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湯王 2008年08月18日(月)更新
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(前一七〇年頃)
殷王朝の創始者。初代帝。姓は子。名は履。夏の最後の帝桀を殺し、夏王朝を滅ぼした。五帝の時代は禅譲によって天子の座が継承されていったが、夏の禹は、自分の息子に世襲させた。これによって、中国に王朝というものができたのである。
夏王朝最後の王は、桀という。その家臣に、湯という男がいた。湯の祖先は、五帝のひとり嚳の子の契で、 一三代目にあたる。というと、系図がはっきりとしていてもっともらしいのだが、契の母は川で水遊びをしているときに、ツバメが産み落とした卵を呑んで妊娠したという伝説が残っており、このあたりはまだ神話・伝説と歴史とが分離されていない。殷が実在したのは考古学的にも実証されているが、残されている伝説のすべてが「事実」だったわけでもないようだ。
夏の桀王は、『史記』によると、「徳に努めず、武力で百姓を傷つけ、百姓は苦しみに耐えかねていた」とある。かなり暴虐非道の王だったようだ。さらに、末喜という美女を寵愛し、肉欲に溺れ、彼女の言いなりになつた。
そんな王には仕えることはできないと、諸侯は夏王朝に叛くようになった。その代わりに、諸侯からの人望を得ていたのが、桀の家臣だつた湯である。
桀は、湯が力をつけてきたので警戒し、捕らえて年獄に入れた。だが、やがて釈放してしまう。湯の声望が高く、殺したりしたら、ただではすまない雰囲気になつていたと思われる。しかし、突にしてみれば、このときに湯を殺さなかったのが致令的な失敗であつた。
釈放された湯のもとに、諸侯が集ってきた。そこで、湯はいよいよ挙兵した。そのとき、諸侯に向けてした演説が『史記』には書かれている。要約すると、「いま、桀を討伐するのは、反乱ではない。桀の罪があまりにも重いため、なんじらの声に応えて、立つのだ。余は上帝(天、神のようなもののこと)を恐れるがゆえに、その意思に従う。夏氏に罪がある以上は、その罪を正さなければならないのだ」こうして湯は決起し、多くの人々がそれに従った。勝負はあっさりついたようで、桀は敗走し、死ぬ。その死の間際、桀は湯を釈放したことを悔やんだという。
このように、悪い天子を武力で倒すことを「放伐」という。「忠臣」という思想からすると、家臣でありながら主人を討つのは「反逆」だから、本来ならば「悪」である。そこで、この放伐を正当化する理届が考え出された。それが、「革命」という考え方だったのである。主君は非道なことばかりしているので、天に見放され、すでに主君である資格を失っている、したがって、その主君を討つのは天の意思を代行する正義の行為なのだ、という理届が生み出されたのだ。これが、天命が革まる、すなわち「革命」であった。
夏王朝は滅び、湯が新たな天子になつた。史上初めて武力によって天子の座が交代したのである。この交代劇は、天子の姓が代わる、つまり別の一族が天子になることでもあり、これを易姓革命ともいう。以後、この易姓革命は、中国史において何度も繰り返されることになる。いわば、革命家第一号が、湯王といえる。
湯は、桀を倒すと、国の名を殷とした。殷王朝の始まりである。これが、前一七〇〇年頃のことと推定されている。湯王のエピソードとしては、次のようなものがある。何年にもわたり旱魃が続いた。湯王は、それを自分の罪だとして髪と爪を切り、さらには薪の上に乗って、自分を焼こうとした。つまり、人身御供としたのである。すると大雨が降り、人々は餓えから救われたという。この時代、天変地果は王の責任とされていたのである。
その後、殷王朝は湯の子孫が代々の天子として三〇代にわたり続いた。その間に、栄えたり衰えたり、都を遷すなどの出来事があったようだ。この時代にはすでに、いまの漢字の祖先ともいうべき、甲骨文字という文字も存在していた。
そして、殷もまた、その前の夏王朝末期と同様に、次項で取り上げる最後の王。紂王が暴虐の限りを尽くしたため、前一一〇〇年頃に放伐されてしまう。新たな王朝は、周である。このころから、「歴史は繰り返す」ことになるのである。
なお、この殷についても、長い間、実在が疑問視されていたが、二〇世紀になってから発見された遺跡が、殷の時代のものと断定された。出所:『覇王列伝』大陸の興亡編
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