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後唐李克用 2008年08月16日(土)更新
【和:こうとうりこくよう】 |
【中:Hou tang li ke yong】 |
隋・唐・五代|歴史人物>後唐李克用
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(八五六~九〇八年)
唐末期、黄巣の乱で反乱鎮圧のために戦った将のなかに、李克用がいる。反乱を鎮圧するまでは朱全忠とは同志だった。だが、朱全忠が皇帝を名乗ったことで、両者は決裂した。
李克用は、唐王朝の皇帝と同じ「李」姓であったこともあり、「唐の復興」を訴えて、朱全忠の新しい王朝に挑んだのである。だが、その戦いの最中、九〇八年に没した。その遺志を継いだのが息子の李存勗だった。
九二三年、李存勗はついに首都を陥落させ、後梁の末帝以下の朱一族をみな殺しにしたのである。そして唐を再興し、皇帝となった(荘宗)。以前と区別するために「後唐」と呼ばれる。李存勗の十数年にわたる治世では、朱全忠の後梁によつて崩壊した唐的なものが復活した。つまり、宦官であり、贅沢をすることだった。その財源は増税に頼らざるをえず、そうなると民は苦しみ不満を抱く。各地に勢力を保っていた武将たちの不満と民の不満とが結合し、反乱となった。
反乱鎮圧に向かったはずの李克用の養子・李嗣源だったが、反乱軍に担がれてしまい、反転して首都に攻め入った。いわば義理の兄弟同士の戦いとなったのである。皇帝・李存勗は近衛軍の反乱にあって殺され、近衛軍が反乱軍に降伏、こうして李嗣源が二代皇帝となつた(明宗)。
明宗は六〇歳をすぎた高齢で即位したのでその治世は短いが名君だった。宦官を一掃し、贅沢をやめた。 一方、地方の将兵が不満を抱き反乱するのを恐れ、給料や恩賞をはずんだ。結果的に、地方の将兵たちに財力を与えることになり、新たな火種となる。
九三四年に明宗が亡くなると、三男の李従厚が後継の皇帝となった(帝)。だが、安定しない。明宗の女婿で節度使の石敬?と、明宗の養子で節度使の李従珂がそれぞれ機をうかがっていた。先に叛旗を翻したのは李従珂だった。関帝は討伐軍を出したが、李従珂に買収されてしまう。結局、閔帝は殺され、李従珂が即位した。末帝、あるいは廃帝という諡号で、その名が示すように後唐最後の皇帝となる。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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