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北魏孝文帝  2008年08月10日(日)更新

北魏孝文帝
【和:ほくこうぶんてい
【中:Bei wei xiao wen di
晋・南北朝|歴史人物>北魏孝文帝

四六七~四九九
南朝をずっと見てきたが、ここで北に目を転じよう。多くの国が華北に乱立した五胡一六国時代は、三〇四年から四三九年まで続いた。それを統一したのが、トルコ系遊牧民である鮮卑族の拓跋氏の建てた魏(三国時代の魏と区別するため、「北魏」という)である。
もともとは山西省北部を領地としていたが南下した。開祖とされる道武帝は三八六年に即位し四〇九年までその地位にあり、礎を築いた。三代目にあたる大武帝の時代に、他の五胡の諸国を次々と滅ぼし、華北を統一した。
孝文帝は北魏の六代目皇帝である。姓は卓抜、名は宏。後に元と改姓する。
北魏が他の五胡の諸国と異なった点は、漢民族との融合を図り、積極的に漢文化を取り入れ、また人材も漢民族から登用したことだった。孝文帝はこの路線をさらに推し進めた。異民族の漢民族化、すなわち中国化を図ったのだ。自ら、漢風の「元」に改姓したのはその象徴である。漢語以外の使用を禁止し、服装や髪型も漢風にした。北方民族と漢民族との結婚も奨励し、融合をはかった。孝文帝自身も漢語を読み、老荘思想や仏教の文献もよく読んでいた。中国人としての教養を十分に身に付けていたのである。だが、この漢化政策は、もともとの北方異民族の人々の間では評判が悪く、孝文帝への不満が高まっていたのも事実である。
四九三年、孝文帝は南下し、ときの南朝であった南斉の討伐を名目に挙兵した。しかし、重臣たちが反対するので、洛陽への遷都を条件に出兵をとりやめた。実は、洛陽遷都こそが真の目的で、いきなり遷都すると言ったのでは反対されると思い、あえて、もっと反対される南斉討伐をぶちあげたらしい。中国の歴史の象徴でもある古都・洛陽への遅都は、全中国を統一するという意思の表れでもあったし、それまでの都・平城では鮮卑族出身の貴族たちの腐敗堕落ぶりががひどかったので、 一掃する意味もあったともいう。
孝文帝の悲劇は、自分の出身部族を否定し、漢化しなければならないことだった。彼自身の内部でそのことに矛盾があったのかどうかは分からない。だが、北魏の支配階層のなかでは矛盾となり爆発寸前だった。孝文帝は四九九年、三三歳の若さで病死した。その死後、優遇されていた文官に対し、冷遇されていた武官たちの不満が爆発し、後の北魏の分裂へとつながっていく。
五二三年、辺境の守備隊が反乱を起こした(「六鎮の乱」)。漢化政策に乗り切れなかつた武人たちは生活にも困窮し、不満が爆発していた。内地にまで侵攻した反乱軍に政府軍は歯が立たず、異民族の将軍・爾朱栄によつて、ようやく鎮圧された。しかし、これによって、北貌の実権は皇帝や宦官ではなく、爾将軍が握るようになった。爾将軍と朝廷の駆け引きが続き、皇帝が何人も廃位された。 一方、爾将軍も殺されるなど内乱状態になった。高歓、西魏は長安を都とし、実権は宇文泰が握つた。どちらも、北方の異民族出身である。東西の魏は数回にわたり戦つた後、どちらも、とりあえず、自国の体制を固めることを優先しようと五四二年に休戦状態に入った。東魏は、高歓の死後、五五〇年にその息子によって斉を建国した。以前の斉と区別するため、北斉という。西魏も宇文泰の死後、五五六年にその甥によって周王国になつた。古代の周を理想としていたので、この国名となった。古代の周と区別するため、北周という。北斉は建国後、国内が混乱していたが、北周は中央集権的国家の建設に成功。武帝(北周)の時代に北斉へ本格的に侵攻し滅ぼし、とりあえず華北は再統一された。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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