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東籬採菊堆朱盒子 2007年12月15日(土)更新
【和:とうりさいぎくついしゅごうす】 |
【中:Dong li cai ju dui zhu he zi】 |
宋・遼・金・元|彫刻・書画>東籬採菊堆朱盒子
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上海市青浦県任氏墓出土
木製漆塗
高3.9 径12
元・十四世紀(1338~53)
上海博物館蔵
中国で漆器が広く一般に流布しはじめるようになったのは、およそ宋時代のころと思われ、そうした傾向はつぎの元時代(1272~1367)にもひきつづきうかがえる。そして、この充時代は漆工品にかぎらず、陶磁器、金工品など他の工芸品についても、生命力にあふれた迫力ある作品があいついで産み出されたときである。漆器を見てみると、おおよそ、無文漆器、堆朱・堆黒といった彫漆類、鎗金、螺鈿の四種の技法による作品が中心となっている。これらはひとしく、この期間にめざましい発達を遂げ、それぞれにつぎつぎと名品がつくりつづけられた。こうした元時代は、中国漆芸史のなかのひとつの最盛期をむかえたときといえる。
この盒子はそれらのうち、堆朱と呼ばれる技法によって制作されたものである。堆朱は器体に朱漆を何層にも塗り重ね、その乾燥後に刀で文様を彫りあらわしたものであり、この種の技法はおおむね、宋時代になってからはやりだしたようである。
この堆朱盒子はいわゆる伝世品とはちがい、出土品であることがめずらしく、これまでのところ、元時代の彫漆作品に関して、さほど詳細に言及できない状況に一筋の光を投じてくれたきわめて重要な意義をもつ作品である。
これは一九五二年に上海市青浦県の重固郷にある元時代の任氏墓から出土したものである。この墓は元時代の著名な画家任仁発(1255~1327)の一族六人を葬ったもので、この墓群からは白磁、青磁などの陶磁器をはじめ、漆器、金・銀・銅・錫の金工品や、硯といったさまざまな副葬品が発掘されている。墓誌によると、墓葬のもっとも早いのが任仁発で、もっとも遅いのが任仁発の孫任士文の妻欽察台守貞である。守貞が亡くなったのが1353年のことであるから、この墓葬期間は1327年から1353年の二六年間ということになり、これらの出土品の年代がおさえられる。しかし、報告によると、発掘時には任仁発の墓はすでに盗掘にあって、墓誌以外はなにも発見されなかったということであり、これらの品々は任仁発のつぎに埋葬された彼の甥任良佑(1281~1338)が死んだ1338年と1353年のあいだに副葬されたということになる。
いずれにしても、これらの発掘品は元時代の後期における工芸界の動向を知るうえに貴重な資料となっていることにはかわりはない。
円形、印籠蓋造りのこの盒子はやや小ぶりで、内部と底裏は茶味をおびた黒漆塗りとしている。蓋表にはあまり類例のない一風変わった流水文を地文にして、松樹下の雑の近くで植木鉢をもつ侍者を脇にしたがえた一人の老人をあらわし、蓋と身の側面にはキーフレット文(雷文)をまわしている。
図様から、これは東晋時代の隠逸詩人として有名な陶淵明(365~427)が菊の花を愛でる情景を示したものであることが知られる。彫漆器の主題にこうした人物故事をとりあげる例はしばしば見出され、そうした例はほかに、王羲之の蘭亭曲水宴や、蘇東坡の赤壁賦などを図化した作品が現存しているが、陶淵明を題材にした彫漆作品はいまのところ、この盒子が唯一である。
この堆朱盒子は元時代のたの堆朱作品群と比較すると、その作風がそれら一連のものと異なっている点がみとめられる。たとえば、それは朱漆の層が薄めになっていること、松の樹皮や流本文、また土坡や岩などの文様にみられる特徴ある彫法などにおいて顕著にみとめられる。ことに、きわだった相異をみせているのは彫法である。ここでは、人物や、岩、土坡の表現をつとめてフラットに仕上げており、この手法は通常の思い切って凹凸や陰影をつけ
たたちのものとはずいぶんと相異している。
こうした点はそれ自体、この盒子を特色づけていることであるが、この作品の最大のみどころはやはり、そこにみられるあざやかな刀のあつかいであろう。彫漆作品全体を通してみても、この作品ほどのとぎすまされた刀の冴えを示したものはほかに見出されない。出所:「上海博物館展」
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