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秦代 2007.04.18更新
【和:しんだい】 |
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秦・漢・三国>秦代
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奏の天下統一は、始皇帝一人の力によったのではない。数代にわたる蓄積があったのだ。商鞅が政治改革を行い、全体主義体制をつくりあげていた。始皇帝登場以前に、お膳立はととのっていて、彼の強烈な個性が、それを踏み台にして、大偉業を成しとげた。
「皇帝」という言葉は、彼がつくったのである。春秋時代までは、周の王だけが王と称していたが、戦国時代になると、どの諸侯も王と名乗るようになっていた。楚や呉や越といった南方系の諸侯は、もともと周の天子に封建されたのではないから、早くから遠慮なく王の称号を用いていたのである。
天下を統一したとき、始皇帝はまだ秦代王と称していただけだが、この偉業に対しては、王号だけでは物足りないと考えた。そこで、これまで誰も使ったことのない「皇帝」という称号をつくって、自分を絶対化しようとした。またこれまで一般的な第一人称であった「朕」という言葉を、皇帝以外は用いてはならぬことにした。
始皇帝の業績として知られているのは、ほかに「同文同軌」がある。戦国の諸国はそれぞれすこしずつ形の違った文字を使っていたが、それを秦の小篆という形に統一した。当時の道路は轍が深くくいこんでレール状に窪み、そこに車輪を入れて走った。外国の戦車の侵攻を防ぐために、各国はみなその幅を違えていたが、天下が統一されると、そのようなおそれはないというので、全国同じサイズにした。同じ車で全国どこへでも行くことができたのである。
次に「郡県制」がある。全国を三六の郡に分け、その下にそれぞれいくつかの「県」を置く。首長はすべて中央から任命された役人である。号令一下、天下はすべて皇帝の思いどおりに動くことになった。始皇帝は、春秋戦国の乱戦は、周が王族や功巨に領地で与えた封建制に起因すると考え、再び乱世が到来しないように、郡県制度を採用したのである。
塞外の匈奴に備えるために、万里の長城を築き、壮大な阿房宮を造営し、自分のために驪山の麓に陵をつくった。兵馬庸坑の発見で世界を驚かせたが、始皇帝にとっては、これなどはたいしたことではなく、記録にも残していない。やることが、すべて桁はずれであったのだ。
始皇帝が、後世の人に最もきびしく批判されているのは、言論思想の統制であろう。悪名高い焚書坑儒も、始皇帝にすれば、乱世の再来を防ぐための措置だったのだ当時の儒は、後世の御用儒学と違って、批判、抗議の精神を強烈にもっていたのである。
始皇帝は秦帝国が永遠に続くと信じていたようだ。これだけ強圧的で、厳罰主義の法律をもって臨めば、背く人民はいないだろうと考えた。これまでの王朝は、王の死後、その業績を検討して、文王だとか武王、昭王といった論をつけた。だが、始皇帝はそれを廃止した。臣下が皇帝の業績を吟味するとはなにごとか、というわけである。諡号を廃止して、自分は始皇帝、次は二世皇帝、三世皇帝と、伝えて無窮にいたらん、と傲語した。
ところが、紀元前二一〇年に始皇帝が死ぬと、帝国はあっけなく崩壊してしまった。厳罰主義はかえって裏目に出たのである。長城や陵墓造営にあたって、全国から人夫を徴用したが、某月某日までに必ず到着せよ、遅れになら死刑という法律があった。始皇帝の死後、異常気象で雨が多く、道路が水に流されて、徴用人夫集団は、期日どおり指定地に到着できないことになった。遅刻しヽ殺されるなら、いまここで反乱をおこしたほうがまし
ヽと考えて、いたるところで造反軍が蜂起した。数ある造反軍団のなかから、項羽と劉邦が頭角をあらわし、まず項羽が秦をたおしたが、その後、両者の争いは、劉邦の勝利に帰した。項羽は楚の将軍という名門出身で、他人を容れる度量がなかった。戦勝はすべて自分の力によると考えたのである。それに反して、卑賎の出身である劉邦は、将軍の韓信、参謀の張良、補給の蕭何といった、すぐれた人材をよく使い、勝利は彼らのおかげであるという、謙虚な姿勢をみせた。そのため、次々と彼の陣営に投じる人がふえ、ついには項羽の部下である楚の人たちも帰順した。こうして項羽は「四面楚歌との状態で、敗北を喫したのである。出所:「中国ー世界の歴史と文化」
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