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隋煬帝  2008年08月14日(木)更新

隋煬帝
【和:ずいようだい
【中:Shui yang di
隋・唐・五代|歴史人物>隋煬帝

577~618年
歴史に名を残す暴君
隋の二代皇帝。姓は煬、名は広。他の皇帝は「帝」を「てい」と読むが、煬帝だけは「ようだい」と読むのが一般的。日本でも昔から有名な皇帝で、それは「暴君」としてである。
煬帝は、隋を建国した楊堅(文帝)の次男として生まれ、南朝の陳を滅ぼす際には南征軍の元帥として功績を残した。だが、後継者は兄と決まっている。自分がどんなに能力があり、実績を残しても、皇帝にはなれない。こんな理不尽なことがあろうか――と考え、まず自分がいかに親孝行であるかを両親にアピールする一方で、兄の部下を買収し不祥事をでっちあげさせ、兄を追い込んだ。やがて、陰謀により兄は謀反の容疑をかけられ廃嫡、帝室から追い出され庶民の地位に落ちた。こうして煬帝は太子の座を得た。
六〇四年、文帝が亡くなった。煬帝が殺したという説があるが、本当にそうだったのか、後の暴君としてのイメージから生まれた説なのかは、はっきりしない。煬帝は熱心な仏教徒としても知られ、また教養も深かった。道教と芸術に傾倒し、詩人・学者としての側面も持っていたという。では、どうして煬帝は暴君となったのか。それは、「公共事業」をやりすぎたためだった。まず、荒廃していた洛陽の都の復興をした。宮殿を建設しただけではない。ニ百万人が動員され、人工の湖がつくられ、人工の島がいくつも浮かんだ。つづく公共事業は万里の長城の補修。そして、大規模土木工事の決定版として、全長二〇〇キロに及ぶ大運河が完成した。この運河のおかげで、交通・流通は飛躍的に便利にはなるのだが、そう
した評価は後の世でのことで、工事に奴隷同然の労働条件で働かされた庶民は恨んだ。男だけではなく、女性、子どもまで工事に駆り出され、その数、五〇〇万人ともいう。
外交面では、高句麗に三度にわたり侵攻しながらも、失敗した。当然、戦死者も多い。大規模公共事業と戦争で国家財政は厳しくなり、当然、増税となった。
このように民の暮らしな圧迫しながらも、自分は豪奢な生活を送っていたことも、反感を買った。六一七年、黄河氾濫をきつかけに、農民動乱が勃発。北方に拠点をもつ軍閥・李淵が反乱軍を指揮し、長安を占拠すると、煬帝は退位して南に逃げたが、結局、父が失脚させられたことを恨んだ大臣の息子に殺された。 
一族や家臣を殺しまくったり、後宮に何千人もの女性を集めたり、もっと贅沢三味の暮らしをした暴君は他にもいた。運河の工事も、万里の長城の修復も、あるいは高句麗侵攻も、始めたのは父の文帝だった。すべてが煬帝の責任だともいえない。
では、なぜ煬帝が史上最悪の王とされ、「煬」という、「天に逆ちい、人民をしいたげた」という意味の諡号を与えられたのか。それは、工事の苦役や重税といったかたちで、民衆を直接苦しめたからであろう。それまでの暴君の「悪」は、朝廷内部や皇帝の一族しか被害者はいなかったが、煬帝の場合、全国民が自分は皇帝のせいで被害を受けた、と思ったのだ。
煬帝が帝位を捨てて逃げると、孫にあたる恭帝が皇帝になった。だが、まだ六歳である。反乱軍のリーダーの李淵が摂政となった。そして、これまで何度となく繰り返されてきたパターンで、李淵は帝位を譲るよう追り、ここに隋王朝は文帝から数えて三代、三八年で終わる。そして、李淵が皇帝に即位し、唐が建国されるのであった。煬帝が実像以上に悪く言われるのは、唐王朝が自分の正統性を主張するために、いかに隋の煬帝が悪い皇帝であったかと強調したからともとれる。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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