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茂陵博物館 2007.06.27更新
【和:もりょうはくぶつかん】 |
【中:Mao ling bo wu guan】 |
研究機関|秦・漢・三国>茂陵博物館
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陝西省咸陽市五陵塬にあり、漢の武帝の茂陵、霍去病の墓および大型石刻群で内外に名を馳せる前漢時代史博物館であり、1979年に落成。茂陵は漢の武帝劉徹(紀元前156年一紀元前87年)の陵墓で、前漢の皇帝陵の中でも規模最大のもので、その周りには副葬墓が20余力所もある。同博物館は漢の建築様式をまねて建てられたもので、館内の建築物は一代庭園の特色を取り入れ、ユニークな趣みがある。館内には3500余点の文物が収蔵されており、前漢前期の遺物を主とし、現在は「前漢歴史文物展」と「陽信墓出上貴重文物展」があり、前漢の文物が320点も展示されている。同博物館の主な展観は霍去病の墓の石刻もあり、これら漢代の石刻は世界彫刻美術史の中でも重要な地位を占めており、現在までのところ中国でもっとも早く発見された最も大きな、最もよく保存された大型石刻群でもある。出所:中国の博物館案内
「茂陵」は陝西省興平県,西安から40キロ離れたところに位置した漢の武帝劉徹の陵墓である。 1961年,国務院の全国重点文物保護単位に指定された。
茂陵の高さは46.6メートル,前漢諸陵のなかで最も高いものである。その規模は広大で,築造期間も最も長く約53年もかかっている。陵内には珍しい宝物が数えきれないほどある。
前漢帝王陵の墳墓は土で築かれ,四角錐形をしており,おごそかで安定感がある。茂陵の周囲には,元来数多くの建物があった。官僚や豪族が居住した園宅のほかに祭社の殿堂,守陵人の住居などもあった。当時,樹木に水をやったり,掃除をする人は5,000人にも及んだということである。
当時,茂陵の東南に茂陵県城が作られ,あまたの文・武大臣,富豪名門はみなそこに住んでいた。『漢書・地理誌』によると,当時茂陵城の人口は277,000人余りで,その人口は前奏「五陵」のうちで最も多く,その繁栄ぶりは天下一で,長安の高官や富豪までも茂陵に移り住むことを望んでいたと言う。
今日の茂陵博物館は富去病(B.C. 140~117年)の墓地の上に建っている。現在霍去病の墓そのもの以外に,墓前の16体の大型石彫も墓の両側の廊下に展示されている。また歴史文物展示室を設け,茂陵附近で出土した文物をそこに展示している。
霍去病は前奏時代の青年軍事家で,前後6回にわたり塞外(長城の外)に出兵し,長く苦しい困難な戦争をへて,遂に匈奴貴族の何度かの侵略を打ち破り,前奏辺境地域の民衆の生命と財産の安全を守った。
一方,西アジア諸国と中国との経済,文化の交流も促進した。漢の武帝は彼を大司馬標騎将軍冠軍侯に封じた。彼は元狩六年(B,C. 117年)病死したが,その時わずか24歳だった。武帝は彼の戦功を顕彰するため,茂陵の傍に陪葬し,祁連山のような形をした墓を造り,墓の前にさまざまな石人と石獣をたてた。
これらの彫刻のうち,もっとも有名なのは「馬踏匈奴」である。記載によると,これはおそらくこの墓の主像と見られる。石馬は実際の馬とほぼ同じ大きさで,首をまっすぐにあげ,尾は地面にたらしている。
馬の腹の下には,仰むきに倒れ両手をあげ,手に弓と矢を持ち,必死でもがいているひげ面の人が見られる。この兵と馬は富去病がかつて辺境の戦場を馳せ廻った頃の英雄的姿を雄々しく見事にまとめて表現している。
その他,躍馬,臥馬,猛獣食羊,熊など15体の石彫がある。造型は漸新で,手法は古朴で,前漢の強大な国力を反映している。これら大型の石彫は,わが国が現在保存しているまとまった古代の巨大石彫群のうちで,最も古く最も完全で,内外に広く知られた画期的な傑作である。「参考資料」『中国唐俑の美』
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