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王莽  2008年08月09日(土)更新

王莽
【和:おうもう
【中:Wang mang
秦・漢・三国|歴史人物>王莽

前四五~二三年
帝位纂奪の野望を果たし、新を建国
 武帝の晩年、漢帝国の朝廷は混乱していた。後継者を巡る争いが激化し、太子と衛氏出身の皇后は死に追いやられた。衛氏一族と李氏一族との勢力争いが展開された。長く続いた戦時体制は財政を圧迫していた。
すべてが行き詰まるなか、武帝は、衛氏とも李氏とも血縁ではない八歳の昭帝を後継者に指名し、その二日後に亡くなった。前八七年である。この時代、実権を握っていたのは霍氏一族だった。これが外戚支配の始まりでもあった。
昭帝は前七四年にニ二歳の若さで、不審な死に方をした。その後を継いだのは、武帝の孫にあたる劉賀だったが、あまりに自堕落な青年で、これはダメだというので二七日で廃位させられてしまう。歴代皇帝としても数えられない。
それに代わって、即位したのが宣帝である。武帝と殺された衛皇后の子で、自殺に追い込まれた戻太子の孫にあたる。つまり、武帝の曾孫である(本当にそうなのかは疑間も持たれている)。
宣帝が前四九年に亡くなると、その子の元帝が即位した。昭帝。宣帝・元帝の三代は、経費のかさむ匈奴との戦いや外征は控え、税を軽減し民の暮らしの安定を優先させたり、行政官の給与を引き下げたり、厳しい刑法を改正するなど、庶民にとってはありがたい時代だった。元帝は宮廷の宴会を禁止し、経費削減に努めたが、漢帝国の行政組織は肥大化しており、慢性的財政不足に陥っていた。
さらに、元帝の時代には、外戚に代わり、宦官が政治の実権を握るようになっていた。中国の王朝は、その構造的欠陥として、独裁者の皇帝が強権のもとで統治するか、弱い皇帝が外戚か宦官のいいなりになるという性質をもっている。前三三年に元帝が亡くなると、その子が、 一九歳で皇帝に即位した。成帝である。この時代に台頭したのが、外戚の王一族だった。成帝は遊ぶことに夢中で、国家の統治には興味がなかった。政務はすべて母の王太后とその一族にまかせた。
王莽は、成帝の母の甥にあたる。この時代、王氏一族は政府の要職を独占する勢いとなっていた。王莽は王氏一族のなかでも傍流だった。暮らしも質素で、謙虚な性格を見せていたので、 一族以外の人々からの人望を集め、出世していった。そして南陽郡新野県に領地を持った。後に彼の建てた王朝を「新」というのは、この地名に由来する。王莽は同じ一族内でライバルとなりそうな者を謀略で失脚させ、大司馬という陸軍大臣にあたる地位を得た。前八年、三八歳のときである。ついに、本性が表れたのか、出世していくうちに権力欲が出てきたのかは分からない。ところが、彼の構想はいったん、頓挫する。成帝が急死してしまったのである。これが外戚の弱いところであった。力の源泉が皇帝の外戚であるという血縁にあったので、皇帝の交代によって、失脚してしまうのだ。それを防ぐには、次の皇帝も自分の一族の女が産んだものにするしかない。だが、この時点での王莽はその用意をしていなかつた。次の皇帝は、元帝の孫にあたる哀帝が即位した。王莽は朝廷での職を辞し、領地である新野県に向かった。だが、このままでは終わらなかつた。王莽は地方に蟄居していたが、六年後に哀帝が亡くなると、そのいとこ平帝が即位したが、まだ九歳の少年である。王莽は中央に復帰し、もとの地位であった大司馬に返り咲いた。それからは、すさまじい勢いで粛清を始める。後で敵になりそうな勢力、すなわち、成帝の皇后、哀帝の皇后、平帝の母を死においやり、その一族もことごとく排除した。そのうえで、自分の娘を若い平帝の后としたのである。皇帝の外戚は三代遡っても、王一族しかいなくなった。
それまでの外戚は、皇帝を傀儡として、実権を握ることまでしか考えていなかつた。名目上の皇帝はあくまで劉邦の男系の男子である劉氏一族とし、外戚は実をとる、という構造だった。だが、王莽は、名実ともに皇帝の権力を握ろうとした。
朝廷内のクーデターで皇帝を殺すことは可能だが、自分を皇帝と全国民に認めさせることはできない。王莽は世論工作を始めた。農民を悩ませていたイナゴを買い上げたり、貧民を救済するなど、人気を得やすい政治を実行した。また、礼制と学制の改革もおこなつた。
そして、ついに、西暦五年、王莽は平帝を毒殺する。そして、王氏一族の二歳の子、子嬰を皇帝につける。反対して挙兵した勢力もあったが、鎮圧した。王莽が皇帝となるのは時間の問題だと誰もが思うようになっていた。そんなころ、ある男が井戸をさらっていたら、白い石を見つけた。そこには、赤い文字で、「王莽よ、漢に代われ」と書かれていたのである。これは符命と呼ばれるもので、自然現象による予言とされるものだった。もちろん、王奔のでっちあげたものだったが、当時の中国はこのような神秘的なものがブームだったのである。九年、王莽は、天命であるとして、ついに自らを皇帝と宣言し、国名を「新」としたのである。・・・。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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