考古用語辞典 A-Words

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唐太宗  2008年08月15日(金)更新

唐太宗
【和:とうたいそう
【中:Tang tai zong
隋・唐・五代|歴史人物>唐太宗

(五九九~六四九年)
唐の二代皇帝。姓は李、名は世民。唐を建国した李淵(唐の高祖)の次男。父の李淵は五六五年生まれなので、反乱を起こした時点ですでに五〇歳を過ぎていた。そのとき李世民は一七歳。父を軍事面で助け、唐帝国建国に貢献した。兄の李建成がずっと父・高祖のそばにいたのに対し、世民は内乱平定のため、軍の先頭に立って、中国全土を駆け巡った。武将としては傑出しており、部下からも慕われ、人望があつかった。内乱の鎮圧も終わって、ようやく落ち着いた頃の六二六年、兄・建成との関係が修復不可能となっていた世民は、長安の内城の玄武門で待ち伏せ、参内しようとしてやつてきた兄を殺害した(「玄武門の変」という)。両者の仲が決裂していたこと、世民が有能で軍の支持を得ていることなどから、父・高祖は、次男による長男殺しを追認し、世民を皇太子とし、そのまま帝位を譲った。高祖が亡くなるのは、それから九年後の六三五年である。
こうして第二代皇帝となつた李世民(諡号は太宗、唐の皇帝は「帝」ではなく、「宗」が諡号)は、軍人としての功績以上に、治世者としての業績を残した。均田制という土地制度、租庸調という税制、三省六部の中央の行政組織、府兵制など、国家の基本的な事柄は、この太宗の時代に作られた。この時代の元号が「貞観」ということから、太宗の時代のことは「貞観の治」と呼ばれる。宰相の人材にも恵まれ、また家臣の言うことにもよく耳を傾けた。太宗の有名な言葉として「帝王が圧政を敷いて人民を仕えさせるのは、わが身の肉を切り取って腹を満たすようなものだ。腹は満たされても身体に傷がつく。帝王は富んでも、国は破壊されてしまう」というものがある。この意識のもとでの治世だった。
だが、それも晩年になると、変化してしまう。もはや国内には敵はなく、また外交手腕によつて唐帝国の領土も広がり、何も恐れるものがなくなってしまった。太宗は贅沢を好むようになり、政務よりも狩を好むようになり、無駄な大規模工事を始めたりした。後継者をめぐっても混乱した。皇太子だった長男が男色に走り、奇行をし、さらには謀反を企てたので、太宗はこれを廃嫡し、第九子・李治を皇太子とした。これが第三代・高宗となる。この李治が、太宗の後官にいたひとりの女性と出会うことで歴史は変わるのである。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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