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曾侯乙墓 2007.07.16更新

曾侯乙墓

【和:そうこういつぼ
【中:zheng hou yi mu
春秋戦国>曾侯乙墓

[湖北省随州市]
1977年に雷鼓墩で発見されたこの墓は竪穴木槨墓で、漆で描かれた木の棺も見つかっている。被葬者の身分は曾侯(曾国の殿様)、名は乙、楚の恵王56(前434)年頃になくなった人物で、墓の年代は戦国初期である。出土品は楽器・盾などの漆器や65点がセットになった編鍾をはじめとする青銅器、金杯など5種類の金器、十六節龍鳳玉飾や二匹の龍が対峙する玉璧などの玉器、絹・麻織物が発見されている。戦国楚地域の文化を知る上で重要な遺跡である。出所:「世界四大文明・中国文明展」
古本の記載によると、中国古代の統治階層は、音楽を非常に重視し、詩は人々の精神に影響を及ぼし、礼儀を知ることは人々の行為を規範化することから、国にとって美しい音楽があることは隆盛のシンボルだと主張している。よってその音楽が良いかどうかで国の盛衰が判断できるのである。1978年、中国中部の随州市の墓から大型な青銅編鐘が出土し、国内外で注目された。この発見は実物から典籍の記述を立証し、人々が中国古代の社会文明を理解することに新しい証拠をもたらしたのである。
1978年2月、湖北省随州市郊外の工事現場で普通の土とは異なる「暗色土」を突然発見した。「暗色土」とは、地層の中で積って埋蔵された人類活動の遺跡を指すものである。このことは考古において新たな発見となった。東西長さ21メートル、南北広さ16メートルの古墓が発掘された。墓室を開けると、巨大なうわ柩の上に大きい板石47枚がかぶさっており、この板石を起重機で吊り移してみると、深さ約3メートルの水溜りがあり、水面の上には柩木が浮かんでいた。考古学者は水をくみ上げながら、柩木をきれいに整理した。世界を驚かせる文物が現れたのである。さらに発掘し整理すると、中には合わせて1500万件余りの文物が出土し、青銅器、楽器、兵器、車馬器具、金器、玉製の器具、竹製の器具なども出土した。多くの器物は造型が奇異で、形象は迫力があり、紋飾りは華やかで美しくて、非常に豪華である。すべての文物の内、最も注目されたのは65件の青銅器編鐘である。
これらの編鐘はいままでに発見された最も大きな古代楽器であると同時に、青銅の鋳造工芸や楽器のすぐれた技術を併せ持ったすばらしいものである。編鐘は形状によって、大小と音の高低の順序で8組に分けられ、その内、最大の鐘は高さ153.4センチ、最小のものは高さ20.4センチである。その全体の重さは2500キログラムに達している。これらの編鐘は銅と木を混同した3階立ての鐘棚にかかっており、鐘の上に古い篆書銘文が合わせて2800字余り彫られている。その音を測ると、1つの鐘は2つの音質を出すことができ、音律も正確で、音色が美しく、今日でも各種の曲調を演奏することができるという。
 考証によると、この古墓は戦国時代の曾国の貴族である曾侯乙の墳墓であると専門家は認定した。曾侯乙とは、文字から解釈すると、曾国の「乙」という名前の王侯だという意味である。墳墓の中の銘文や炭素14による測定に基づいて、専門家は、この墓の主人が埋葬された年代は紀元前400年ごろだったことを知った。
 曾侯乙墓は地下水の下にあるため、埋葬後まもなく、地下水が墓内にしみ込んで、副葬品が長年にわたって水中に浸されていた。しかし、このことから墓内の宝物が墓盗者に盗まれなかったともいわれている。
 曾侯乙墓の発掘が終了した後、地元政府は専門の博物館を設立した。そこには墓内から出土した文物を収蔵・展示し、「曾侯乙墓の遺跡」を復元し、「編鐘陳列館」を設立した。また、編鐘を使っての楽隊を組織し、人々に昔の音楽を伝えている。 

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