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春秋戦国 2007.04.16更新
【和:しゅんしゅうせんこく】 |
【中:Chun qiu zhan guo】 |
春秋戦国>春秋戦国
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春秋戦国時代 周の東遷から紀元前三二一年の秦の始皇帝の天下統一まで、ほぼ五五〇年のあいだ、実質のない「東周にという呼び方よりも、「春秋戦国にと呼ぶほうが適当であり、また一般的でもある。
東周諸侯の一つに「魯」があり、この国の年代記を『春秋』という。孔子が編集したともいわれているが、紀元前七三二年から同四八一年まで約二四〇年の記録である。この時期を春秋時代と呼ぶ考えもあるが、開始と終了の年には特別な歴史的意義はないので、周の東遷から晋という超大国が、韓・魏・趙伊三国に分裂した前四〇三年までの約二六〇余年を「春秋」、その後、秦の統一までの一八〇余年を「戦国」と呼ぶのが普通である。司馬光の『資治通鑑』もそれに従っている。春秋時代は、名のみとはいえ、周の天子が象徴的宗主として尊敬され、礼的秩序も守られていたが、戦国時代にはそれがまったくなくなったとする見方が定説である。だが、封建体制の崩壊の過程であることは同じで、春秋と戦国とは同じ視野に入れて考えなければならない。
春秋末期に、孔子を含めた「諸子百家」が登場し、中国思想と称されるものは、ほぼこの時期に出揃ったといってよい。戦乱に明け暮れたようにみえるが、そこに地域的な交流があり、諸侯による富国強兵競争もあり、活気に満ちた時代であったといえる。
儒の孔孟に対して、道の老荘の説があり、任侠と兼愛(博愛)思想の墨子、さらに法家、名家、陰陽家など百花群耀の観があった。儒のなかでは、孟子の性善説と荀子の性悪説が対立し、後者からは韓非子などの法家へ傾く流れがあり、現実の政治と密接に結びついたものだった。ただ老荘は、現実からはなれることをめざす傾向が強かったといえる。
『史記』には、春秋期に相当する時代に「十ニ諸侯表」がつけられ、戦国期には「六国表とがつけられている。春秋期には多くの諸侯国があったが、戦国期には淘汰されたことになる。弱肉強食の結果にほかならないが、戦国期は、秦を除いて魏・韓・趙・楚・燕・斉であり、彼らは鎬を削って争った。そのスパークから新しい時代が生れたのである。出所:「中国ー世界の歴史と文化」
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