起源を4、5百万年も前にさかのぼらせるものであった。そればかりか、人類の発祥地はアジア――おそらく中国であるという説を確証する新しい証拠となった。米国や日本、カナダなどの新聞はみな「人類の起源の時間と場所が書き直される」という見出しでこの発見を報じた。・・・・・・出所:「人民中国」張春侠
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