考古用語辞典 A-Words

時代別順

旧石器時代
新石器時代
神話時代
殷・周時代
春秋戦国
秦・漢・三国
晋・南北朝
隋・唐・五代
宋・遼・金・元
明・清

分野別順

基本用語
青銅器
陶磁器
金銀・玉器
石器・ガラス
彫刻・書画
絹・衣類
建造物・遺跡・墓
歴史名城
歴史人物
研究機関
研究者
面白テーマ

唐高祖  2008年08月14日(木)更新

唐高祖
【和:とうこうそ
【中:Tang Gao zhu
隋・唐・五代|歴史人物>唐高祖

(五六五~六三五年)
隋を倒し、唐三百年の帝国の礎を築く。
姓は李、名は淵。唐の初代皇帝。確実な系譜としては、祖父が西魏に仕え、北周を建国した宇文泰とともに、 12大将軍のひとりとされている。
すでに亡くなっていた祖父の李虎が唐国の公に追封(位を死後に贈られること)され、その子・李昞がその位を継いだ。その子が李淵で、七歳で公に即位した。隋の文帝の皇后が叔母にあたり、その関係もあって、隋が建国されると、三つの州の長官(刺士)に就任した。文帝からの信頼はあつかった。
文帝が死に、煬帝の代になっても、李淵は信頼され、高句麗へ侵攻する際は食糧などの輸送の任にあたった。だが、「大きな政府」路線で民が疲弊し、その不満が爆発寸前になると、巻き添えを恐れ、中央からは離れる。あちこちで起こりだした反乱の鎮圧を手がけ、なかでも、隋帝国が混乱しているのに乗じて侵攻してきた北方異民族の南進を防ぐのに活躍した。ところが、実は防ぐとみせかけて、北方異民族と同盟を結んでいたのである。
李淵が反乱を起こしたのは六一七年。北方異民族を味方にしたうえでの反乱だつた。すでに家臣からも見放されていた隋の煬帝は、父の代からの忠臣の李淵の反乱の前になすすべもなく、逃げ出し、幼い子の恭帝が帝位についた。そして、その恭帝から帝位を譲り受け、李淵が皇帝に即位したのは六一人年だった。祖父が封じられた国の名をとって、新しい帝国の名は唐となつた。 しかし、帝位は譲られても、中国全土がそのまま唐の支配下に置かれたわけではなかつた。中国各地で起きていた隋への反乱の矛先は、そのまま後を継いだ唐に向けられた。事実上の内戦状態になり、増による中国全土の鎮圧がなされたのは六二三年だった。六一七年から数えても、足かけ六年かかったことになる。だが、戦国時代や南北時代に比べれば、ほとんどないも等しい短期間の内戦だった。その意味では、歴史は繰り返さなかつたといえる。かつてないほどスムーズに、隋から唐へ「天命」は移行したのである。
英雄色を好むという言葉があるが、唐の高祖となった李淵も例外ではない。確実に分かっているだけで、男ニ二人、女一九人も子がいたという。皇帝になった彼を襲った最大の悲劇は、その長男と次男とが骨肉の争いをしたことである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

Copyright 2006 abc0120 All rights reserved.