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如来三尊像 2007年12月13日(木)更新
【和:にょらいさんぞんぞう】 |
【中:Ru lai san zun xiang】 |
晋・南北朝|石器・ガラス>如来三尊像
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石造漆箔
総高33.0
梁・中大同元年(546)
顧延氏寄贈
上海博物館蔵
南北朝時代、江南(長江の中下流以南の地域)では、宋・斉・梁・陳と漢民族の王朝(南朝)が続き、華北の異民族政権(北朝)との拮抗のなかで、芸術・文化が育成された。仏教もこの時代には多くの人々に信仰され、特に梁時代には、都の建康(南京)に七百余寺があったと伝えられるように、国家的規模で崇仏の気運が高まった。当時の仏教をめぐる情勢は、南朝の仏教遺物が北朝のそれに比べて極瑞に少ないことから、文献を通して大略が推量されるにとどまっていた。また、仏像様式研究も現存作例の多い北朝を対象とするものが中心であったが、近年では北朝造像様式に南朝の与えた影響の少なくないことが指摘されている。
本像は、南朝の紀年銘を有する数少ない遺品の一つとして、すでに清時代の金石学者にも取り上げられ、以来、四川省成都万仏寺址出土の石仏像などと共に南朝仏像の貴重な作例として広く世に知られている。舟形光背の中央に宝珠形頭光をつけた如来坐像、左右に脇侍菩薩像を彫出し、宣字形台座前面には一対の獅子と博山炉を半肉彫で表わす。中尊と両脇侍の間には比丘形、光背上部には如来三尊と左右各八体の声聞、山岳文などを線刻する。中央の如来坐像は、頭髪を螺髪とし、三道を刻出せず、内衣の上に大衣を着し結跏趺坐する。大衣は台座前面に大きく垂らした裳懸座とする。なお、両手とも第四、五指を念じる印相は、南北朝時代の遺品にはあまり例がなく、唐代に降った河南省龍門石窟の遺品に同様の印を結んだ阿弥陀如来像などがある。
左脇待は合掌し、右脇侍は胸前で宝珠状(あるいは盒子ともいわれる)の持物を執る。両脇侍とも高めの宝冠、胸飾をつけ、下半身に裳をまとうが、装飾は極瑞に少ない。また、腰紐の位置がかなり低く上半身の長さが強調されているが、こうした像容は同時期の北朝の遺例中にも散見され、南北両朝の造像様式の影響関係を比較考察する上での一材料となろう。
光背線刻図の上半分は、仏の説法を聴聞する様子を表わしているようである。下半分は水波とおぼしき模様と山岳文を背景に幾種類かの事物が描かれるが、簡略かつ稚拙な表現で、それらが何を象っているのか明瞭でない。しかし、構図上、四川省成都万仏寺址出土の石刻画像会(『法華経』普門品に基づいた浄土と娑婆世界を表す)と類似する点があることから、何らかの経典に基づくいわゆる変相図の一種である可能性も考えられる。
背面二ヵ所に銘文があり、中央に大きく刻された七行の銘には、梁・中大同元年(546)の年号と造像主である慧影の名がみられる。多数の作例が残る北朝の造像銘では、尊像名あるいは「造像」「敬造」などの語が銘文中に記される例が多いが、本像の場合その記述がない点が特異である。下方の銘には、清時代の同治七年(1868)に李嘉福が呉門(現在の蘇州を指す)においてこの像を得た旨が記されている。出所:「上海博物館展」
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