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四川青銅器時代 2008年02月27(水)更新

四川青銅器時代

【和:】
【中:
青銅器|>四川青銅器時代

  青銅器時代に入った紀元前二千年紀から約1000年の間、繁繁を続けたのが三星堆文化である。文化の中心をなす三星堆遺跡は、成都市北約40kmの広漢市郊外に位置する。三星堆遺跡は東西1600~2100m、南北約2000mの城郭をもち、並行する時期の段王朝前期の鄭州商城に匹敵する規模を有していた。
1986年に土取りによって偶然に発見された二つの土坑から大量の青銅器(400数点)や玉器(500点以上)、象牙(80本以上)、子安貝、数千個)が出土した。その造形はこれまで中国で出上した青銅器とはまったく異質なものであった。三星堆遺跡を世界的に有名にした由縁である。
この二つの祭祭祀坑から出土した青銅器などが製造された時期は三星堆文化の後半で、中原の段墟文化に並行する時期とみられる。これらの青銅器は製作技法においては段周青銅器と同じ鋳造法でつくられているものの、中原では青銅器が供献用の容器として発達していた点からみて、祭祭祀儀礼の実際は大きく異なっていたとみるのが自然である。
近年、青銅器の鉛同位体比分析によって流通システムが解き明かされようとしている。これまでの成来では、殷代の青銅器は中華北、 華中、遼寧省、三星堆のグループに分けられている。二里頭遺跡の青銅器は遼寧省から山東省の鉛同位体比グループに属し、二里崗期に三星雄グループが加わる。殷墟期にすべてのグループが揃うが、特に三星堆のタイが顕著になるという。 しかしながら殷墟末期になると、華北産の鉛同位体比グループが主体となり、三星堆は衰退するようである。政治的な動向に合わせて、青銅器の材料供給が連動したのであろうか。三星堆の青銅器の材料となった鉛や錫は、いずれも雲南の地から運びこまれたものであるという。前者は金沙江沿いの永善、錫は箇旧が産地であるという。また祭祀坑から出土した多量の貝は南海産である。すでに長距離交易を可能としたネットワークが成立していたことが認められる。
三星堆遺跡出土の青銅器の一部にみられる失蝋法による製作成法は、中国でも最古の部類に属する資料である。一般に、河南省淅川下寺遣跡の春秋時代後期の楚墓から出土したものが、最も古い例だとされており、紀元前6~700年に失蝋法が始まったと考えられている.製作技法の実際についても大いに議論が進むであろう。先の産地分析などと合わせて、形式学や紋様研究とは別の視点・方法論によって、新たな青銅器研究への道が開かれつつある
三星堆文化にかわって成都平原に登場したのが十二橋文化である。十二橋文化は、彭県竹瓦街出土の青銅器に代表されるもので、漢中平原に登場した西周王朝とその周辺で盛行した「先周文化」(武帝が殷を倒す前の時代)から「西周文化」の流れを組むもので、いわゆる殷系青銅器との流れを画する。つまり、三星堆文化から十二橋文化へのの移行は、在地内独自の文化移行というよりも、外来の文化影響や政治影響を強く受けた文化移行、具体的には殷王朝から周朝への交替と連動し影響しながら成立した文化移行であったといえよう。成都市羊子山で検出れた一辺100mばかりの方形の基壇址もこの時期の所産とみられる。
十二橋文化、西周王朝移行期から春秋十二橋文化は、西周王朝移行期から春秋期までの前一千年紀の前半を1芭通じて成都平原で展開される。その後、これらを基礎として春秋戦国期に文巴蜀文化が展開される.巴蜀文化の青銅器は、中原一漢中の流れを組むものと甘肅・青海などを経由した遊牧文化の要素が融合しながら、地域色を持った青銅器文化を創造している。武器や印象に刻まれた巴蜀文字と呼ばれる「符号」は解読が待たれるが、交易や身分を示す際に利用されたのであろう。また丸木舟を模して棺にした船棺葬や石棺葬など多種多彩な葬制がみられることも巴蜀文化の特徴である。
例えば、刀子の柄には虎の動物意匠がよく採用されているが、虎のモチーフは、内蒙古や甘粛などの北方草原文化の青銅器意匠にもみられるものであり、他地域との文化関係を探る上でも重要な資料である。虎は古来から民間芸術の中に広く用いられているものであるが、彜族の一部である「羅羅人」は、祭祀儀礼の中で虎の衣装を着用して現在でも舞踊儀式を行ったりしている。巴蜀文化は秦が巴蜀を滅ぼした後も伝統的な文化を継承し続け、秦の始皇帝が中国を統一した後も、墓葬から秦銭「半両銭」とともに巴蜀青銅器が共伴して出土していることなどからわかる。しかしながら、奏王朝、漢王朝は四川地域へと多くの「漢人」を地方官僚や開拓民として送りこみ、人の流れとともに彼らの文化も入りこみ、次第に巴蜀文化は吸収されていった。出所:『中国四川省古代文物展』-三国志のふるさと、遥かなる大地の遺宝2000

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