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咸陽楊家湾前漢墓出土の加彩兵馬陶俑 2007年12月29日(土)更新
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紀元前179~前141年
楊家湾前漢墓は,咸陽市東北にある楊家湾村北方の原野にあり,前漢の高祖劉邦の長陵と景帝劉啓の陽陵のあいだに位置し,長陵に比較的近いので,あるいは長陵の陪葬墓であるかもしれない。1965年秋,墓の南方70メートルにある台地から加彩兵馬俑坑が発見され,ただちに発掘訓査が開始された。そして同年の11月までに合計俑坑10個と戦車坑1個の発掘がおわった。南辺の2列になっている4つの坑は武士の立俑坑,北辺の3列になっている6つの坑は騎馬武士の俑坑であった。これらの副葬坑からは騎馬俑583点,武士俑(指揮俑,奏楽俑などをふくむ)1965点,べつに武士立偏が手にもっていた陶製の盾410点や,多くの鍍金の車馬飾が出土した。これらの坑内から出土した加彩俑や車馬飾などは上述の前漢墓の副葬品であろう。武士俑は威風堂々として生き生きとしており,あるものは戦衣を身にまとい,あるものは鎧で身をかためている。戦馬は出発命令を待っているものもいれば,首をもたげていなないているものもいる。騎士たちは手にたづなを握り,武器を片手にあたかも命令がくだるのを待っているようである。これらの俑坑から出土した陶俑を見ると,歩兵と騎兵などで構成された前渓時代の大規模で雄大な軍陣の様子がわかる。これらの兵馬陶俑は,その数量の多いこと,兵種の整っていること,隊列が整斉なこと,加彩が精密であることで,漢代の出土文物のなかでもまれにみるものである。これは漢代の兵制を研究するうえで重要な歴史的価値があるばかりでなく,まことに得がたい芸術品でもある。
1970~1976年に発掘されたこの俑坑の墓主の墓地は,その墓道が曲尺形で,全長約100メートルであった。墓葬の全体的な構造は当時の貴族の邸宅の形式をまねて建築したものである。出土した陶器,玉器,漆器),車馬器などの副葬品を見ると,いずれも前漢早期の特徴をもっており,なお,うめ土のなかから呂后,文帝時期の四銖銭、半両銭も発見されたので,この墓は文帝景時期の墓葬とすべきだと一応考えられる。『水経注』の記載によると,成国渠はこの地方で周勃父子の塚のかたわらをかつて流れていたという。したがって,この大墓は前漢初期の名宰相周勃かその子周亜夫の墓葬であったかもしれぬと推定される。
これらの加彩兵馬陶俑を見ると,前漢の文景時期には,騎兵が軍隊組織のなかで重要な位置を占めていたことがわかるであろう。同時にそれはまた,その当時の社会の経済が回復し,発展をとげたために,馬を飼育する事業の興隆を促し,その結果「庶民のちまたには馬がつながれ,田のあぜ道には馬が群をなしている」という情景を反映したものである。出所:「シルクロード文物展」
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