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涇川出土唐舎利容器 2008年01月10日(木)更新
694年
1964年12月,涇川の城関人民公社が涇川城北方にある水泉寺の東南で整地作業をしていたところ,磚造の窖室(あなぐら)から舎利石函を発見した。この窖室は塔墓の地下室であったかもしれぬ。函の蓋は覆斗式で,「大周涇州大雲寺舎利之函摠一十四粒」の文字が刻まれている。石函の四側面には,延載元年(694年)の紀年のある銘や序および施主の姓名が刻まれている。舎利の安置された函は,中国解放後しばしば発見されたが,そのなかで, この舎利容器がもっとも精緻なものである。石函のなかには,金銅の銅匣(はこ)があり,そのなかに銀槨,その槨内に金棺がおさめられていた。金棺のなかには錦織りの敷物があり,そのうえに玻璃(ガラス)瓶があり,舎利はその瓶のなかにおさめられていた。金銅匣や銀槨のうえには対称的に枝のからまった忍冬唐草文がこまかく彫られていた。金棺は,真珠,金片,宝石などが嵌められたさまざまな色の蓮華や蓮葉で装飾され,華歴精美,光輝目を奪うものである。この一組からなる舎利容器が造られたのは,則天武后が大周皇帝とみずから名のり,諸州に大雲寺を建てる命令をだした5年後であった。涇州刺史(地方官の官名)源修業などが金に糸目をつけずにこの華慶なものを進った。そして当時の有名な文人孟詵に銘文をつくらせ,それを上に彫ったのである。これは,則天武后が宗教を用いて人民を麻痛させて,権力を維持するという目的に迎合したものである。しかし,これらの文物自身は勤労人民の才能と技術的成果を反映したものである。(石函の銘文によると,石函と玻璃瓶は延載元年以前のふるいものである)。出所:「シルクロード文物展」
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