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遼寧省歴史と遺跡 2008年01月06(日)更新

遼寧省の歴史と遺跡

【和:りょうれいしょうれきしいせき
【中:Liao ning sheng li shi yi zhi
基本用語>遼寧省の歴史と遺跡

遼寧は、中国の歴史と文化を誇る上で重要な位置を占めている。今から30〜2万年前の旧石器時代、早くも人類がこの地で活動していたことが知られており、既に発見されている遺跡の中で、旧石器文化の早期に属するものに営口県金牛山遺跡・本渓県廟後山遺跡、中期に属するものに喀左県(喀喇沁左翼蒙古族自治県)鴿子洞遺跡、晩期に属するものに凌源県西八間房遺跡・海城県小孤山遺跡・建平県の建平人化石出土地、などが存在する。これらの遺跡や遺物は、既にその頃、華北地区の文化と交流があったことを示している。
新石器時代の遼寧の遺跡には、瀋陽市新楽遺跡・大連市長海県小珠山遺跡(別名土珠子遺跡)・丹東市後窪遺跡・遼西の紅山文化遺跡と墓群、などがある。とりわけ遼西の凌源県と建平県の間に位置する牛河粱紅山文化の神廟遺跡と大型の積石墓群は、近年の考古学上の重要な発見である。
中原の夏・殷・周時代に相当する、この地の青銅器文化には、早期では夏家店下層文化、殷末周初では喀左県などで穴蔵から出土したものを含む青銅器軍、西周・東周時代頃の相当するものでは夏家店上層文化や青銅曲刃短剣などが発見されている。文献によると、この地で生活していた民族には、華夏・粛慎・束胡などがあり、いずれも今の中国を構成している民族である。
また、西周初期には燕国の勢力範囲が既に遼寧に達していた。戦国時代には、燕国が遼河・大凌河の流域を開拓し、長城を?水(鴨緑江下流の古名)まで築き、遼東・遼西・右北平などの五郡を設置している。考古学上の発見では長城のほかに、遼陽・朝陽・凌源・建平などの墓群、長城の内外に広く分布している遺跡群、「襄平」(遼東郡の首県、現在の遼陽)などの字句鋳出されている燕国の貨幣などがあげられる。
秦漢時代は、郡などの設置は戦国時代の旧来のものをほぼ受け継いでいる。従って遼寧は幽州(州は地方行政区画)の遼東・遼西・右北平の3郡の他に、新たに遼寧の東部地区に玄莵郡が設置された。後漢時代には、遼東・遼西二郡の地をそれぞれ割いて遼東属国を設けている。当時、北辺の長城一帯には匈奴・烏桓・鮮卑・失余の各族がいた。その後、三国時代の遼寧は魏に属し、晋・五胡十六国時代・南北朝時代には、遼西の龍城(現在の朝陽)を中心とし、前燕・後燕・北燕の三燕国が前後して割拠するところとなった。その後、ほぼこの地も含めて中国北方は北魏に統一され(439年)、玄莵・遼東一帯は、5世紀初め高句麗に支配された。長い歴
史を経ていくうちに、遼寧地区の各民族は盛衰と融合を経験し、又様々な地方性と民族性を備えた特徴的な文化を創造したのである。秦漢時代から南北朝時代にかけての遺跡のうち、発掘調査された重要な例としては、次のようなものがあげられる。緩中県の秦漢宮殿遺跡、遼東・遼西の大量の漢代城址、遼陽三道壕の前漢村落遺跡、遼寧に広く分布している数千に及ぶ漢墓と著名な遼陽の壁画群、西豊県西岔溝の匈奴(そのほかの遊牧民族も含む)の墓群、三燕時代に属する墓と遺跡などである。その中でも特に際立ったものとして北票県西官営子で発見された北燕の宰和である馮素弗とその妻の墓、義県の北魏万仏堂石窟寺院、遼東の高句麗武山城と墓があげられる。
唐代には遼東に安東都護府(都護府は辺境警備や占領地行政を行う機関)、遼西に営州都督府(都督府は地方の軍を監督する機関)を設置した。遼西は河北道(道は地方行政区画)に属しており、後に平盧節度使(節度使は有名無実化した都護府や都督府にかわるものとして唐以来発展した機関)は置かれている。考古学上の発見では、遼西の朝陽地区における大量の隋唐墓があげられ、重要なものに左才墓、韓貞墓などがある。
916年(五代、後梁の貞明の2年)、西喇木倫河(遼河の上流)の流域に興起した遼の太祖、耶律阿保機が契丹の各部族を統一して遼国を建てた。約200年間続いたこの北方の王朝は、中原の五代・北宋と対峙している。遼は全国を5道に分けており、当時の遼寧は、東京道・中京道・上京道に属していた。また遼陽は遼国の五つの京城のうちの東京である。遼代の遺跡・遺物は、遼寧地域にあまねく分布している。その中には、現在まで保存されている遼代最大の単層木造建築である義県の奉国寺、多数の遼代の州城、数十の遼塔、多数の遼墓群などが含まれる。中でも法庫県葉茂台の粛氏墓群からは一群の重要遺物が出土した。このほか義県清河門(現在は阜新市に所属)の粛慎微一族の墓、阜新市蓮花山の耶律仁先一族の墓、朝陽県の耶律延寧野墓、建平県張家営子と新民県巴図営子などの遼墓は、みなこの時期のものとして重要な発見である。
1115年、金の太祖の完顔阿骨打は遼を滅ぼして宋に侵入し、淮河以北・大散関(陜西省宝鶏県西南)以東の地を占拠した。金は路・府・州・県の各地方行政区画を設けており、遼寧東南部は当時金の東京路であった。遼陽はやはり東京と称し、全国五つの京城の一つである。また、北都は咸平路の一部であり、西路は北京路の一部であった。13世紀になると蒙古族が興起し、元朝を建て、全中国を統治した。遼寧は遼陽などに置かれた行中書省(元が置いた機関。
中央の政治機関中書省と表裏をなす地方統治機関。略称は行省)の遼陽路・瀋陽路・広寧路・咸平府(路・府は省の下の行政区画)に所属する。金元時代の城址、墓、埋蔵された貨幣など遺跡の発見は少なくない。とりわけ鞍山市陶官屯の金元農家遺跡、凌原県の金の大定年間(1161〜89)の石造アーチ橋、金県の金代磨崖石刻、凌原県の元代壁画墓などが重要である。
明の太祖・朱元璋は中国を統一した後、遼陽行省を廃止し、「遼東都指揮使司」(都指揮使司は一省の軍政をつかさどる官。略称は都司)を設けて遼陽を統治した。都司の下には軍事と行政の統一組織である衛・所・州を置いている。現存する山海関一帯の@造(煉瓦づくり)の長城、遼寧各地の烽火@台(のしろ台)、若干の衛所や駅所などの遺跡は、みな明代の遺構である。また、著名な興城県古城は、明代の北辺防衛の要地で山海関の前衛基地である。明の建築遺構には、蓋県の上帝廟(洪武15年、1382)、鞍山市千山の龍泉寺などがある。墓として重要なものには、鞍山市千山で発見されている遼東都指揮千寺僉事に任じていた崔源の一族の墓がある。
 明末には女真族の奴児哈赤が後金国を建てた。都は赫図阿拉(賓県老城、興京老城)に定めたが、後に界藩城に遷し(1619年)、再び遼陽新城に遷し(1621年)、最後に瀋陽に定めた(1625年)。1636年、奴児哈赤の子、皇太極、即ち清の太宗は国号を清と改めた。1644年、清兵は山海関を破り北京に入城して明の政権をたおし、清の統一王朝を建設した。清朝は東北に盛京・吉林・黒龍江の三つの特別行政区を設けている。そのうち、盛京の管轄する奉天・錦州の二府が遼寧の全域に相当する。主な遺跡では、都が北京に移る前の藩陽の故宮、清初の三陵つまり、新賓県永陵(太祖ヌルハチの祖先を祀った祖陵)・瀋陽市福陵(ヌルハチ陵、通称東陵)、昭陵(太祖ホンタイジ陵、通称北陵)があり、いずれも保存状態は良好である。清の光緒33年(1907)、清政府は盛京を奉天省と改めた。その後中華民国17年(1928)、奉天省は遼寧省と改称された。

北京から東へ300kmあまり、中国・東北部における最大の都市「瀋陽」を省都とする遼寧省は、風光明媚な活気あふれる都市です。  面積は14万5400km2、人口4,138万人、漢族のほか、満州族、回族、朝鮮族、シボ族、モンゴル族など28の少数民族が住んでいます。うち満州族は、中国全土の半数が居住しており、省内には3つの満州族の自治県があります。  気候は温帯モンスーン型大陸性気候に属し、1月の気温が最も低く、平均で−15℃〜−5℃、7月(沿海地区では8月)の気温が最も高く、平均で22℃〜26℃。4月から10月が旅行に適した季節ですが、12月〜2月も雪祭り氷祭りなどを観賞できる最適の季節です。  また、国内の移動は、飛行機、列車、バス、船など全て揃っており、日本の各都市からの空路直行便も多数あり、大変便利です。 観光資源も豊富で、清国建国の祖ヌルハチが築いた王宮「瀋陽故宮」、全長3kmにも及ぶ鍾乳洞を船で遊覧する「本渓水洞」、北朝鮮との国境を流れる大河「鴨緑江」、ラストエンペラー溥儀も訪れた「湯崗子温泉」など、日本ではあまり知られていない魅力的な観光地が数多くあります。

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