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漢代 2007.04.18更新

漢代

【和:かんだい
【中:Han dai
秦・漢・三国>漢代

 紀元前二〇二年、劉邦は長安に都を置き、「漢」という王朝をはじめた。前漢と後漢あわせて、約四〇○年の長命王朝が維持されることになった。
漢は秦の失敗にかんがみて、「郡国制度」をつくった。秦の郡県制度では、任命された首長は、土地とのつながりが薄く、反乱がおこるとすぐに逃亡したり、殺されたりしてしまう。そこで、要所要所に「国」を置いて、皇族の領地としたのである。割拠しないように、中央から「相」という長官が国に派遣されているが、いざとなれば真剣に領地を守ることが期待された。だが、やはり呉楚七国の乱といった皇族の反乱はおこったが、漢はそれを切り抜けたのである。
漢初の重要問題は「匈奴」であった。歴代王朝は塞外民族対策に悩まされたが、漢では武帝(在位前一四一~前八七)の積極策によって、外征を重ねて、ようやく彼らの侵攻を抑えることができた。匈奴問題が解決するのは、匈奴の内訌分裂によって、降伏する首長が出た宣帝(在位前七四~前四九)以後のことになる。
漢の禍はじつは外戚問題にあった。皇后の一族が実権を掌握して、専横な行為に及ぶのである。紀元八年、前漢は外戚の王莽によって乗っ取られてしまう。皇族の一人であった光武帝の決起によって、漢はまたよみがえり、紀元二五年以後は、後漢と呼ばれる王朝が続く。ただし、この王朝も外戚に悩まされた。外戚の専横を防ぐために、皇帝周辺は宦官を用いて抵抗することになった。こうして、宦官の禍が加わることになったのである。
前漢の武帝のとき、儒が国教となり、体制に組み入れられた。儒にとっては一種の堕落という面はあったが、外戚や宦官に抵抗する人たちの精神的な支えにもなった。とくに後漢は地方豪族連合政権という色彩が濃厚であり、士大夫階層の拠りどころは、やはり儒でなければならなかった。
外戚は士大夫階級から出るが、宦官は別の世界の人間である。士大夫は宦官を忌み嫌ったものだった。宦官もまた士大夫に対して敵意をもった。後漢末に社会矛盾は極度に達した。 一般の人の生活は苦しく、彼らは宗教に救いを求めた。仏教はまだ普及せず、彼らに救いの手をさしのべると称したのは、道教系の教団の「太平道」であった。彼らは目印に黄色い中をつけたので「黄巾」と称された。
一八四年、太平道はついに造反に立ちあがり、「黄巾の乱」と呼ばれた。政府は鎮圧の軍隊を送った。その軍隊は黄巾を鎮圧したが、軍閥化したのである。軍閥というが、その出身は士大夫であった。彼らは黄巾軍を討った余勢をかって、宮中に巣くう宦官たちをみな殺しにした。その立役者は名門の袁紹であったが、それによって、いわゆる三国志の幕が切って落されたのである。出所:「中国ー世界の歴史と文化」

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