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馬謖 2008年08月14日(木)更新
中国、三国時代の蜀の武将。馬謖(190~228年)は、字は幼常、襄陽宜城(今の湖北省宜城市)の出身で、蜀の将領であった。錦竹令、成都令、越西太守を歴任した馬謖は、兵書を熟読し、その才能は広く認められてはいたが、実戦経験に乏しかった。
馬謖は諸葛亮から重んじられ、参軍(幕僚)に昇進する。劉備は臨終の際、「馬謖は口先だけが達者であるから、重要なことを任せてはならない」と諸葛亮に念を押したが、諸葛亮は耳を傾けなかった。
紀元228年、蜀の魏に対する北伐の際、諸葛亮は皆の意見を抑えて馬謖を先鋒に任命した。しかし、兵法に精通していると驕っている馬謖は、諸葛亮や副将の王平の諌めを聞き入れず、戦略的な要地である街亭の道筋にではなく、山頂に陣を敷いてしまう。その結果、魏将の張?に水路を断たれ、山頂に孤立した蜀軍は惨敗を喫すことになる。諸葛亮はやむを得ず、「軍令状」(軍令を受けたときに任務を果たせなければ処罰を受ける旨を記した誓紙)を立てた馬謖を、涙ながらに処刑する。諸葛亮も馬謖の甘さを見抜けず任命にしたことの責任として、自ら降格を申し出る。
馬謖は処刑されたその年、39歳という若さであった。彼については、言うことが大げさで実際とはかけ離れていることをたとえた「馬謖用兵」という言葉が民間に語り伝えられている。また、「諸葛亮、泣いて馬謖を斬る」という言葉も広く知られている。
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