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吐魯番唐張雄夫婦墓出土文物 2008年01月15日(火)更新
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隋・唐・五代|>吐魯番(トゥルファン)唐張雄夫婦墓出土文物
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638~688年
吐魯番(トゥルファン)の阿斯塔那(アスターナ)の古代墓区のなかに,張氏の墓地が一カ所あり,そこに合計65基の墓葬がある。張雄夫婦墓はそのなかの一つ。張氏一族は高昌地区の名望のある家柄で,代々高昌の王族の麹氏と婚姻関係を結んできた。張雄は麹氏高昌の時代には高い官位につき,左衛大将軍や都官郎中に任ぜられた。 しかし,高昌王麹文泰の分裂行動に不満を抱き,「諫言をしたが用いられず、憂いが重なり,ついに病になって」,633年に死去した。わずか50歳の時だった。かれの妻の麹氏は,唐が高昌を統一したのち永安太郡君に封ぜられ,688年に82歳で死去した。張雄の次子の張懐寂は692年に「武威軍子総管」となり,亀茲,于?,疏勒,砕葉四鎮を奪回する唐朝政府の軍事行動に参加し,戦功を立てたことによって,中散大夫,行茂州司馬の官職を歴任した。
張雄夫婦墓は,張雄の埋葬から55年後にその妻が埋葬されたものであり,それはちょうど高昌が割拠していた状態から唐朝によって統一されるまで二つの歴史的時期を経たものである。したがって,墓葬の形制や副葬品のうえにもこの異なった時期の特徴がはっきりとあらわれている。張雄が死んだとき,その墓葬ははじめ斜墓道と土洞の墓室からなり,副葬品は主として儀仗の木俑で,つくりも比較的に粗末で素朴なものであった。ここに陳列された騎馬木俑はそのなかでも比較的に精緻なものをいくつか選んだのである。しかし,その妻麹氏が死後そこに埋葬されたとき,その子の張懐寂が唐朝の喪葬制度にしたがって, もとの墓道の甬道にあらため,甬道の両側壁を対称的に掘りぬいて壁龕をつくった。龕のなかに安置した副葬品も比較的に豊富で,そのつくりも精緻なものであった。出所:「シルクロード文物展」
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