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吐魯番・千田出土北朝時代絹織物・文書 2008年01月13日(日)更新
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晋・南北朝|>吐魯番・千田出土北朝時代絹織物・文書
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386~581年
吐魯番(トゥルファンル)は漢時代に,車師前王庭の戊己校尉の役所があった。東晋のころ,前涼の張駿がここに高昌郡を設けた。北朝時代,ここはおおむね安定していたので,人口は増加し,生産が発展し,経済が栄え,敦煌以西の「シルクロード」上の要衝となった。政治制度も中原地区のものと同じであった。阿斯塔邦(アスターナ),吟拉和卓(カラホージャ)墓地から発見された晋~北朝時代に属する多くの絹織物や文書は上述の歴史情況を物語るものである。
この時期における絹織物は,その織り方や意匠の面では,漢代における伝統的技法,つまり,経糸で文様を表わす方法で連続的な各種の禽獣文を織り出す技法を保持しているばかりではなく,同時に,中国や西アジアで流行しはじめた連珠鳥獣文や緯糸で文様を織りなす新しい工芸技術を用いていたのである。
これは,中国の各族と西アジア諸国とがたがいに学び,文化交流をおこなってきた, という物的証拠である。この時期における文書は、その内容が非常に豊富であり,その絶対的多数のものは漢文で書かれたものであり,中原地区と同じような典章制度,経済生活,文化生活が記載されている。これは, この時期における歴史を研究するうえで重要資料である。
于田は漢時代にその名を扜弥と言い、三国時代以後は于闐(現在の和田)に属しており,「シルクロード」の道上の要衝であった。北魏の神亀2年(519年)に比丘恵生がここを通りかかったとき,ある寺院のなかに「彩色の幡蓋がかかり,また万をかぞえるほどある」という有様であった。これから見ても当時絹繊物が広く使用されていたことがわかる。出所:「シルクロード文物展」
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