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後周郭威  2008年08月16日(土)更新

後周郭威
【和:こうしゅうかくい
【中:Hou zhou ge wei
隋・唐・五代|歴史人物>後周郭威

(九〇四~九五四年)
 郭威字は文仲。後周の初代太祖。聖神恭肅文武皇帝。後周は、中国の王朝で、五代の最後の国である。郭威は後漢を建てた劉知遠の側近だった。劉知遠に後を託されていたが、二代目皇帝が自分を亡きものにしようとしたので、先手を打って謀反を起こした。だが、皇帝は郭威の軍が到達する前に、殺されてしまつた。
郭威は自ら皇帝になる気はなかったので、劉知遠の甥(弟の子)を擁立したが、軍が納得せず、郭威自身が皇帝となつた。国名は周とした(古代の王朝と区別するため「後周」という)。
四年で郭威(太祖)は亡くなり、養子の柴栄が二代目として皇帝になった。世宗で、このとき三四歳。五代時代で最も評価されている名君である。外交面では遼に奪われていた領上の一部を奪還し、中国再統一へ向けて歩み出した。内政では減税を実行し、その一方で治水事業をしっかりおこない、民の暮らしを安定させた。だが、世宗は五年後に病死してしまった。後を継ぐべき子はわずか七歳。これでは中国統一どころではないと軍が反乱を起こし、将軍・趙匡胤を、本人が望まないのに皇帝にしてしまつた。こうして、九六〇年、後周は事実上、二代一〇年で滅びた。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編

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