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李自成 2008年08月17日(日)更新
(一六〇六~一六四五年)
明を滅ぼしながら、皇帝になれなかった男。
これまでの中国の王朝と同様に、明もまた宦官が力をつけるにつれ、宮廷は腐敗していった。そこを旱魃などの自然災害が襲い、絶望した民は反乱を起こす。
反乱軍のリーダーのひとりが、李自成だった。結果として敗者となったので、彼の生涯については詳しいことは分からない。貧しい家に生まれたという説もあれば、富裕な農家の家の生まれとする説もある。 一六二九年頃に失業し、反乱軍に加わったらしい。当初は、反乱軍といっても帝国を打倒するというような目的はない。いきあたりばったりに略奪していた山賊とほとんど同じであった。
だが、十年近くたつとその勢力はかなり大きくなり、反帝国軍としての態勢が整っていく。それにつれて、李自成は皇帝になるという野望を抱くようになった。
李が率いる反乱軍は攻略した地に根付き、事実上の独立国とすると、 一六四一年に洛陽、四三年に襄陽や西安(長安)を陥落させて、 一六四四年には北京にまで追った。
ここに、明王朝はついに滅び、最後の皇帝・崇禎帝は自ら木に首を吊って縊死した。
李自成は、皇帝に即位し、国号を大順としたつもりだった。しかし、その天下はわずか四〇日だつた。同志で、北に陣を敷いて満州(女真)族が建てた清軍の侵攻を防いでいたはずの将軍・呉三桂が裏切ったのである。彼の愛妾が李自成配下の将に奪われたことを知り、逆上して李自成打倒を決意してしまったのだ。
こうして、呉三桂は漢民族でありながらも清軍の案内役として、先頭に立って北京を襲った。李自成は四〇日にして北京を去り、西安へと退去した。態勢の立て直しを図ったがかなわず、翌年、農民に殺されてしまつた。
こうして、満州族の清は、労せずに北京をものにした。そればかりか中国全上を統一してしまい、ここにまた異民族による帝国の出現となつた。呉三桂は天下をとった清にとっては邪魔な存在となり、辺境の地に左遷されてしまう。しかし、その地で勢力をつけていつた。清の中央政府は引退を追ったが、これを拒否。同様に明時代の将軍で地方で力をつけていた二人とともに、反乱を起こした。三藩の乱である。挙兵からほどなくして呉三桂は亡くなつたが、反乱が制圧されるのは、九年後のことだった。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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